後編
────これは葬式だ。
パチパチと音を立てる炎を見ながら、エレノアはそう思った。
手元には紐を解いた秘密のノート。
それを一枚一枚、そうっと火に焚べる。
紙が入れられるたび、エレノアの情熱の最後の灯火のように火が強くなった。
秘密のノートを燃やすため、エレノアは夜に抜け出して庭園の奥で大きめの缶に火を焚いた。人目につきにくいし、水場が近くにあるので後片付けがしやすいからだ。
就寝用の部屋着で一人、炎を見つめる。紐を解いてきた秘密のノートはなんだか重く感じた。
「虚しい……」
紙を炎に入れるたび、思い出が走馬灯のように蘇る。
走馬灯は間違っているか?
──いや、正しい。
だってこれは葬式なのだ。エレノアの思いを昇華するための儀式。
ノートの一番古い記載は、アーノルドとの婚約が決まった時のものだ。11歳だった。
騎士見習いとしてすでに出仕していたアーノルドに密かに憧れていたエレノアは、父王から婚約を告げられて心が躍った。たまには気の利いたことをしてくれるじゃないかと思った。
そんな気持ちはおくびにも出さず、「どうぞよろしく」と挨拶すると、アーノルドから「殿下と婚約できてとても嬉しいです、これからよろしくお願いします」と笑顔を向けられた。
迸る愛を持て余したエレノアは、その日の夜、初めてポエムを綴ったのだ。
喧嘩をしたこともある。
些細なことだった。体調が悪いことを隠して公務に臨んでいたエレノアに気付いたアーノルドがひどく怒ったのだ。
王女としての仕事を第一と考えるエレノアに対し、彼は「ご自分の身体を大切にしてください!」と怒鳴った。
心配してくれることはありがたいが、こちらにも事情はある。腹の立ったエレノアは、アーノルドの嫌なところを書き出した。10個あった。
嫌なところだけというのも……、と思い、好きなところも書き出した。
108個あった。さすがに自分でも引いた。
設定違いの多くの恋愛小説などは、書いたのは自分なのに何度も読み返した。気に入った話はメリルに見せ、感想をもらったことも。
そんな思い出の数々が煙となって消え去っていく。
エレノアの頬を、つ、と涙が伝う。
「うっ、うう……」
この葬送を終えて新たな自分に生まれ変わるのだ。
そう思うものの、これまでの思いの積み重ねが未練となって心に残る。
泣きながら紙を火に焚べていると、急に風が強く吹いた。
「あっ!」
バサバサと音を立てて、缶の中から火のついた紙が舞う。同時に、炎の勢いが増し、火の粉が飛んだ。
そこから、芝生に火が移った。
「きゃあっ! 大変!!」
慌てて、持っていたノートを離れたところに置いた。
羽織っていたストールで火が飛んだ芝生をバサバサと叩き、消火を試みる。火がいくつかの場所に点在し、エレノアは焦った。
「水!」
準備しておいたバケツの水を勢いよく撒いた。
缶からジュッと音がして、同時に黒い煙が上がる。風がエレノアの方に吹いてきて、煙に巻かれた。
「ごほっ、ごほごほっ」
手で煙を払い、残った水で芝生の火を消して足で踏み潰せば、なんとか落ち着いた。
「はあ…………」
散乱した紙。辺りは水浸しになり、缶からは煙がわずかに上る。
自らの髪はボサボサで靴はドロドロ。煙で自分が燻されてしまい、きっと顔も汚れているだろう。
エレノアは脱力してしゃがみ込んだ。散らばった紙を集める。燃やすことができたのはわずかで、大半は残ったままだ。
なんだか情けなくなり、先ほどとは違う涙が溢れてきた。
感傷に浸りながらノートを燃やしていたのに、あやうくボヤを起こすところだった。
また、ノートを燃やすことすらも満足に出来ない自分に落胆する一方、ノートが全て無くならなかったことに安堵している自分もいる。
複雑な気持ちに、頭が混乱した。
その時。頬を拭っていると、複数の足音が近付いているのに気付いた。
「殿下!」
