赤い大きな橋
「ここのラーメンが好きで、よく来たなぁ」
「そうでしたか」
私は相槌に徹して真っ赤なスープにレンゲを浸すと、溶けてしまうかと思うほど、灼熱で底が知れない。社長は割り箸のささくれを研ぎ落とし、真っ赤な麺を啜っていた。意を決しての覚悟だったが辛くはなく、ぐっと親指を立てれば、返してくれるのが優しい主人だった。弟子の作ったチャーハンは主人に一歩及ばないが、餃子は肉汁が溢れ、ランチタイムも悪くないと思った。私は瞬く間に平らげ、遅れて東雲社長が食べ終えて水を飲み干していた。
「柏木さん、わが社が富田自工と取引がない理由を知っていますか?」
「いいえ、勉強不足で申し訳ありません」
ウォーターピッチャーからコップに水を注ぐと、主人は東雲社長に甘いバニラアイスのサービスをしていた。考えたこともなかったが、自社開発だからだろうか。私はカウンターテーブルの木目を凝視して考えてしまう。何かが出てきそうで出てこない。元は富田系列の部品屋で、どうして取引が途絶えたのか、住井への傘下入りが原因だったように思う。それ以上は思い出せない。
「半世紀以上も前ですが経営危機に陥った富田自工への融資を住井銀行が断ったからです。傘下入りした途端に受注を切られ、もう、それだけで苦労しました」
東雲社長と誰かが重なっていく。ぼやけた輪郭。世界第2位の自動車メーカーと断絶覚悟で傘下入りを果たしたのは何故だったのか。私は東雲電機産業の何も知らず、急に恥ずかしくなってしまった。
「今は、富田自工と和解できないかと模索しています」
***
東雲社長の話がひと段落すれば、これまたサービスのりんごジュースが流れてきて、次から次へとVIP対応だった。客足が途絶え主人は新聞を広げていたが、NHKニュースが日課なのかボリュームを上げた。行楽地の特集をしていて、今年の社員旅行について会合があったことを思い出した。沖縄と北海道、京都・大阪、伊勢・志摩で割れていて、石崎航空機の国産ジェット機で国内旅行だった。納期遅れで受注が剥離し、民間航空機は戦後の悲願であって心動かされた住井の会長がポケットマネーで購入したとか。何かと住井財閥と石崎財閥は助け合いをしていた。目的地については住井の保養所であれば宿泊の心配もなく直前まで話し合いができた。
「私は伊勢・志摩を推していますが、社長でもこればかりは決定権がありません」
東雲社長も同じことを考えていたのか、社員旅行の話を振ってきた。私は北海道に行きたい。伊勢神宮ぐらいしか見所がないではないか。そもそも、鳥羽と志摩の違いがわからない。水族館と真珠島は鳥羽で、スペイン村が志摩か。それ以上に牡蠣でノロウイルスに苦しんだことがあって避けたい。
「海鮮類で楽しみなのは伊勢海老ぐらいだけど、和牛が安くて美味しいらしいの」
反伊勢・志摩派の私だったが松坂牛で傾きだした。北海道の観光資源は海鮮類と繁華街であって、魚介類はこの町で事足りていた。それにススキノでボラれでもしたら面目が立たない。北海道であれば飛行機で行く必要もなく、経費削減で雑魚寝の船旅にでもなってもらっても困ってしまう。芋づる式に問題点が明らかになって、北海道はバイクで一人旅にしようかと揺らいだ。仮に伊勢・志摩であっても茨城空港から中部国際空港セントレアを経由して鉄道よりも、在来線・新幹線と私鉄特急を乗り継げば十分移動可能ではあるまいか。通常大人数であれば大型バスが一般的だ。
「私も伊勢・志摩に賛成ですが移動手段が飛行機だと問題があるかと……」
「利用者の意見が欲しいと石崎航空機から依頼を受けていますので、これは曲げられません。それに、住井グループの破魔矢発動機も航空機業界への参入を模索していて、東雲と競合すれば合併の可能性もあり住み分けが必要です」
言い方は優しかったが不穏な危機感が含められていた。住井には一業種一社の原則があって、東雲は自動車業、破魔矢発動機はその他動力系業を担当しているが、実情としては自動車業界が特殊だったとの見方も根強い。東雲と破魔矢の規模は比較するまでもなく飲み込まれ独立性を失ってしまう。勉強不足の私でさえ金属製錬業での政界をも巻き込んだ大戦争を知っていて、住井は同じ間違いをしないことも理解していた。季節感の欠片もないかき氷店からレポーターの中継は、頭痛のしてしまう古典的な構図だった。大きな栗の入ったかき氷が人気とは都会は異常気象らしい。天気予報になって一週間全て晴れマークだった。
「柏木さんは雨男ですか? それとも晴れ男?」
東雲社長は天気の話を振ってきた。本当は私が社長に気を使わなくてはならないのではないかと後悔したが、何かが違う。記憶を遡り、家族旅行、修学旅行、運動会、どれも晴れ時々曇り程度だった。
「考えたこともありませんが、雨だったことは少ないです」
「雨は嫌いですか? 雨男も雨女もいますから」
誘導ではあったが嫌いとは口が裂けても言えない。東雲社長は安心したような表情をして、私はよく分からないままだった。新入社員の研修で雨に見舞われたことを思い出したが、あのとき誰か雨女でもいたのだろうか。
「これはまだ決定事項ではありませんが、社員旅行を石崎財閥と一緒する計画が日水会で持ち上がっていました。石崎の木曜会では承認済みだそうです」
「日水会とは何でしょう?」
「住井財閥は買収対策で株式をグループ内で持ち合っています。比率は年々低くなっていますが、大株主が集まって問題の審議や方針決定をしています。その場が日水会で不定期ですが木曜日に開催されます。石崎も日水会と同じ木曜日に開催されます」
財閥について庶民には到底理解できるものではない。東雲社長も参加していそうな口ぶりで、貧相な想像力を働かせても精々、舞踏会だった。社長も踊るのだろうかと被りを降り打ち消す。決まって金曜日に何かがあるのは、日水会の決定に従っているのだと理解した。
「私としては石崎財閥と社員旅行を一緒しても楽しいとは思えません」
「そうなのだけど、断りづらくて……、重工系は出会いが少ないそうです」
「身内であっても、社外の人間の出会いの場にされては困ります。それに石崎は社内に結婚相談所を設けていて、そこで探せばいいじゃないですか」
「私もそう思います」
理系美女は理化学研究所の就職が多く別の世界の人たちで弊社には何の利益も見込まれなかった。可愛い娘がいれば会いたいものだ。
「……この子はどう思いますか?」
「めっちゃ、可愛い!」
私の願いが通じたのか東雲社長はスマホに一枚の画像を表示させた。大和撫子を彷彿とさせた黒髪。吸い込まれてしまいそうな瞳の黒。髪型は内向きカールのショートボブで、少し不機嫌なのか眉を寄せていても可愛らしく、さながら堕天使だった。その何色にも染まらない彼女は孤高で、惹かれてしまう。あまりにも嗜好と一致していて素で反応してしまうほどだった。何かのプロフェールで結婚相談だと思った。
「石崎財閥の箱入り娘、石崎朱莉ちゃんです」
「社員旅行で彼女は一緒ですか?」
間入れず反応して石崎の娘に興味を示した私が気に入らなかったのか、東雲社長は画面を暗転させた。主人は取り扱いのないはずの豚骨でも砕いているのか地響きが届く。他の従業員は外の喫煙所へ避難して行った。埃の詰まった換気扇が轟々と荒々しく唸り、テレビから大根役者の作ったような笑い声があざ笑うかのように木霊していく。逆鱗に触れてしまったのか息苦しく、喉が異様に乾いた。私は正面だけを向き、怒りが過ぎ去るのを永遠と待ち続けた。失言だったのかさえ分からず、何が何だか分からない。
「朱莉は来ません、来させません。そう伝えておきます」
その言葉に対する回答は思い浮かばない。冷房は懸命に怒りを冷やし続け場を取り持とうとしていた。しばらくの沈黙があって、ため息とも深呼吸とも判断できない何かが吐き出され、東雲社長は主人にタクシーの手配をお願いしていた。化粧室へ行っている間に主人は「東雲さんと石崎は昔ちょっとあったから……」とだけこっそりと教えてくれた。タクシーが到着して「駅まで送っていきます」と社長は普段と変わらぬ調子であったが、地方と車内の息苦しさは似ていて、苦しかった。
***
平日午後の駅は閑散としていて、待機中のタクシーと回送のバスだけが停車していた。このまま自宅に戻るか、鉄道で隣町へ行くか迷い、自動販売機で珈琲を購入して待合場のベンチを即席のカフェとした。色違いのクッションが並び、地元から愛されていた。大きな時刻表を見上げて確認すれば、複線30分間隔の運行なのだから午後からの予定を考える余裕は十分にあった。ロータリーは整備されていて、観光案内所や簡易ながらお土産屋もあり観光客を集めていた。問題として駐輪場はあっても駐車場がない。徒歩10分圏内に無料の町営駐車場はあるが、想像以上に遠く利用者は少なかった。小さな私鉄ながら、補助金を活用し投資を進めていたが、未だに切符しか利用できない。改札機が元からなく、駅員が切符を回収していて、中古が市場に出るまでは不便を強いられそうだった。備え付けの観光雑誌をめくれば、この駅はレトロを売りにしていた。写真と実物の違いは別として、地元民としては最新の設備と快適な車両が欲しい。線路幅はJRと同じく技術、資金的にも導入は可能だと思う。観光資源の乏しい町で文句を垂れても仕方がないが、旅行者は何に魅了されて訪れているのか気になっていた。近くの踏切が降りたのか、遠くから規則正しく通過を知らせていた。しばらくすれば人が吐き出されていく。友達とおしゃべりに夢中な女子高生は単語帳をめくる男子高校生の背を叩き話しかけていて、高価な腕時計をした営業マンは電話をしていた。私の地元はここではないので、大した思い出もなく誰とも重ねることができない。
「……堕天使」
それは突然訪れた偶然の出会いだった。重量物を担いだ黒タイツにリクルートスーツの少女が切符を駅員に差し出すと懸命に何か話しをしていた。「ありがとうございます」と蚊の鳴くような声がして、改札を抜けた少女は公衆電話があったらしい空間で準備を始めていた。荷物はアンプだったらしくマイクと初代WALKMANを繋げ、カセットテープを入れると巻き戻していた。ラベルには『オリジナル 相合傘と悲恋』と可愛らしい小さな文字で書かれていて興味を引く。改札口には私しかいない。前奏の旋律は穏やかなピアノで、私は次第に世界に沈んでいく。少女は静かに出番を待っていた。それは、風に揺れる花のように可憐で弱々しく、心をかき乱した。
通り過ぎていく人々
忘れ去られ泣いていた
雨になれば大泣きして
晴れてしまえば置き去りにされた
それでもあなたの帰りを待ちました
風に流されて心が折れてしまう
道端に置き去りにされて
あなたに捨てられました
肩を濡らして2人歩いた帰り道
こっそりとキスをしましたね
あなたが欲しいものは何ですか?
