⑩ 迷宮メシ
思えば俺の迷宮料理は二人の冒険者、ユグドラとセフィを切っ掛けに始まった。
彼らが冒険を進めるにつれ、迷宮料理も種類を増やし進化していった。
クルミ、魚、酒、肉、ミルク、蜂蜜、卵、パン、カレー。
貧相だった庶民の食料事情は急速に改善し、石胡桃なんて一般家庭が自家生産しているぐらいだ(金物屋は家庭用クルミ割り機を大量に売りさばいて大儲けしていた)。
前代未聞、破竹の勢いで迷宮を進むユグドラとセフィは今や迷宮の最前線を行く超一流冒険者。もしや長年未攻略だった迷宮がついに踏破されるのでは、と街の内外から注目が集まり、王様との謁見の機会も賜り激励の言葉と魔道具を貰ったそうだ。
いやあ、俺は最初から知っていましたよ。コイツらは「やる」冒険者だってね。
そんな二人は今朝迷宮最下層の攻略に向かった。四日前に迷宮深層の門番を倒し、二人は最下層への通行権を手に入れ最終局面に向けて英気を養っていたのだ。
迷宮最下層はモンスター跋扈する迷宮の中にあってなお瘴気の濃い魔の領域。
ユグドラとセフィ以前にも迷宮を踏破する英雄と目された冒険者達はいた。しかし彼らはみな迷宮の露と消え、迷宮は未だ健在。
だが先人の挑戦は無駄ではなく、深層の次が最下層であり、迷宮の主がいるという情報はつまびらかにされている。逆に言えばそれ以外何も分かっていないらしい。
弁当に霞肉と爆発卵のミックスサンドイッチを渡して送り出した俺にできるのは二人の帰還を待つ事だけだ。幾多の精鋭冒険者を屠ってきた魔の最下層っていうけど、ユグドラとセフィだぜ? 初めて街に来た日からずっと見てきたんだ。あいつらの強さは良く知っている。
最強冒険者が負けるわけないだろ!
俺が帰って来る二人のためにいつもより気合を入れて料理の仕込みをしていると、準備中の札を下げてある酒場の扉が開く軋んだ音がした。
また文字読めない系の新人冒険者が迷い込んできたのかと顔を出したが、途端に自分の顔から血の気が引くざぁっという音を聞いた。
そこには生気の消えうせた土気色の顔のセフィを背負う、血まみれのユグドラがいた。
「ヨイシさん……」
「ちょちょちょちょちょちょ、どうしたどうしたどうした!? 大丈夫、なワケ無いよな! 医者ー! 医者いないか、医者! 病院行け! ポーション!」
「ヨイシさん。いいんです。それよりもセフィの最後のお願いを聞いてくれませんか」
混乱する俺に、ユグドラは不気味なほど物静かに言った。
ひどく凪いだ静かな声で感情が分からない。ただ俺の頭を冷やし黙らせるには十分な迫力があった。
ただ事ではない。嫌な予感がする。ユグドラの言葉の続きを聞きたくない。
しかしユグドラは容赦なく事実を告げた。
「セフィは僕の分まで最下層の瘴気を引き受けてくれたんです。最下層は……見た事もない、異界だった。僕は倒れたセフィを背負って逃げ帰る事しかできませんでした」
「医者にはとても助からないと言われました。まだ命があるのが不思議なぐらいだとも。セフィの治療魔法は王国一だから、そのセフィが自分で自分を治せなかったならもう望みはない」
「意識を失う直前に、セフィは言いました。『あのクルミをもう一度食べたい』と。だから僕はセフィをここに連れてきた」
「ヨイシさん。僕の幼馴染にクルミを食べさせてあげてくれませんか。それだけでいいんです。それだけで……」
ユグドラは声を震わせ、背を向けて目頭を押さえた。
俺は愕然とした。だが、やるせなさと共に虚しい納得もあった。
ああ、コイツらでも駄目だったのか。
重い足取りでクルミを取りに行こうとする俺の横を、小さな影が駆け抜けた。
振り返るとウカノが顔を真っ青にしてセフィを抱きかかえていた。
「セフィ……? そんな。ユグ、なんとかならないの?」
「…………」
無言で首を横に振るユグドラに、ウカノは体を震わせた。
冒険者の中でセフィは一番ウカノと仲が良かった。今までも常連の冒険者がある日から突然店に来なくなる事はあった。
だがこれは……
ウカノはセフィを抱きかかえ、ぽろぽろと涙を零した。
ユグドラは辛そうに俯く。その姿は悲壮そのもので、見ているだけで苦しくなる。
「ウカノ。あのな、セフィは最後に…………?」
それでも言わなければならない。
声を絞り出した俺は異変に気付いた。
セフィの顔色が早送りのように急激に赤みを取り戻している。
全身に広がる毒々しい紫の痣は見る間に引き、止まっていた呼吸が再開し胸がゆっくり上下を始める。
唖然とする俺達の前で、セフィはスヤスヤと気持ちよさそうな寝息を立て始めた。
セフィは治っていた。
セフィの胸に落ち、神々しい燐光と共に身体にしみ込んで消えたウカノの涙を見たユグドラが呆然と呟く。