姿を見せた人物に、エレノアは気を失いそうになった。アーノルドが騎士服で駆けてきたのだ。
アーノルドはエレノアの姿を目にして一瞬驚いたような顔を見せた後、振り向いて「来るな!」と声を張り上げた。
「問題ない、下がれ!」
巡回当番だったらしい。後ろから他の騎士たちもついてきていたようで、足音が遠ざかる。
それを見送ったアーノルドは、エレノアに近付いた。
「殿下」
「アーノルド……」
「煙が上がったのに気付いて来たのです。こんな夜にどうなさったのですか? 怪我は?」
首を横に振る。
アーノルドはほっとしたように息をついてその場を見回し、散らばっていた紙を一枚拾った。
「ん? これは?」
「あっ!」
「エレノア・ロシュ……」
「見ないで! お願い見ないで!!」
エレノアはアーノルドに飛びついて紙を引ったくった。ぐしゃぐしゃと丸め、手の中に隠す。
だが、嫁いだ後のサインの練習を見られてしまった。
アーノルドは目を丸くしてエレノアを見つめた。
二人の間に沈黙が流れる。
「……殿下……、エレノアさま」
「…………ごめんなさい」
言い訳などできるはずもない。
煙の上がった缶の周りは水浸しで、何かを燃やしていたことは明白。さらに燃えた紙の一部を見られてしまったのだ。
エレノアはぽろぽろと涙を流した。
「……ごめんなさい、アーノルド。わたくしは……、わたくしは他の人に見られたくないノートを持っていて、それを燃やそうとしていたのです」
「ノート」
「ええ……、詩、歌など……人の悪口を書いていることもありました」
「…………」
顔を上げられず、アーノルドがどんな顔をしているのか分からない。
きっと引いているに違いない。エレノアは弁明を続けた。
「そ、それだけではありません……、しょ、小説なども書いていました。ごめんなさい。それらを燃やしてしまおうと思ったのです……」
黙ったまま俯いていると、草を踏む音がした。
顔を上げると、アーノルドは秘密のノートの幾何学模様の表紙を拾って、汚れを落とすように優しく撫でていた。
「エレノアさま、大切なものなんじゃありませんか?」
「‥‥大切にしていましたが、もういいのです」
「よくありません」
立ち尽くすエレノアを尻目に、アーノルドは丁寧に紙を集め始めた。一枚一枚拾い、しわを伸ばし、重ねて綺麗に揃えて。
その様子をエレノアはぼんやりと眺めていた。
「はい」
大切なノートだったものたちを渡されて、受け取る。
それからアーノルドは着ていた騎士服の上着を脱ぐと、エレノアの肩にかけた。
「エレノアさま」
「…………」
かがんだアーノルドに顔を覗き込まれる。
エレノアは恐る恐る目線を合わせたが、彼は呆れたり怒ったりした様子ではなく、優しく微笑んでいる。
「…‥呆れていないのですか、アーノルド」
「まさか」
頬を撫でられる。
拭われたのは、煤か、涙か。
「エレノアさま。誰しも人に言えない秘密はあります。それに頭の中は皆、自由です。誰にも咎められない。何を考えても想像しても良いんですよ」
「でも……」
「あなたは普段から真面目で立派です。だから、いや、そうでなくたって、好きなことをして大切なものがあって、それを誰に非難される必要があるのですか」
誰にも咎められることはない。
頭では分かっていても、それでも後ろめたく、恥ずかしい気持ちはある。
渋い顔をしたエレノアに、アーノルドは苦笑した。
「でも、あなたの秘密を私だけが知ってしまったのは不公平ですね。なので、共有しましょう」
そう言ってエレノアの肩にかけた上着の胸ポケットを探り、そこに入っていた騎士団手帳を取り出した。近衛隊の身分を証明し、その隊則などが記されているものだ。
アーノルドは手帳の後ろの方のページを開き、エレノアに示した。
そこには、長い首が3本、ゴツゴツした鱗に覆われた見たこともないものが描かれていた。
────これはなんだ?
