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中編


 ──あれは紛れもなく自分のものである。


 エレノアはぶるぶると震えながら、しがみつく柱を砕かん勢いで爪を立てた。


 いや、落ち着くのだ。大丈夫。

 ノートには横方向に帯が結ばれていて鍵がかかっている。そしてその鍵は今、自分の首にぶら下がっている。


「王宮の方のものでしょう? 字を見れば分かるんじゃない? 端っこから覗けないかしら」

「…………固いわ、厳重ねぇ」



 ひやあああああああ!!!!!



 エレノアは心の中で盛大に悲鳴を上げた。メイド達がノートの端をめりりと開こうとしている。

 幸い、ノートの表紙が非常に固いのでめくることに難航しているようだが、二人がかりで開こうとすればじきに破れてしまうはず。


 柱の影から躍り出て「それはわたくしのものなのよ!」と言うにもタイミングが悪い。

 いま姿を現せば、メイド達が王族の私物を検分するシーンを目撃することになる。そうすれば彼女たちになんらかのお咎めがあるだろう。

 なんとかこう、スマートに、穏便に取り戻したい。



「どうした?」


 メイド達に声をかけた人物を見て、エレノアは「ひっ」と息を止めた。

 この世の中でノートを最も見られたくない人物。

 婚約者で近衛騎士のアーノルドである。


 アーノルドは騎士服姿で通りかかったところのようで、ワゴンに近付く。

 封じられたノートの端から中を覗き見ようと悪戦苦闘していたメイドたちは、バツの悪そうな顔でノートから手を離した。


「アーノルド様。こちらどなたかの物が紛れ込んでしまったようで……」

「あまりにも怪しいのでどうしようかと」

「これ?」


 息も絶え絶えになりながら、アーノルドがノートを手にする様子を見つめる。

 もうそんなノートのこと気にせずどこかに行ってほしい。

 今すぐここを立ち去り、さっさと近衛の仕事に戻ってほしい。戻るべきだ。職務怠慢である。


「どう思われます、アーノルド様? こんな不審な模様、見たことがありません」

「怪しいわ、この表紙。気味が悪いと思いません?」

「うーん……」


 死ねる。羞恥と悔しさで死ねる。

 不審で気味が悪いと評された幾何学模様はエレノアが考案、作成した図である。

 当初は無地だった厚紙を表紙にすべく、時間をかけて計算しながら線を入れ、色を施し、好きな印を散りばめて完成させたのだ。

 何たることだ。この緻密で繊細な構図を理解出来ないなんて。しかしながら不気味と思われるのも分かる。つらい。

 歯噛みするエレノアに対し、メイドたちとアーノルドは秘密のノートを撫でたりひっくり返したりしている。


「何か危険な呪いの本なんじゃないかしら」

「アーノルド様、メイド長に報告して上の方のご判断を仰いだ方がよいですよね?」


 不安そうな顔でアーノルドを見つめるメイドたちをエレノアはギリリと睨みつけた。外では見せたことのない、悪魔が宿ったような悪者顔である。

 上に報告などされてあのノートの中身が公になったりしたら、王宮の塔のてっぺんから身を投げるしかない。

 そんなことになる前に、気が狂ったふりをしてここから突撃してノートを奪い返し、逃走するか……。


 エレノアが唇を噛みながら思案していると、アーノルドはノートを手にして胸に抱えた。


「これは俺が預かろう。君たちは心配しなくていい。仕事に戻りなさい」

「かしこまりました」


 だあああああああああ!!!!!!


 身悶えしながら柱に額をぐりぐりと押しつける。

 もうどうしようもない。アーノルドがノートを預かってしまった。

 これから騎士団に回収され、中身を近衛の青年たちに検分され、嘲笑されるのだ。

 表向きはノートを返されるかもしれないが、その裏で「あの姫様、あんなこと考えてるんだ」と冷ややかな目で見られ、王宮中に噂が広まり、皆から「プークスクス」される未来が想像できる。死ぬ。


 アーノルドから婚約を解消されてもおかしくない。

 普段は出来るだけ落ち着いて余計な会話はせず、清く穏やかな交際を心掛けているというのに、実は結婚生活を夢想し、『待て』をされた犬のように涎を垂らしながら期待しているなんて、滑稽すぎる。