「この癒しの力は壁画にあった女神の……? ウカノ、君はもしかして」
「私はウカノ。酒場の看板娘で、お父さんの子供」
「……そっか。そうだね。ありがとうウカノ。君がいてくれて良かった」
一連の光景を見ていた俺は心底びっくりして言った。
「ウカノ、お前癒しの魔法使えたのか? すげー!」
ウカノは店のお手伝いできて魔法も使えるのか。偉いなあ。
ユグドラはへなへなと崩れ落ち、寝ぼけまなこで起き上がりびっくりしているセフィと共に笑い合い、それから泣いて抱き合った。
しばらくそうしていた二人だが、そばで見ている俺達を見て咳払いし居住まいを正す。
二人は迷宮最下層で何を見たのか教えてくれると言い、ウカノは二人が話し始める前に疲れたから寝ると言って二階に上がった。
そして生死の境を彷徨ったばかりのセフィを休ませ、ユグドラは語り始めた。
「最下層の空は夕方のようでした。薄い赤色の空はなんだか物悲しくて。夕暮れの空の下、一面に広がっているのは妙な植物が生えた畑か……人の手で整備された沼地のようでした。僕は植物を一束刈りとってしまっておきました。僕たちが最下層から持ち帰られたのはコレだけです」
ユグドラがテーブルの上に置いた植物を見て、俺は言葉も出ない衝撃を受けた。
そこにあるのは美しい黄金色の稲穂だった。
ああ。
では、それならば、これがあるというならば、迷宮最下層の景色は。
「畑の間にはずっと道が続いていて、」
秋の夕暮れ、豊かに実った田んぼの間をあぜ道がどこまでも続いている。
「畑の上には半透明の四枚羽の虫が飛び回っていました」
赤トンボはさぞ秋の田に映えるだろう。
「畑に混ざって枯草屋根の家がぽつんとあって、」
茅葺屋根の古民家は田んぼの持ち主のものに違いない。
「庭に生えた木は赤い実をつけて、黒い鳥がそれをついばんでいたのを覚えています」
カラスは柿が好きだもんな。
「異様な世界でしたけど、足を踏み入れた瞬間に分かりました。畑の間にずっと続く道の先。遠くに見える赤い妙な形の門。あの先に、迷宮の主がいるのだと」
終着点の鳥居。それが意味するものが、俺には分かった。
俺にだけは分かった。
鳥居はウチとソト、人の世と神の世を分ける隔絶の門。
「そこ」から先は神の領域なのだ。
「僕たちは警戒しながら先に進もうとしたけど、いつの間にか瘴気が呪いみたいに纏わりついていて……それで、僕らは敗走しました」
悔しさを滲ませ、そうユグドラは結んだ。
その目には決意があった。
セフィを見る。
危うく死にかけた彼女の目の炎は燃えていた。
彼らの心は折れていない。
なるほど、分かった。
冒険者が冒険に行くというのなら、料理人は料理を作るだけだ。
俺はテーブルの上の稲穂を手に取り、二人にできる限りの言葉をかけた。
「俺はこれで料理を作ろう。最下層にこれがあったのにはきっと意味がある。もう一度挑むなら俺の料理を食べていってくれ」
「でも、気をつけろよ。迷宮の主の強さは間違いなく想像を絶する」
「俺には分かるんだ。門の先には――――」
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きっと神がいるから。そう酒場の料理人は言った。
冒険者達は料理人の心尽くしを手に迷宮最後の未踏地へ向かい、鳥居を超えた。
鳥居の先で待っていた醜悪な怪物を、冒険者達は「神」と呼んだ。
神々しき神威など疾うの昔に失って、悪辣と妄執だけが残っていたのに。
死闘の末、冒険者達は成り果ての怪物を討ち倒した。
消えゆく怪物を冒険者達は再び「神」と呼び、祈った。
怪物は声にならぬ末期の声を上げ、消えた。
そして小さな小さな、か弱く生まれたての純粋な神性が残った。
迷宮は崩れはじめた。
冒険者達はボロボロの身体を引きずり崩壊を背に帰途を駆け抜けた。
そして凱旋した真の英雄達を、冒険者酒場の料理人は最高の料理で手厚く迎えた。
「お帰り、冒険者!」
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迷宮食材名鑑No.10 米
迷宮最下層で採れるなんの変哲もない稲穂。
それは拍子抜けするほどただの米で、涙が出るほどただの米だった。
酒場の主人はその調理法をよく知っている。
『はじめちょろちょろ中ぱっぱ、ぷうぷう吹くころ火をひいて、赤子泣いてもふた取るな』
呪文を唱えながら炊き上げられた白飯は、食べた者に迷宮最下層の魂を蝕む瘴気を跳ねのける効果をもたらす。
白飯には何の魔法効果もない。
きっとただただ美味しく、魂にまで響く美味しさが魂を守っているのだろう。