「……アーノルド、これは?」
「これは『俺が考えた一番かっこいい怪物』です」
「はっ?」
二度見した。
確かに、怪物と言われたら怪物だ。獣のように這いつくばった格好で手足は2本ずつ。鋭い爪や歯が生えている。
これを、アーノルドが描いたと?
「それからこっちも。右下見ながら、始めのページからめくっていってください」
一度手帳を閉じ、パラパラとめくる。
「動いている!」
ページの右下に小さく絵が描かれており、めくることでそれが紙芝居のように動いて見えた。勇者らしき剣を持った人物が、先ほどの怪物相手に戦っている。
「俺は強くあれと育てられてきましたが、絵を描くのが好きなんです」
「すごいわ……」
「こっそり描いていたので、誰にも教えたことはありません。エレノアさまにだけです」
エレノアはまた手帳の始めに戻ってパラパラしてみた。勇者が動く。躍動感がすごい。
アーノルドが絵を描くのが好きだということは知らなかった。
彼はずっと騎士として身近におり、不真面目な態度を見たこともなければスキャンダルを起こしたこともない。
いつも完璧で、そういう意味では外で見せる部分は自分と近かったと言える。
だからこそ、婚約者としてたまに呼ばれる「エレノアさま」という言葉や、ふと見せる素の表情に影で悶えていたのだ。
なので秘密を共有してくれたのはとても嬉しい。
だが──
「で、でも芸術的な感性があるのは素晴らしいことだわ。わ、わたくしのような恥ずかしいことなど何もないじゃない!」
「エレノアさまだって物語をお書きになるんですよね? 別に恥ずかしくないと俺は思いますよ」
そんなことない。
エレノアは顔を赤くしてぎゅっと目を瞑った。
「恥ずかしいわ! だって、わ、わたくしの物語なんて、キ、キスシーンだってあるのよ!」
「俺だってちょっとえっちなの描きますよ」
「え〝っ!!??」
「…………ぷっ、あははははは!!」
目を剥いて固まったエレノアを見て、アーノルドは声を上げて笑い出した。
彼にしては珍しく、腹を抱えて笑っている。いつもは穏やかに微笑んでいるだけなのに。
「はははは! ふふ、すみません、ふふふ」
「…………からかいましたね」
「え? いえ、本当ですよ、ふふ、ははは」
「………………」
張り合うような言葉もそうだが、笑う彼を見ていたら、エレノアは「なんだかもう別にいいか」という気になってきた。
一番知られたくなかった相手が、全然気にしていないのだ。
気負っていたほど大袈裟なことでもないようなことのような気がしてくる。いや、見られて恥ずかしいけれども。
でも、当初感じていた悲壮や絶望感は消え去っていた。
エレノアは肩の力を抜いて、アーノルドが集めてくれたノートの残りを抱きしめた。
しばらく笑ってから、アーノルドは「さ、帰りましょう」と言って辺りを片付け始めた。もう夜中だ。エレノアもそれを手伝う。
「エレノアさま、うちに嫁いで来る時にはノートを持ってきてくださいね。鍵付きの机をちゃんと用意します」
「好きに書き続けていいということ?」
「もちろん。好きなことをしていいんですよ。何も制限しません。家族になるんですから」
心が凪いだ。
家族に、なる。
「分かりました。そうします」
「ええ。あ、そうだ。エレノアさまが書いたお話に俺が絵を描くってこともできますよ?」
「…………それはちょっと」
複雑な顔をして拒否したエレノアに、アーノルドはまた「あははは」と笑った。
しかし、それからしばらくして。
挿絵入り小説がメリルの元に届き、その連名を見たメリルは度肝を抜かれたのだった。
《 おしまい 》