私はあなたを満たせない
鳥のさえずりが悲しくて泣きました
おいてかないで一緒にいて
私はそれだけを願いました
そばにいられるだけで幸せでした
あなたの願いは何ですか?
同じ願いを持っていますか?
あなたは通り過ぎて行きました
私は傘を閉じました
どうして雨は冷たいの?
あなたは答えてはくれません
どうか一緒にいて
おいかないで
いかないで
長い睫毛、何かを愛おしむ儚げな黒い瞳は魅惑の魔力があって生気を吸い取られていく。歌声には水晶の透明感と、真珠の純白さがあって、薄汚れてしまった私の心には毒だった。微かに少女の口角が上がって、恥ずかしそうに一礼をすれば、内股で靴は西欧の人形のように艶やかで、苦しかった。私が捨ててしまった何かを持っていて、醜い自分は悲しいほど惨めで、悔しい。だからこそ、大きな拍手で少女を賞賛した。歌い終え、少し荒くなった呼吸は色気が感じられ、心を奪われた。
「thank you」
少女の路上ライブが1曲だったことが名残惜しい。夜逃げ同然に荷物をまとめ町へ消えていく。私は余韻に浸りながら帰宅して、記憶に残った歌詞をネットで検索しても、少女が誰なのか分からない。頭のなかで何度も繰り返したメロディ、少女の路上ライブは強く強烈に記憶され忘れられそうになかった。急になつきちゃんに会いたくなって、定食屋に行くか迷う。寝返りを打って、天井を仰げば常連なのだから夕餉に行っても問題ないだろうと自分を説得させた。洗い終わった洗濯物を干して、食器を片付けて、財布の中身を確認して、コンビニで現金を下ろそうと思った。会社支給の携帯電話に着信はなく、緊急の用件はなさそうだ。自動掃除機に部屋の清掃を一任すれば準備が整い玄関で靴を履いた。後ろを振り返り、寂しさから猫でも飼おうかと思いつく。それでも、戸締りをして、エレベーターに乗り込むころには忘れていた。
***
町を歩けば銀杏の葉っぱが絨毯のように積もり、子どもが舞い上がらせていた。木枯らしは猛威を振るい、木々は葉っぱを散らしていく。冷暖房完備の職場は季節感を麻痺させ、春夏秋冬が目まぐるしく巡るだけで、四季の感動を失ってしまった。社宅が庭園付きであれば風情を感じられたかもしれない。味覚の秋なのだから、定食屋のなつきちゃんに接待をしてもらおう。営業中の立て札。暖簾で隔たれた店内では主人が暖かく出迎えてくれた。同時に誰かが飛び出して行く。三つ葉のクローバーのキーホルダーが落ちて拾い上げても当人の姿はなかった。さらに誤算だったのは、激辛ラーメンをなつきちゃんが啜っていたことだった。ランチと同じ席で既視感に見舞われた。リクルートスーツのなつきちゃんの隣の席には食べかけの激辛ラーメンとコップ。お箸は床に落ちていた。他人であれば一つ飛ばしに着席するのだから、知り合いと来ていたのだろう。主人は気を使ったのか悟られないように器を片付けようとしていたが遅く、なつきちゃんは諦めたのか私をその席に招いた。
「たった今まで、上京した友人が就活で帰省していて会っていました」
「喧嘩でもしたのかい?」
「『ロミオとジュリエット』の劇を一緒に鑑賞して、感想をお互いに話し合っていましたが、貴族の娘は平民と付き合うことができるのかと言い合いになりました」
「で、怒って帰っちゃったと」
「はい。彼女は自分の境遇に重ねてしまったのだと思います」
『ロミオとジュリエット』は町の文化センターで公演している劇でかなり人気らしい。寺本君が何度か見に行って感想を聞いていた。原作とは違い様々な改変がされていて、身分差の恋の物語にまとめられているそうだ。年配者であれば『愛染かつら』だと思うだろう。感情移入したのであれば、なつきちゃんの友人は、きっと高い位で、庶民とは違う人生を歩んできたか、庶民で高嶺の花に恋をしているかのどちらかだ。他人の喧嘩に首を突っ込むと碌なことにならないが、このまま縁が切れてしまってはいけない。居合わせてしまったのだから、解決の糸口ぐらいは導き出したかった。
「なつきちゃんはどの立場で意見して相手を怒らせたの?」
「喧嘩の原因の検討は過去の事象です。氷山の一角です。それを考えても未来はありません。それに浦島さんに私たちの根底にある感情を理解することはできません」
虫の居所が悪かったのか、なつきちゃんに怒りをぶつけられて胃が痛い。ただ、「わたしたち」であれば、雲の上の彼ではない気がした。もし、その友人が「石崎朱莉」であれば、財閥の令嬢の立場に苦悩があって、悲恋の劇に共感してしまったのかもしれない。なつきちゃんは感情をぶつけたことに罪悪を感じたのか俯いてしまった。
***
裏メニューの焼け石で沸騰した激辛ラーメンの汁が四散して麺は焼けて乾麺となりおこげができていた。そこにチャーハンを入れて謎の激辛リゾットが出来上がり、なつきちゃんは無表情で口に運んでいた。私は半助をつまみに酒に溺れていた。表彰されたことさえ忘れて、午後には東雲社長の逆鱗に触れてしまい、夕方はなつきちゃんの怒りを受けてしまい散々な1日だった。誰かに褒めて欲しい欲求は満たされない。
「……うなぎの蒲焼の頭って骨があって、硬いし、美味しいですか?」
「関東じゃあまりないけど、安くて酒と合うから好きだ」
「そうですか。近所の有名な鰻屋から仕入れています。私もそこの丼は好きです」
うなぎは関西と関東で調理法が違うことで有名だ。背開き腹開きの他に、関東風は蒸すので頭部は切り落としていてない。だが、関西風は直で焼くので、こうして安価にうなぎをつまみに酒を飲めた。独特の苦味と骨が多いので、好き嫌いは分かれるが私は好きだ。うなぎのタレが染み込んでいて見た目が悪く、なつきちゃんは懐疑的な視線を送っていた。
「なつきちゃんの友人は泊まる場所決まっていたの?」
「友達は母方の実家が旅館なので大丈夫です」
「恋愛ごとは別にして明日には仲直りしなよ」
「大きなお世話です」
なつきちゃんはそっぽを向く。ここまで意固地だとは思わなかったが、声色が違いきっと明日には会いに行くことだろう。そして、「石崎朱莉」は誰に恋をしたのか気になった。もし、なつきちゃんの立場が石崎財閥と同等であれば、私もまた、選択を迫られてしまう。この均衡のとれた客と店員の関係を維持できるだろうか。私はこの子をどのように思っているのだろう。替え玉でご満悦ななつきちゃんは、主人から次から次へサービスの品を受け取り、バニラのアイスクリームにブルーベリーソースを追加して、スプーンですくい上げていた。
「浦島さんと、こうして食事をするのは初めてだね」
「いつもだったら、なつきちゃんは店員だからな」
「……もし、今日、このまま、帰りたくないって言い出したら、どうする?」
「楽々トラベルでビジホを検索して、別々の部屋に宿泊して朝には解散だ」
「……いじわるぅ」
なつきちゃんは頬を膨らませ、私は笑い飛ばした。
「浦島さんは、焼肉で自分の育てた肉を取られたらどう思いますか?」
「そりゃ、怒るさ」
「私も怒ります。あとから来て横取りされては困ります」
焼肉ではよく焼いてから食べる派なので、横取りされることは多い。だが、なつきちゃんの言い方は焼肉についてではないことを理解した。彼女は独占欲が強いのかもしれない。連続性も脈略もない会話が未練がましく長々と尾を引く。それでも、主人が暖簾を店内に片せば閉店時間だった。支払いは私がして、なつきちゃんから「ごちそうさまです」とお礼を受けた。ここで解散か、二次会か迷い、主導権をなつきちゃんが掌握しようとしていた。
「浦島さん、帰りたくない。朝まで一緒にいて?」
「友達と旅館に宿泊する約束をして、異性と一緒はダメでしょう」
「私は子どもではありません」
彼女に背を向けて一目散に駅へ向かおうとしたが、逃げ遅れた。そして、きっぱりと断るべきだったかもしれないが、もう少し一緒にいたかった。「……別々の部屋なら、あり、かと」相反する気持ちが交差して、お泊まりを敢行することにした。財布にはクレジットカードがあって、十分な紙幣もあって、何一つ障害はなかった。
「ホテル探しは私に任せてください」
「この時間だと微妙だけど部屋が空いていたらそこにしよう」
私の自宅への宿泊を所望されないか心配だったが杞憂に終わった。表札も出ていて、本名が明らかになってしまう。本当に偽名同士が同じホテルに宿泊してもいいのだろうか。何かの間違いがあれば危険や被害を被るのはなつきちゃんで、余りにも警戒心が薄い。友人の旅館に差し向けて仲直りさせておけばよかったと後悔した。