 泣ける……。


「あ、殿下」

「ぎゃっ!!」


 よよよと泣こうとしていたエレノアは急にアーノルドから声をかけられて飛び上がった。

 メイドたちから離れて、こちらに気付いてしまったらしい。手には秘密のノートを抱えている。


 エレノアは動揺と緊張で倒れそうになり、バクバクと早鐘を打つ心臓のあたりをぎゅうと手で押さえた。


「は、な、ああ、アーノルド、ごきげんよう」

「おはようございます、殿下。ちょうどよかった。これ、殿下のじゃありませんか?」

「え?」


 そう言って、アーノルドが秘密のノートをエレノアに差し出す。

 秘密のノート。

 エレノアはぽかんとしてそれを受け取った。


「は、え……?」

「やっぱり殿下のですよね。メイドたちが間違って持って行ってしまったようですよ。いまお返ししに行こうと思ってたんです」

「え……、な、なぜアーノルド、これがわたくしのものって……」


 アーノルドは少し恥ずかしそうに視線をエレノアの首元に向けてから、ぽりぽりと頬をかいた。


「ああ、殿下は公式の場ではないとき、いつもそのネックレス着けているじゃないですか。それとこの柄が似ているなと思ったので」


 自分の首元に目を落とす。

 そこには秘密のノートの鍵がぶら下がっている。鍵は服に隠れて見えないが、鎖のチャームは月や星がところどころに付いている。

 ノートの柄を見たアーノルドが、そのことを思い出して関連付けたということだろう。


 どうにも言い表せられない嬉しさに、エレノアは言葉に詰まった。

 普段身に着けているものを覚えてくれていて、しかもそれと似たものから自分のことを連想し、回収してこっそり返してくれるだなんて。

 優しい心遣いがありがたい。感激して涙が出てきた。


「ありがとう、アーノルド……、助かりました。これはとても大切なものだったのです」

「そうですか。見つかってよかったです。……うん? 殿下、おでこどうされたのですか?」


 先ほど柱にぐりぐりと押し付けて赤くなってしまった額を指摘される。


「……何でもありません」


 エレノアは恥ずかしくなり、額を手で隠した。



 ♢



「まあ殿下、それは災難でしたね……」


 秘密のノートの紛失事件から少し経ち、エレノアは友人の伯爵令嬢メリルとお茶をしていた。


 メリルはエレノアの秘密のノートのことを知る唯一の人物で幼い頃からの友人だ。

 メリルも自身の秘密のノートを持っており、二人は互いの趣味のことを共有し合っていた。

 一足早く嫁いだ彼女は出産を控えていて、会うのは久しぶりだ。エレノアは先日の事件のことを報告した。


「そうなのよ……、本当に肝が冷えたわ。いいえ、あのノートがメイド長に渡ったりしたら死を選んでいたわ」

「分かりますわ、死にますわよね……」


 深刻な顔をして、二人で頷き合う。

 結婚してからメリルはとても美しくなった。幸せなのだろう。羨ましい。自分も早く結婚したい。

 そう考えながら、エレノアは気付いた。


「そうだわメリル、メリルは自分のノートを結婚のときどうしたの? 持って行ったの?」


 今は鍵付きの自室の引き出しにしまっているが、結婚したらどうなるか分からない。

 間違いなく今よりもアーノルドの目に留まる確率は上がる。最も見られたくない相手に。

 エレノアが問うと、メリルは神妙な顔で首を横に振った。


「いいえ、海に撒きました」

「なんですって……?」


 絶句である。

 メリルは遠い目で話し始めた。


「あの秘密のノートは私の親友でもあり心の支えでもありました。しかし、結婚したらそういった夢を考えることは出来ないだろうと思ったのです。旦那様に見られるわけにはいきませんし」

「分かるわ」


「ですから、捨てました。結婚前最後に家族で船旅に出たのですが、その船の中で夜、ノートを一枚一枚破って海に捨てました。私の思いは海に流して、新しい自分になるために。泣けましたわ……」

「なんてこと……」


 暗い船の上、涙を流しながらノートを破り、海に放つ。

 潮風に乗って舞う紙。水の中に沈んでいき、メリルの思いが霧散する。

 想像したら、それはそれで哀愁的な感じがちょっと素敵だなとエレノアは思った。メリルに失礼かと思い、口には出さなかったが。


「結婚したら忙しくなって、以前のようにノートに綴る時間もありません。子どもが生まれたらもっと忙しくなりますし。私は海に撒いてよかったと思っていますわ」

「そうなの……」


 理解出来る。

 秘密のノートを嫁ぎ先に持って行けば、先日のように中身が露呈しないかをずっとひやひやしながら過ごさなければならない。

 であれば、嫁ぐ前に処分しておいた方が気持ちは楽だ。



 ――――燃やそう。


 そして清い身体になって、アーノルドに嫁ぐのだ。



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― 新着の感想 ―
[一言] ホンマのホンマにあと一回なのかは置いておいて。 ここまでみたいな他愛ない主人公の心の動き(ここでは大大大うろたえで、作品によって切なかったりきゅっとしたりなどなど)を読むのが楽しみで作者様の…
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