***
肌寒い秋の風は二人の距離を縮めていく。駅までの長い直線は閑散としていて、謎の裸体モニュメントと小さな花壇には何も咲いてはいない。なつきちゃんは歩きながら楽々トラベルで別々の部屋があるか確認していた。私はこの時間に清掃されたそれがビジネスホテル風のラブホテルであることを黙っていた。ダブルベットでもなく、部屋に何があっても成人した女性なのだから狼狽えることはないだろう。突き当たりの駅を右折して、天女の羽衣のようにうねった坂が続く。午前3時を過ぎれば漁協関係者が動きだし海辺の町の夜は短い。私たちは束の間の闇夜に溶け込んでホテルの建つ高台へ向かう。タクシーでも良かったが、なつきちゃんは散歩が好きらしい。街灯は少なく、勾配の急な坂道は運動不足にはキツかった。歩道橋の柱には海抜の標識が貼られていて、津波被害を懸念された原発は遠い昔に廃炉となって久しい。
「浦島さんは、私について何も聞かないのですか?」
「近寄れば離れていくと思ったから、何も聞かないようにしていた」
「……今日だけは許します」
破れた建設反対の張り紙。道路脇に生えたススキが肌に触れた。超弩級戦艦大和ホテルに近づくにつれ、なつきちゃんと私の興味はホテルに向いてしまい、何を聞こうかと考えをまとめている暇はない。月は雲に隠れてしまい小雨になった。名前に戦艦大和を冠しているだけあって、圧倒的な存在感を放つそれは、「大和ホテル」と揶揄された大戦末期に海の藻屑となった巨体で、町の景観をぶち壊しにしていた。主砲は実寸大らしく楽々トラベルのレビューを引用すれば定期的に動くそうだ。隣接する建物の位置から主砲の回転は無理だと思う。外国人旅行者に人気で英語や中国語、ベトナム語が目立つ。日本人目線ならビジネスホテルではなくラブホテルに分類すると思う。なつきちゃんは純粋で「前から気になっていました」と瞳を輝かせていて薄汚れた私には辛い。ホテルの外装を間近で観察していて、これは戦艦大和ではなく姉妹艦の武蔵ではないかと思い始めたが、なつきちゃんに説明しても共感を得られそうにはないので黙っておいた。そして、戦艦の製造元は石崎造船で、ラブホテルにされ、ご立腹されているのではないかと人ごとながら心配した。
「部屋がタッチパネルで選べます!」
私との温度差を気にもせず、ホテルの支配人からカードキーを受け取り、エレベーターで客室へ向かう。通路は迷ってしまいそうなほど薄暗く構造が似ていた。私はなつきちゃんの部屋に誘われ、薄さ0.01mmの水風船や、用途不明のハンドマッサージ機に興味津々な彼女の問いに、「ここのマッサージ機は正規、正しい使用方法は分からない。凝りがひどい場所に当てたら天にも昇る心地だと思います」と目を逸らす。ソファーでウエルカムドリンクを頼もうとページをめくるなつきちゃんも少し察したのか、顔を赤らめ急に静かになって、私は冷蔵庫にあった無料のマムシドリンクを取り出す。出入り口に精算機があって、右に浴室、左には扉があってベッドルームとなっていた。大型液晶テレビは有料放送が無料で視聴できて、小型冷蔵庫完備。ジャグジー付きのバスはトイレと別々で、風呂にはボトルはなく、個別梱包の石鹸だった。女性目線に考えられた豊富なバスアメニティグッズになつきちゃんも満足していた。室内の照明はベッドから全て操作できて、コンクリートの壁も比較的厚くプライバシーが守られ単身で宿泊しても三ッ星だと思う。気になったのはテレビの配線に三又タップが刺されていて、持ち込みだろうか。
「浦島さん、ホテルのレビューを考えていたでしょう?」
「まあ、多少は……」
「知っていますか? 戦艦大和は技術力不足でエンジンを搭載できなかった世界最大の蒸気船です。航空機を活用した戦略への変化に取り残され、海の藻屑となりました。解体して零戦にでもすればよかったのに。溶かされたハチ公が可愛そう」
「旧海軍の象徴的戦艦だから、解体はできなかったと思うよ」
「……ハチ公も渋谷のシンボルだよ」
なつきちゃんは靴下を脱ぎ捨てると浴室に湯を張りに行く。私は一般的なビジネスホテルの設備にないものは、視界に入れないようにしていた。特にコスチュームや有料の販売機は目隠しのカーテンを引く。ラブホ系統の出入り口は精算しなくては解錠されない仕組みとなっていて、大学生の彼女は現地支払いを選んだのか逃げ場がなかった。だが、この状況は鮮やかに計算し尽くされた計画だとは思えない。浴室から戻ってきた素足のなつきちゃんは雫をハンカチで祓うと上着をハンガーにかけた。小雨で濡れたブラウスは少し透けていて、一つ、二つ、ボタンを外せば、白いブラと谷間が露わになった。大胆ではあったがかなり恥ずかしそうにしていた。
「……私、あの日から、5年待ちました」
一歩、二歩、なつきちゃんが前進すれば、私は同じ数だけ後退していく。五歩、六歩目はなく、照明のスイッチに触れてしまい灯が消えてしまった。なつきちゃんの緊張が伝わり、私は霞みがかった靉靆とした闇に支配され動くことができない。視覚からの情報は断たれ研ぎ澄まされた五感は敏感で、冷たく暖かいなつきちゃんと一つになった。ぎこちない抱擁はありったけの想いを含んでいて、欠けたパズルのピースが埋まっていく。黒く染めた髪。雨の匂い。これらが連続性を持って繋がり、薄っすらとした彼女の影は実像となっていく。遠い宇宙の果てで光り輝く一等星の彼女は私にとって失明してしまいそうなほど眩しい。それでも、小さく大きな彼女を懸命に抱きしめた。彼女と私は遠すぎて釣り合わない。
「私は、……」
「ま、待ってくれ!」
私の叫びになつきちゃんは雷に打たれたように痙攣してしがみつく。誰にも聞かれたくなかった。高層階の角部屋は遮蔽物もなく、電波を飛ばすには好条件で、ここは何かを告白するには相応しくない。
私には彼女の言葉を肯定できるだけの地位もなく、勇気もなかった。
「頼むから、知り合いの旅館に行ってくれないか」
「……はい」
なつきちゃんは私の気迫に飲まれたのか素直に頷く。柔らかく暖かい彼女に溺れていた私は、未練か執着か、放したくなかった。彼女は泣いていたかもしれない。言葉と行動が一致しない二人は、好きな人を突き放すことが、これほど苦しいのかと痛みを知った。
「浦島さん、これ……」
旅館の住所と電話番号が書かれた恋文を私に押し付け、林檎のように頬を朱に染めた彼女は、誘惑のつもりかベッドに腰掛け靴下を履いていた。艶かしい生足を目の当たりにして、押し倒したい衝動に駆られたが、理性の非常停止で凌ぐ。ここは全てが偽物で心地が良かった。精力増強、媚薬の類に効果があるとは思えないが、焦らしの効果は絶大で脳内に欲望が溢れて止まらない。彼女も同じなのか落ち着きがなく、同じ願望を抱いていたのかもしない。だが、私は偽物の関係を望んではいなかった。
「また明日、10時に迎えにきてくれますか?」
***
電子地図で旅館まで案内してもらい、約束の時間まで近くのコンビニで時間を潰す。朝刊の地方欄に私の記事が掲載されていて、丸ごと実家にレターパックで送付した。誰かが落とした三つ葉のクローバーのキーホルダーを揺らし、ガラスの靴のように大切にポケットに仕舞う。私はこれから誰に会うことを楽しみにしているのだろうか。首を傾げても何も思い浮かばない。冷たいアーチの車止めから降りて黒梅旅館を目指した。もっぱらビジネスホテルで砂利の敷き詰められた長い庭園を歩くのは新鮮だった。木造平屋建ての旅館はきっと文豪が物語を思案したに違いない。
「浦島様ですね。お待ちしておりました」
来訪の予定が伝えられていたのか、私は併設の喫茶店に案内され珈琲と洋菓子でもてなされた。珈琲豆の品種は最高級ゲイシャ。そのなかでも豆と果実を樽で熟成したものは芳醇な柑橘類の香りがして、淹れたてから味が移りゆく。このワインにも似た飲み物が珈琲に分類されるかの議論は別として一生縁のない貴族の味だった。ラム酒入りの甘いモンブランに心酔して、マカロンを頬張れば、西洋文化の虜になってしまっていた。
「美味しいですか?」
「美味しいです」
堕天使は気配なく迷える子羊の前に舞い降り立ち、給仕は椅子を引く。軽く「ありがとう」と礼を述べ着席すれば、ケーキとココアが用意された。なつきちゃんは一緒ではないらしい。堕天使は就活生らしく新聞を広げ地方欄の記事を射止めれば私と見比べていた。私は三つ葉のクローバーのキーホルダーを差し出し、堕天使は包み込むように受け取った。高価な宝石と同等の価値があるとは思えないそれは、大切に箱に入れられ、付き人が持ち帰っていく。堕天使の動作は洗練されていて音がない。
「この生活が羨ましいですか?」
「私には贅沢です」
「……やはり贅沢を望んではいけないのでしょうか?」
「言葉足らずで申し訳ありませんが、望んではいけないとは言っていません」
ここ数ヶ月のなかで上位の美味しさで、旅館も喫茶店も一流揃いで本物に常に触られ羨ましい。だが私には定食屋の落ち着きが合っていた。彼女は上品にナプキンを皿に被せて席を立つ。それは別の日の振る舞いとは違い、今更ながら堕天使ではなく石崎朱莉と会話をしていたのだと理解した。石崎朱莉の贅沢は庶民の日常。彼女が羨ましく思う生活を私は贅沢だと断罪したと思われてしまった。
「……夏希はもう少しで来ますのでお待ちください。ではまた柏木哲也さん」
石崎朱莉は目を合わすことなく立ち去っていく。私の名前は新聞記事で知ったのだろう。貸切りだった喫茶店の窓側の席に新聞紙に二つ穴を開けた不審者がいた。きっとなつきちゃんだと思った。彼女たちは短い会話をして、石崎朱莉は旅館の方へ消えていく。
「浦島さんは朱莉に甘いです。贅沢は敵です」
なつきちゃんは不平不満を漏らしながら、円形の机を縫うようにして私に近く。カウンターのバリスタは誰の為かアルコールランプでフラスコを熱していた。気付かぬ間に机は綺麗に片付けられていて、給仕が椅子を引けば石崎朱莉と同じく向かい合う。珈琲がロートからフラスコへ流れ落ち、絶妙な瞬間に給仕は、空になったカップに珈琲を注ぐ。彼女はココアだろうか香水か甘い匂いがして目眩がした。
「あれから友人と仲直りはできたの?」
「いまだに戦争中です。制服ネズミーも明日になりました」
「制服ネズミー? 今日はネズミーランドに行く予定だったの?」
「メルカリで有名デザイナーが手がけた学校制服を競り落としたので、そのお披露目です。クロスタイで、かわいい制服だよ」
制服ネズミーの意味は分からないが、修学旅行の思い出の焼き直しだろうか。なつきちゃんは喧嘩を物騒な戦争と表現して、一悶着あったのだと思った。有名デザイナーが手がけた制服が気にはなったが、友人とお披露目会に行くのだから、機会を奪ってはいけないと思った。
「ねぇ、今日は、浦島さんの家に行ってもいい? 制服の私を撮影して?」
「撮影って特殊な機材は持ってないよ」
「スマホで十分です」
それは思い付きだったのかもしれない。なつきちゃんは、あれこれ理由を付けて、撮影会で強引に押し切られてしまい私の自宅に向かうことになった。支払いは宿泊主持ちで、なつきちゃんは荷物を取りに戻っていく。私は庭園の砂山に侘び寂びを読み取っていた。縁側に堕天使が出てきていて、遠慮がちに手を振り、私も返した。母屋と離れの通路をなつきちゃんが通り過ぎていく。地上に落ちてきそうなほどの分厚い雲は、天気予報とは違った。
***
なつきちゃんは、身代金の入っていそうな鞄を抱えて、単身、私の自宅へ来た。期待と不安は天気にも反映されてか雨が降り出す。雨粒は地面で跳ねて雫は力なく地に還っていく。マンションのエレベーターでなつきちゃんは背を向け、雨の匂いがした。開放的な外通路は雨が合唱していて彼女は表札の「柏木」に驚く様子はない。濡れた彼女を招き入れて、足跡を残しながら浴室へ案内した。私は布で体を拭き、服を新しくした。雨とシャワーと乾燥機。LANケーブルに絡まった自動お掃除ロボットを助けて彼の家に戻す。スマホでコスプレ撮影を検索して、カメラの絞りやピント、表情を引き出す話術、どれも短期間で習得することは不可能と判断してフルオート撮影することに決めた。部屋を借りるときにフィルムカメラを何台か買ったことを思い出して、新品の「写ルンです」を探しだした。おうちデートも検索して、映画、ゲーム、料理、暇にはならないように手を打つ。彼女はドライヤーで髪を乾かしていた。
「か、柏木さん、この制服、似合うかな?」
深い青を基調としたクロスタイと短くしたスカート。夏服セーラーに冬服のブレザーを羽織った両極性を持ち合わせていた。平成初期に採用された制服で当時は人気だったらしい。「写ルンです」は現像が面倒と却下され、撮影所を寝室に決めたなつきちゃんは、ベッドに腰掛け、フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダンの「考える人」のポーズを記念すべき一枚目とした。私は、女の子座り、アヒル座り、ぺたん座り、正確な名称は分からないが、そういうのを期待していた。撮影が終われば二人で確認をして、彼女は品質に満足してはいなさそうだった。
「柏木さんは撮影が下手だと思う」
制服がシワになってしまってもいいのか彼女は布団に入っていく。無防備で彼女なりに誘っていることは理解していた。だが、なつきちゃんは私を本名で呼ぶが、自分の名前を名乗ろうとはしない。体を許すよりも、それほど重要なことなのだろうか。
「なつきちゃんは大和ホテルで俺に何かを伝えようとしたよね」
「……私についての質問は受け付けません。許可していてないよ」
彼女の機嫌を損ねてしまわないように、ここは身を引く。料理がしたいと小道具のエプロンを取り出し、セラミックの包丁を振るっていた。単身世帯の冷蔵庫に豊富な食材はなく、彼女は有り合わせのオムライスにケチャップで愛の記号を描いていた。他人の視線がなければ人は大胆になるのか、「あーん」を受け入れてしまう。動画配信サービスの契約をしていないので、彼女の小さなスマホの画面で映画鑑賞をした。一本目は『Eat man』題名は某中堅商社を意識していて恐らくは戦後最大の経済事件を題材にしていた。私は組織側の人間で批判は憚られたが、彼女は「画商が経営しただけに高価な絵画が飾ってあって、雰囲気もいいし、200円の焦げ付いたドリアも安くて美味しそう。でも、価格破壊で採算が取れず銀行から多額の融資を受けて、何故か買収されちゃって、よく分かんなかったね」と言っていた。試されていたのか頭が痛かった。二本目は恋愛映画を視聴した。上流階級の娘が平民と恋をして結ばれた物語で、感想を間違えてしまえば石崎朱莉と同じく戦争状態に突入してしまう。ベッドで身を寄せ合い、方策を尽くした彼女の戦術は私の本能に訴えかけた。戦略としては私と関係を持つことが勝利の分岐点と分析し、最終防衛線は定まった。
「なつきちゃ……」
彼女の意識は夢のなかで、迷った末に上着だけ脱がせ毛布を掛けておくことにした。ボタンを外す度に緊張が走り、この姿は言い逃れできない。いつかの記憶は二日酔いに似た頭痛となって気分が悪くなったが、しばらく安静にすれば治った。彼女は堕天使と徹夜で喧嘩をしたのだろうか。旅館に電話しようかどうか悩んだが、このままでいたいと思った。彼女は私に「あの日」を思い出してもらいたいと思っているのではないか。遡れない過去の記憶と仮説を合わせることができないでいた。私は寝室から趣味部屋に移動して寝転ぶと、気疲れか睡魔に襲われた。夢のなかで泥酔して、気分が悪くて、歩けなくて、後悔して、それほど強くはないと悟った。未成年ながらウィスキーボンボンであれば問題ないかと思っていたが、これは見た目以上に度数が高いらしく回ってきた。制服の女の子が手伝いで来ていて、介抱されて、部屋に戻って、何をした? 思い出すことができない。焦れったくて、もどかしい。あのころの俺は弱くて、頼りなくて、ダメだった。あの日、助けてくれた彼女は確か……。記憶の静止画が何枚も集まっていく。所々、視覚情報に欠損があって、柔らかく弾力があって甘い。これを言語化すれば、水? 夢と現の海に記憶がこぼれ落ちていく。息苦しい。
「どれだけ想いを絶っても切れなくて、チョコを作らなきゃよかったのかな?」
これは誰の、いつ、どこでの言葉だろうか。その行為に特別な感情はなかったはずだった。柔らかくて熱くて、何か心が満たされた。繰り返し、繰り返された。定食屋での彼女は雨女で、料理が上手で、責任感が強くて、初対面とは思えない。あの日、大雨と雷。嵐の夜。彼女は献身的な看病をしてくれた。過去なのか今なのか、夢なのか現実なのかはっきりとしない。頭が割れそうなほど痛くて俺は助けを求めた。暖かく受け止めてくれたのは、どの、彼女だろうか。同じ、同一人物だと思う。私が思う彼女は……。
***
意識が戻り眩む頭を押さえながら立ち上がった。扉は半分開いていて、誰かが出入りしたのかもしれない。洗面台で顔を洗うと寝室へ向かう。なつきちゃんはベッドでだらしなく立て膝をして軽い吐息だった。私は彼女の存在を確かめたくて、忍び足で近寄り、顔を覗き込む。顔にかかった髪を指で優しく流し、魘されたのか汗で額は濡れていた。記憶の彼女に間違いないと思った。無抵抗なバンザイ寝は体によくないと聞いたこともあり、楽な体勢にしようとした。その様は、強引に押さえつけているようで途中で止めた。なつきちゃんの覚醒は遠く、悪魔が俺に囁く。天使が咎め、堕天使が仲裁していた。彼女の胸も若干弾んでいて、誘惑に負けそうだった。
「あの日のチョコレート、何粒食べたか覚えていないほど美味しかった」
誰に対しての言葉か私にも分からない。ただ、そう伝えたかった。目覚まし時計で時刻を確認して、少し豪勢な夕飯を想像してみたが、彼女の舌と感情を満足させることはできない。私と彼女の世界は食卓でしか繋がっていなかった。『白雪姫』のように寝顔は穏やかで、接吻をしたい欲望に満たされた私は悪だった。
「……それを思い出したなら今日は、及第点とします!」
「うわぁ!!」
埋葬した棺桶から悲鳴が聞こえたのかと思うほど素で驚いた。恐ろしい悪夢のような瞬間で、心臓に悪く、彼女は眠ってなどいなかった。騙されて行動に移していれば、「準強制わいせつ罪」で逮捕されていたに違いない。表彰から一転して犯罪者へ。
彼女にとっては仕返しのつもりだったのかもしれない。私が夢の世界にいて、彼女は自由に部屋を動いていたとしても、電子書籍派の俺には隙がなかった。私の想像力は乏しく、彼女は暇でも帰ることができず、困ったことだろう。悪いことをしたと思った。
「明日は朱莉とネズミーランドへ行くので、今日は帰ります」
西日の差し込む部屋ではあったけれど、彼女の頬は朱に染まっていた。髪を撫でながら私を力一杯に押しのけ火照ったからだは熱かった。身代金を詰めるように荷物をまとめ脱衣所に消えていく。私はキッチンに移動して彼女を待つ。乾燥機には入れたがシワを伸ばしてはいない。スチームアイロンを用意しようと、探した。
「哲也さんの悲鳴は少し意外だったけど、今日は楽しかった。またね」
早口で言い終えた彼女は、IDと電話番号の書かれた紙を押し付けた。学校に遅刻しそうな彼女は急いで出て行き、私はスチームを吹かせながら見送る。戦略の解析は誤りか彼女は何を考えているのだろうか。洗い物も中途半端で片付けをしていく。私を取り巻く世界は急速に変化していて、本当に彼女に惹かれているのだろうか。不安と焦りに支配されて、心休まることはなかった。
翌日、仲直りできたのか自撮り画像が送られてきて、彼女たちは学校制服だった。堕天使は緑のリボンとブレザーにチェックのスカート、童顔なので現役と間違われそうだと思った。「今度、一緒に行きませんか? 前広にご対応お願い致します」と独特の言い回しが届いて、これはどちらからの誘いか分かった。
***
悪夢の月曜日。今日は寺本君と大学図書館に資料を探しにきていた。一般利用は貸し出し数に制限があって、私の役割は頭数で二人だと10冊だけ持ち帰ることができた。抜粋はコピーして、可能な限り荷物を減らしたい。彼は地下書庫へ本を探しに行き、私は高校の小さな図書館しか行ったことがないので、書籍の数に驚く。講義の時間なのか学生は少なく、私語も厳禁で静かだった。何となく棚横の椅子にいたが居心地が悪く、静寂から逃れるため談話室に書架を縫うように向い、途中で堕天使らしき人物を見つけた。彼女は長方形の大きな机で優雅に大判図書のページをめくっていたが、視線に気がつく。私は邪魔をしてはいけないと黙礼だけにしておくことにした。だが堕天使は音もなく本を閉じ、鮮やかな転瞬のうちに間合いを詰めた。
「どうして、無視して行こうとしますか? 挨拶をしないのは失礼だと思いませんか? 私の言い分に間違いはありますか?」
私は上目遣いの彼女の袖を掴まれ、息を切らしながら矢継ぎ早に抗議を受けた。会釈ぐらいはして欲しかったのかもしれない。抜き取られた本の隙間から角帽が覗いていて、なつきちゃんだと思った。彼女らは協定を結んでいるのか、二人同時の会話はなく、公平公正な機会が与えられているように感じられた。そして、それが何の為なのか分からない。
「大変失礼しました。ここでは何かと迷惑となりますので談話室へ行きましょう」
私の誘いに彼女は満足したのか、机に積まれた本を片付けに戻っていく。小柄な彼女は背伸びして本を棚へ戻そうとしていたが、個体となった書籍群は強固で中々入らない。背表紙は『石崎自動車工業の不祥事』。私は彼女から本を奪い取り棚に戻した。案内板の指し示す方向は出口ではなく、談話室は図書館の中にあって、通話のためか防音室に近い作りだった。使用中に札を裏返す。透明窓、小さな机と四つの丸椅子があり浅く腰かけ、氷のような冷たい瞳になった彼女に警戒した。
「柏木哲也さんは、図書館に何を探しにいらっしゃいましたか?」
「資料収集の用事があったのは部下で、今日の私は手伝いです」
「そうでしたか。私は卒業論文の提出が必須科目ですので資料集めに来ていました」
これまでの堕天使と印象が違い、彼女は石崎の仮面をつけていた。卒業論文を書いたことがないので積極的に話題にしたくない。彼女のテーマが何かは知らないが、石崎自工は大切な顧客なのだから、個人的見解であっても批判はしたくなかった。
「特に財閥に興味があって、旧石崎自工の不祥事への批判の本質は、返り咲いた創業家に対しての非難が多分にあったそうです。石崎の冠は諸刃の剣だと思います」
「石崎自工は分社当時から「弱者の戦略」だったと記憶しています。それに、創業家への批判と不祥事への非難は別問題かと……」
「……あなたは石崎家の何を知っているのですか?」
石崎朱莉の自虐に冷静に対処したつもりだが、癪に触ってしまったらしい。彼女は石崎の冠を被っていて、巨体の財閥から攻撃を受ければ、命の保証はなく純粋な恐怖しかない。静黙に緊迫感が漂い、思案した彼女は紙に何かを書き記していた。
「これ、私の電話番号とIDです。……時間ですので失礼します」
人懐っこく甘えた石崎朱莉からメモを受け取り、彼女は談話室から出ていく。書道の師範かと思うほど達筆で美しかった。黒い髪に黒い服、黒いタイツに黒い靴。彼女の後ろ姿は何も語りかけてはこない。
***
図書館からの帰り道。分厚い学術書は重く、社用車は今朝点検で生憎出払っていて徒歩で会社を目指していた。寺本君と私の関心は社員旅行で、伊勢・志摩で押し切ったらしい。今年は総合電機を取り扱う石崎電機と一緒なのが不可解だと彼は言った。そして、石崎航空機専属の操縦士が可愛いだとか、A5ランクの松坂牛の味について話し合った。私もてっきり石崎重工だと思っていたので、彼以上に業種違いの交流を疑問に思った。
***
国内で飛行機よりも新幹線の利用が多い私は、空港で戸惑うばかりだった。空の旅は搭乗から離陸まで長い。無線機は乾電池式で関門の保安検査場で引っかからなかった。指定された座席は窓側で隣は寺本君、通路を挟んで園田沙希君がいた。ゆったりとしていて快適性は高い。窓から右翼と滑走路には光彩が灯火していて、本当に飛ぶのか不安だった。寺本君とイヤホンを分け合い、無線機で女性機長と管制塔のやり取りを聞きいていた。
「可愛い」
どちらが漏らしたのか、彼と同じ意見だった。滑走路使用の許可は深夜の時間帯で誰もが眠く、国内線は飛行時間が数時間と短いので、仮眠しても効果は見込めない。園田君が航空無線に興味津々だったので飽きた私は彼女に貸し与えた。機内は暗く地上には光の粒が撒かれていて、空の月は人が作り出した星を眺めていた。飛行機は目的の空港に問題なく到着して、次はバスでの移動だった。移動時間は睡魔に襲われ、気が付けば薄雲が光を帯びて、夜明けが近い。拠点の保養所は二見浦の近くにあって、海が見渡せた。せっかくなので、夫婦岩からの日の出を遥拝したいと思い、二見興玉神社に参拝することにした。男女を結びつけた糸は有名で、個人的に何度か来たことはあった。神々しい太陽は美しく心が洗われ、穢れが落ちた。
「綺麗ですね」
「そうですね」
私も彼と同意見だった。千鳥足の園田君は保養所に預けて来たので、この場にはいない。私たちは日が天に昇るのを見届けてから保養所戻っていく。新しい一日の幕上げは順調だったが、石崎財閥の従業員は、たった一人の例外を除いて顔を出すことはなかった。
***
上司に遠慮して楽しめない社員旅行は苦痛でしかない。私は部下に自由行動を許可して、最寄り駅から伊勢神宮に行くことにしていた。受け身の古株社員とバスで悠々と観光してもいいが、彼らから永遠と脚色された経営危機の話を聞かされ面倒だった。保養所で出された和食の朝食は胃に優しく赤だしは懐かしい。計画は事前に立ててあり、行動あるのみだった。
「三重県はうなぎ激戦区です!」
直射日光の眩しい談話室で園田君から熱弁されたが、私は鰻よりも松坂牛が目当てなので聞き流した。同調者はそれなりにいて、寺本君たちは遠征に行くらしい。ここから県庁所在地の津市まで遠いと思ったが、夕飯の宴会には間に合うだろうと口出しはしなかった。スマホの電子時刻表から逆算しながら準備をして、宿を出た。社員旅行が一人旅になっても文句は出ない。寂れた田舎の無人駅から乗車して、伊勢市駅で降りれば、外宮まで大通りが伸びていて、土産物屋、飲食店が軒をつらねていた。木造の小橋を渡り、玉砂利の敷かれた参道を行く。特別な願いはないが、感謝の心を忘れては誰もついてはこない。木漏れ日と独特の静けさは心地が良かった。
「柏木哲也さんも参拝ですか?」
「ええ、まあ」
大通り沿いで木造の古い旅館から二人の女性が出てきて、まさかとは思っていたが、誘導弾のように立ち塞がったのは石崎朱莉だった。今日は就活生よりもOLに近い服装で、その違いは説明できそうにない。もう一人は大木に抱きついていた。私は宿から、ここに至るまで、自分に酔っていたと思われてくなかったので、平素を装うことにした。彼女らの立場からすれば、社員旅行に同行していても何ら不思議ではない。不可解なのは積極的に東雲の社員の私に関わり合いを持とうとしてきたこと。
「よろしければ内宮へ一緒に行きませんか?」
断っても良かったが、なつきちゃんと一緒に居たかったので了承した。大きな灯篭と信号機。停留所にはバスが止まっていて、彼女らの不平不満が募らないように五人がけの最後席にした。赤福の看板が多いぐらいしか訴えてこない。私の都合では、内宮に参拝して待ち焦がれた松坂牛だったが、彼女らの服装で焼肉は言い出せなかった。大橋を渡り、大きな鳥居をいくつも抜けて、やっとのことで本殿にたどり着いく。私たちが何を願ったのか、それは神のみぞ知る。おはらい町の雑踏を嫌い、人通りの少ない川沿いを行く。太鼓が鳴り響くおかげ横丁の的屋で、キャラメル箱を撃ち落としたのは堕天使で、なつきちゃんと私は惨敗だった。真珠のネックレスを試着した彼女らは楽しそうだった。観光地でお馴染みの割高な料理か伊勢うどんが関の山だと思ったが、希望通り松坂牛の焼肉になった。
「朱莉、これは私のお肉だから横取りしないでね」
「これは少し赤いけど大丈夫。どうぞ」
彼女らは上着を脱ぎ捨て腕まくりをして肉を焼いていた。なつきちゃんとは対照的な石崎朱莉は私に焼いた肉を与えた。焼き加減はウエルダン程度が好みの私からすれば、親切の押し売りではあったが、気持ちは嬉しい。なつきちゃんは囲い込みを恥ずかしく思ったのか、次から次へ私に焼いた肉を持ってきていた。炭火焼ではないが最新の無煙ロースターで煙も少ない。この品等で安価だと気兼ねなく注文できて、一人よりも彼女らと一緒だと楽しく思った。比重からすれば不公平な割り勘だったが、誰も文句はない。すぐ近くに有名な甘味があって当日が賞味期限の餡子餅は美味しく、ここでもなつきちゃんから試されていた。
「柏木さん、寝不足だよね? はいこれ」
なつきちゃんは鷹の紋章で有名な栄養飲料を自動販売機で買ってきたらしく、石崎朱莉は夜襲を受けた指揮官同様、眉を寄せ気分を害したようだった。主要取引銀行変更の件は知らないのかもしれない。彼女らは水面下で戦争を繰り広げていて、私は火薬庫になりたくなかった。彼女らと別れて、保養所に戻れば大浴場で汗を流し、疲れを癒すと、部屋の窓から穏やかな海を眺めていた。私は机の包装された箱に視線を移し、なつきちゃんへの贈り物として、三日月に真珠が嵌め込まれたペンダントにしたが、月の雫は意味合いから重すぎたかもしれない。最悪の結末を打ち消し膨れた腹を摩りながらベッドに横たわり目を閉じた。石崎航空機の初号ジェット機は確かに飛行したが深夜飛行は疲れしか残らない。津市に遠征へ行った部隊は何とか宴会に間に合ったらしく連絡がきた。彼らは談話室で時間を潰すらしく、私も部屋に籠っていても仕方がない。エレベーター前の魚拓は立派で鯛だろうか。待合室には寺本君らがいて、私に気づくと無料の飲み物を用意してくれた。
「関西風も美味しくて3軒梯子しました」
園田君は嬉しそうに、豪勢な重箱に入った鰻の巨大な蒲焼の写真を見せてくれた。寺本君らは関東育ちだが関西風の鰻も口に合ったようだ。私が今日は松阪牛にしたと伝えれば、彼らの明日の予定は決まったらしい。今回は食べ物に絞った旅行を楽しむ気なのだろう。
「アナログゲームの定番! トランプをしましょう」
誰かが持ってきたトランプに夢中になったのはいつ以来だろうか。ババ抜きで大の大人たちが左右二枚の札に注目して、私の指が動けば周囲から白熱した声が漏れて、意を決し引いたのはババではなく上がりだった。
***
宴会は社長不在で会長が音頭を取っていた。勿論、石崎電機の従業員は一人もいない。石崎の木曜会での決定は絶対ではないのか。急遽取り止めになったのか。彼女らに仲介なしで聞くためには、お互いに身分を明かさなくてはならない。そうすれば、私は対等でいられなくなってしまい関係が崩れてしまう。ああでもない、こうでもない、伊勢海老の身をほぐしていると、園田君が酒の杯杓に回ってきて、お猪口に日本酒が注がれた。彼女は少し酔っていて夜風にあたりたいと、二人で演歌場から抜け出した。
「夜風が気持ちいいですね」
園田君と海岸沿いを歩きながら、酔いをさましていく。漆黒の海からは穏やかな潮騒だけが届いていた。彼女は足場の暗い波止場へ向かい、行き止まりで振り返り、人魚は優しく微笑む。私は年上の魅力や包容力に免疫はなく、これ以上は近づけない。
「私は、高校生のときかな、付きまといで不眠になってしまいました。警察で親身に相談に乗ってもらえて犯人は逮捕されましたが、今は釈放されて、どこか別の街だそうです。今もどこかで出会わないか毎日が心配で、辛い」
軽々しく当人の苦しみに共感していいか迷い、言葉が出ない。
「……実は東雲社長は、当時婦警で、その縁で採用された経緯があります」
吐き出された言葉は波がさらっていく。私の器では園田君の過去を背負うことができない。彼女は少し悲しい顔をして、ゆっくりと近づくと私を抱きしめた。彼女はどれだけの勇気を振り絞ったのだろうか、震えていて、男性恐怖症なのかも知れない。私は誰よりも強くなければならなかったのに、彼女に甘えてしまった。
「そんな顔をしないで、ね」
「俺は、あのとき、軽々しく、聞いてしまった。申し訳ないことをした」
「大丈夫。……私は負けたりしないよ。でも、もう少し、このままでいたいな」
***
保養所の一角に自動販売機があって、喉の乾いた私は真夜中に買い物に行くことにした。壁が厚くても扉は薄いので寝静まったこの時刻は細心の注意を払う。高速エレベーターで一階に降りて左側の空間が目当ての場所だった。
「よお、柏木。眠れないのか?」
「日野部長、お疲れ様です」
死装束の日野部長は浴衣の左右を間違えていたが気にもしていない。私は割高な金色の朝日輝くビールを奢ってもらい、住井系なのだと改めて思った。石崎朱莉なら伝説上の生き物が描かれたビールにしたことだろう。
「石崎電機の連中が、どこをほっつき歩いているか知っているか?」
「いいえ。まだ一度も目にしていないので、不参加だと思っていました」
「実績の少ない自社製飛行機に怖気付いて、バスに変更したそうだ。これほど慎重になったのは参加者の多くが幹部だから、分からんでもない」
「バスなら明日には合流できそうですね」
「ああ、友好的買収のためのお見合いだから、石崎電機の本質を見抜けよ」
日野部長は冗談か伝説上の生き物が描かれたビールを買っていた。この巡り合わせに納得した。買収であれば自動車製造の石崎自工が適当だ。だが、2社寡占の市場で弊社は7割の市場占有率。石崎自工が名乗り出て自社だけに独占供給すれば、独占禁止法に抵触しかねない。
「石崎電機の幹部とは別に創業家の人間も来るから失礼のないようにしてくれ」
日野部長は空き缶を握りつぶすとゴミ箱に入れ部屋に戻っていく。明日、末席の私は創業家と対面することはないだろうと思った。そして、今日、石崎朱莉がOL風だったのは、創業家の代表として参加していたとすれば合点がいく。ただ、石崎電機の専らの評判は新聞や週刊誌の全てが正しいとは思わないが、悪い。利益至上主義の歪みから多数の労務裁判を抱えていて、行政指導も行われていた。私にはどうすることもできないが、この件は流れて欲しいと思った。
***
翌朝、保養所に来た一台のバスから石崎の従業員が降り立ち私たちは出迎えた。小動物のような可愛らしい石崎朱莉は笑顔を振りまく。彼女の正式参加はないと思っていただけに驚いた。紹介は日野部長の役目で、私は石崎朱莉に事務的な挨拶をしながら名刺を渡す。受け取った彼女は大切に仕舞い握手を交わした。
「柏木課長と石崎さんは年が近いので、気が合うと思います」
「東雲電機産業の精鋭に会えて光栄に思います」
「恐縮です」
石崎朱莉の演技は素晴らしく、お互いの第一印象は悪くない。出会いは問題なく彼女からの誘いもあり、行動を共にすることになった。寺本君らは松坂牛の本場まで遠征するらしい。園田君が心配だったが、強い人だと思った。私は東雲社長から石崎朱莉の取り扱い説明を手早く受けた。
「引き抜きに注意してください」
石崎朱莉からすれば、住井財閥傘下で異例の役職なのだから興味を持っていても不思議ではない。東雲社長は相当警戒をしていて、他の従業員にも注意を促していた。
「柏木課長は、どこへ行く予定ですか?」
「横山展望台へ行こうかと思っています」
「あの、雨が降りそうですが……」
石崎朱莉の一言で空を仰ぎ見れば、分厚い雲が太陽を覆っていて、予想外の展開に予定が狂ってしまったが、こうして、失敗の許されない接待が幕を上げた。私は新たな計画を撃ち出さなくてはならない。周囲の人間は次々と目的地へ移動していく。
「そう固くならないでください。決まらないなら伊勢神宮にしませんか?」
神宮を提案され私は驚愕したが、渡りに船だったので合わせた。今日の彼女は石崎財閥の代表であり、移動は専門の運転士が石崎自工の高級車を運転していた。白髪の目立つ寡黙で口の堅そうな男だった。彼女は彼を信頼しているらしく、彼もまた彼女を尊敬していた。しかし、今日は事情が違い、石崎朱莉は社交的な振る舞いをしていた。
「柏木課長は神宮に行かれたことはありますか?」
「出身が関西ですので、何度か……」
「そうですか。あそこは何度行ってもいい場所です」
「私もそう思います」
石崎朱莉は昨日と全く同じ旅行計画にしていて、記憶の上書きがしたいのかも知れない。無料化された伊勢二見鳥羽ラインを経由して、伊勢市街を走り抜けて、外宮の駐車場に降り立つ。平日でも多くの参拝客で賑わっていた。私たちは手水舎で身を清め、一ノ鳥居を抜けて聖域に入っていく。巫女装束に身を包んだ少女は竹箒で落ち葉を集めていて、社務所には朱印状を求めて長い列ができていていた。
「夏希から私と石崎財閥の関係について何か聞いていましたか?」
「お互いに何も語らないようにしていますので何も」
「でしたら、私も夏希について何も語らないことにします」
本殿には人の列ができていたが、御幌が舞い上がり神様の計らいか人が引いていく。警備員も交代のためか持ち場から移動していった。
「神前で私に何か聞きたいことはありますか?」
「……石崎電機の東雲電機産業買収は事実ですか?」
「買収は石崎の意思ではなく、国から業界再編に向けた打診があっただけです」
鐘を鳴らし、柏を打つと、人祓いの結界が張られた本殿で私たちは何かを祈った。
「……今回の件、表向きは顔合わせになっていますが、石崎の内部資料精査に協力してもらっています。石崎電機が破綻すれば虎の子の航空機を失ってしまいます」
「事情は分かりました。ですが、何故そのことを私に伝えるのですか?」
「柏木哲也さんは未来の……」
神様の計らいは一陣の風で打ち消され、彼女が言いかけた言葉は雑踏に飲み込まれていく。私たちの語らいは終わった。石崎朱莉は一礼をして、私も倣った。
「少し冷えましたので戻りませんか?」
***
今日は散々な目に会い疲労困憊で貧欲に眠りにつく。昨日はあれほど楽しかったのに、仕事が絡めば苦痛でしかなかった。スマホが振動して手探りで掴み取り、メッセージが届いていた。「お疲れ様でした」。石崎朱莉からの短い労いの言葉で、私は定型文で返す。それから返信はなく意識が薄れていく刹那、通話の着信を受けた。スマホを強く耳に押し当て彼女らの甘美な吐息と言葉を聞く。
「厚化粧してどうしたのと思ったら二人で出かけていたの? 何をしたの?」
「私を困らせないでください……」
「朱莉は気に入った人には意地悪だから、撃ち抜いて胃に穴を開けないでね」
「想い人を射止めたことはありますが、胃潰瘍にしたことはありません」
「朱莉の彼氏は画面から……」
「違います」
なつきちゃんは、スピーカー機能で電話をしながら、石崎朱莉のスマホで今日の思い出を写し出し、内宮で撮影した写真の一枚で大笑いをしていた。私の記憶が正しければ、左手を胸に当て右手は差し出すように伸ばし、儚く訴えかけていたが、内宮の大階段の前では少々無理があった。このような写真は沢山撮影したが、私は石崎朱莉のように一瞬で、公私に線を引くことができない。今日は彼女が石崎財閥の娘なのだと突き付けられ、心理的に少し距離ができてしまった。堕天使は瓜二つの他人で、偶然の出会いは夢幻だと思えてきた。
「朱莉の将来の夢はアイドルだったから、それが忘れられない?」
「……夏希の夢は専業主婦でしたっけ?」
「違う。お嫁さんだよ。ねえ、もう歌わないの?」
何か物音がして、突然通話が切れた。回線が不安定になったからではなく、石崎朱莉が切ったのだと思った。しばらくして、彼女らからメッセージを受信した。
「私の夢はアイドルではなく、家業を継ぐことです」
「普通の女の子として生きることが許されていないの」
本音と建前は石崎朱莉の苦悩の片鱗を感じ取った。
***
真夜中の卓球台で園田君は東雲社長と軽く打ち合いをしていた。浴衣は少し乱れていて汗ばんだ額に髪が張り付いていた。私は大浴場から自動販売機コーナーへ向かっていく。割高で贅沢な缶酎ハイは特別に思えた。製氷機から零れ落ちた氷は地面に溶けていく。卓球は終わったのか、東雲社長は汗を拭いながら飲料水を買いに、園田君は夜風に当たりに行ったらしい。外は寒々しく風邪を引かないか心配した。
「お疲れ様。今日一日、朱莉ちゃんと同行して、どのような評価をしましたか?」
「彼女は社章と同じく石崎財閥の偶像だと思います」
東雲社長は私の肩を叩くと、それ以上何も言わないで、去って行く。アルコールで体が火照り睡魔の誘惑に抗うことなくベッドに直行したが、日課の散歩から戻った園田君に押し返されてしまった。
「私、付きまといの気持ちが分かって、怖い」
すがりつく園田君は、何かに葛藤していて、退職か何か迷いが漂っていた。
「……ありがとう、もう大丈夫」
私の胸で深呼吸をして、顔を赤くした園田君に迷いは消えていた。
「もう負けない。これで大丈夫。最後だから。うん。……おやすみなさい」
園田君がちらつかせた刃に私は屈した。
「偶然、私も明日まで伊勢だから、柏木さんと一緒に行きます」
部屋に戻り、私の誘いになつきちゃんから前向きな返信をもらい眠りについた。
***
長く短い社員旅行は最終日で明日の朝帰路につく。部屋の整理を軽くしながら、未読メッセージを流し読みして、不正の調査は白黒ついたらしく、石崎朱莉は繰り上げで帰るらしい。私は横山展望台へ行くことにしていて、寺本君らは鳥羽水族館にしたようだった。なつきちゃんとは伊勢市駅で合流して、私鉄で展望台の最寄り駅まで移動する段取りにしていた。吊っておいた生乾きのバスタオルを片手に大浴場へ向かい湯船で一日の予定を反芻していく。長風呂で逆上せた私は冷水で頭を冷やした。
「柏木さん、旅館に門限はありませんが、責任ある行動をお願いします。あと、有給の申請はしましたので、このまま数日なら滞在しても構いません」
朝風呂の帰りに東雲社長に捕まり、隅まで連れていかれ、門限について伝えられた。社長はそわそわ、気が気でないのか、私は折りたたみ傘を受け取り、天気予報では安定した大気で晴れ模様だと伝えていたので不思議だった。
「柏木さんはプリン好きですか? 夕飯は用意しませんのでお願いします」
東雲社長の有難い助言にプリンが永遠に好きでいたい。確か展望台のカフェで売っていたと思う。最寄り駅から乗り継いで集合場所の駅のホームで彼女と落ち合った。
「おはよー。行こっか」
なつきちゃんの私服は膝丈の深い青のスカートに、袖丈の無い肌着から露出した色っぽい肩を隠すようにジャケットを羽織っていた。髪は結わず清楚な顔立ちに頬紅して、真っ直ぐな口紅は彼女の性格か理知的な大人の印象を私に与えた。見惚れて彼女に「可愛いよ」と伝えるのが精一杯だった。売店で暖かい飲み物を買い、私鉄特急、賢島行に乗車して出発を待つ。車両には人が少なく貸切りに近く、贅沢に四人がけの席で向かい合い、彼女と足を絡ませた。
「柏木さんって、関西だよね。どこの生まれなの?」
「三重県磯部町の渡鹿野島って島で生まれたらしい」
親の仕事の都合で中学校に上がる前まで島にいた。訳あって故郷を隠していたが彼女には嘘をつきたくなかった。
「ビーチが綺麗でいい場所じゃない。寄らなくていいの?」
彼女はスマホを取り出し島について調べていて、検索上位は観光情報だった。
「船でしか行き来ができない不便な場所だからね」
「へぇー、島の形がハート型なんだぁー」
「あの島は何もないから……」
「何もなくても哲也さんが生まれた場所だから私は行きたいな。鵜方駅から近いし、展望台の帰りに寄ろうよ? 海鳥と戯れてみたいな」
島についての関連書籍は多く、噂も絶えない。
「あの島の別名は売春島。過去には人身売買もあったし、行かない方がいい」
「売春って、そんな名前の島が、……嘘」
スマホが彼女の太ももに滑り落ちて、画面の検索結果には、消せない負の歴史が永遠と綴られていた。
***
横山展望台まではタクシーで向かい、葛折りのスロープから英虞湾と島々の絶景は残念ながら分厚い雲に覆われて一望は叶わない。降りしきる雨に東雲社長から授かった折りたたみ傘は大いに役に立った。
「何も見えないね」
「カフェで雨宿りしようか」
「……嫌」
大きな舞台で私たちは、雲海をしばらく見つめた。降り出した雨は弱まり、雲は散っていく。七色は溶け合い、島々に白い架け橋が渡り、白虹は初めてだった。傘を閉じて滴る雫は輝く。名残惜しいくお互いに離れようとはしない。私はさりげなくしおらしい彼女の肩を抱いて引き寄せた。海は青く、空はどこまでも続く。
「私、一人でも、島に行く」
「ダメだ。島で何かあったら責任が取れない」
「哲也君は私を守ってくれないの?」
男らしさに自信はなかったが、ここで引いてはいけない。想像したくもない喪失感で胸が締め付けられた。
「誰にも奪われたくない。だから守りたい」
愛の言葉には程遠く恥ずかしい。それでも彼女は満足したのか髪を撫でていた。
***
案内標識に従い海岸から鬱蒼とした林へ向かい、なだらかなくだり坂には外灯もない。船着場の近くには待合室、一般利用不可の宿専用駐車場があった。一般客は駅から公共交通機関を利用するか、国府白浜に民間の駐車場があって、数㎞歩く必要があった。対岸には大きな宿泊施設が遠目で確認できて、待合室にはバスの時刻表と宿の電話番号が貼られていた。町営の渡船は10分間隔で運行している。
「やっぱり行きたくない?」
「まあ、ね」
彼女の覚悟からかなり譲歩したが一泊の予定はない。宿に予約の電話をすれば「遊びの予定は?」が決まり文句で経験から忌避した。あれから5年も経っていないのだから、独特文化や言い回しが未だに残っていてもおかしくない。私たちは待合室で肩を寄せ合い渡船を待った。
「名所は海水浴場ぐらいしかないから、昼には戻りたい」
「私は離島でカレーライスも悪くないけどなぁ」
「どうせ、業務用のレトルトだから絶対に食べたくない」
私は競争のない離島の飲食店の味の全てが想像できた。
「哲也君も拗ねてないで……、あ、船が来たよ!」
島民の足、赤旗が立つ渡船の船首には緩衝材だろうかタイヤが取り付けてあり、進行方向のまま岸につけた。小型船舶の甲板から屋根付きの船内、後方まで通路が突き抜け、乗客は船舶操縦士に料金を支払い陸へ降り立つ。料金体系は時間帯で変化していく。綺麗な海は穏やかで船は安定していて揺れもなかったが、彼女の手を取り乗り込んだ。私たちは波の影響の少ない後部の解放的な席につくと、ほどなくして渡鹿野島へ向けて渡船は旋回しだした。待合室は小さく遠く、ホテル群は近く大きくなっていく。推進機で白く泡立った海水は飛行機雲のように伸びていた。
「海鳥はいないね」
「時期的に少し早いのかもしれない」
広大な伊勢志摩国立公園には離島が多く、鳥羽の神島であれば、餌やりができたかもしれない。彼女は冷えた指を絡めてきて、私の不安は和らいだ。数分で島に近づくと渡船は桟橋につく。
「あの簡易郵便局が両親の勤め先だった」
「そっかぁ」
海沿いから順に巡り、コンビニは一件もなく、かつての面影は徹底的に破壊され更地になっていた。男だらけの路地は幼少期の記憶違いだったのか、今は寂れた過疎島で島民は高齢化していた。同年代の人々は島から離れたのか、知り合いには会わなかった。荒れ果てた運動公園、わたかの園地までは軽い林道になっていて雨で足場が悪く、ショートブーツでは不便だと、流石にお姫様抱っこは辞退されてしまったが、柔らかく暖かい彼女を背負いながら歩いていく。
「夏になれば、蟹が横断していて、山に住んでいたのか、海辺から来たのか、不思議だった」
「う、うん」
彼女は物静かで私は独り思い出を語っていく。昔は不気味で近づきたくなかったが、島内ラジオ放送が流れていて心強い。森林浴を終えて高台に出れば、的矢湾が一望できた。記憶が正しければ船旅の安全から建てられた神社の大鳥居を奉納したのは柏木家で、名前が刻まれていた。立ち会いの記憶が鮮明に蘇っていく。
「哲也君の家はどこにあったの?」
「郵便局の二階が従業員用の社宅になっていた」
「この急勾配の島で手紙を届けて回るのは大変だね」
「インターネットショッピングが一般化していない時期で良かったと思う」
路地が細くても手紙であればバイクで配達可能だが、荷物は厳しい。急勾配に疲れた私たちは島の洋食店で休憩することに決めた。海側の席で薄ぼけたメニュー表から消去法で選んでいく。数人の島民がお茶をしていたぐらいで、賑わいはなかった。レトルト・冷凍食品感丸出しのカレーライスは彼女。私はハンバーグと魚の天ぷらAランチにした。配膳の順が狂っていたが気にしないことにして、ご飯は平皿で余った福神漬けが乗っていた。味は期待していなかったのでがっかりはしない。
「ビーチに浦島太郎と織姫様のパネルがあったけど、由来が分からない」
「伊雑宮に海女が持ち帰った玉手箱があるらしいよ」
「三重県志摩市磯部町だけど、この島ではないな」
私たちはスマホで竜宮城との関係を調べていた。私のAランチは彼女に取られてしまい、途中で棄権した激甘カレーの処分をしていく。備え付けの七味唐辛子で味を調整して無理やり食べ切った。激辛カレーと同じだけ水を飲んだ気がした。
「もしかして、浦島さんって、会社の人から皮肉られていたの?」
本当の出生地を知っているのは古株か採用担当ぐらいで、浦島は愛称ではないのか。
「ああ、そうか、浦島と呼ぶのはエロおやじの古株か人事の人間だけだしな」
「……炙り出して、帰りの飛行機は積乱雲を避けないでもらおうかな」
「えぇ?」
「気にしないで、何でもないよ」
窓の外には船着場があって赤旗のない旅館保有の船が止まっていた。渡船から降りてきた人の異様な雰囲気は懐かしく直感的に理解した。
「どうしたの?」
「夜が近いし帰ろう。本島と時間の流れが全く違うから、これ以上はいたくない」
「うん」
町営の渡船を遠目で確認してから会計をして店を出た。店の看板猫に別れを告げて、海風は冷たく、個人商店で暖かな缶珈琲を買い船に乗った。渡船が本島に近くにつれて島が遠くなっていく。海は少し荒れていて濁っていた。閉鎖的な島から脱出した開放感からか、忌避した記憶が荒波のごとく押し寄せてきた。安い香水の匂いか、船酔いか気分が悪い。言葉を吐き出さなくては、耐えられそうになかった。
「昔顔写真を見せられて、どこへ行ったか知らないか? と聞かれたことがあった」
「……何て答えたの?」
「知らないと言った。本当はその人、海に飛び込んで本島へ泳いで行った」
「この距離は無理じゃない?」
「どうだろ、その人とは二度と会うことはなかったから、泳ぎ切ったのかも」
「もし、その人と再会したらどうする? もしかして初恋の人だったりした?」
「当時は家出少女も多くて、10歳ぐらい年上だったのかも、独特の口癖があって生意気ってよく言っていたな。物凄く図太くて、お菓子取られたり嫌いだった」
「そっか」
旨味が少なくなった今、監視役として少年少女を利用した悪い大人はもういない。
「久々の故郷は、どうだった?」
「……なつきちゃんと一緒なら悪くなかった」
「ふふっ、夏希でいいよ」
嫌なことを思い出してしまい本心では複雑だった。疲れ果てた私に気を使い彼女は宿泊所を移ったのか、スペイン村近く、的矢湾の高台に建つ白い大きなホテルに案内された。住井系の提携保養所で記帳は省略、時間外ながら清掃は終わっていて、ベッドには浴衣、タオル類が二組あった。彼女の荷物は部屋に届いていて、私は密室に誘い込まれてしまったらしい。部屋の窓からは赤い特徴的な的矢湾大橋が見えて、カキの養殖場が所々あった。
「……今日は、帰ってはなし、です」
「僕らは結ばれやしない」
「哲也が渡鹿野島の生まれだからですか?」
「それも含めて僕は夏希とは釣り合わない」
私の一言で場の空気が凍りついた。
「だったら、私の気持ちを知っていて、どうして、ここまで付いてきたの?」
「東雲社長の娘だとは薄々勘付いていた。だけど、夏希の父親は、もしかして……」
夏希はこれまで意図的に父親の存在を隠していた。住井系懇親会の日水会に中小企業の東雲が参加できたのは血縁があったからではないか。いつからか考えが頭から離れなくなっていた。
「違う! 私は、……夏希です。それ以上でもそれ以下でもない。私は朱莉のように全てを諦めたくない。好きな人と出会って、付き合って、結婚して、幸せな家庭を築くことが、たったそれだけが、いけないことですか?」
「夏希の考えは否定しない。けれど……」
この拒絶は石崎朱莉の苦悩を近くで感じてきたからだろうか。夏希の気持ちは行動となって、「住井夏希と私は釣り合わない」と言葉を紡ぐことができなかった。
「あの、赤い橋、的矢湾大橋は飛び降り自殺の名所です」
「悲劇を演じても、僕らは幸せにならない」
「違います。死ぬ覚悟があれば、乗り越えられると、この場所を選びました」
夏希の強い意志に私は想いを伝えたいと思った。
「僕は、ずっと君に恋をしていた」
「朱莉に心奪われていたくせに……」
「ごめん。だけど、今日、夏希が一番大切だって気づいた。島に来てくれてありがとう」
「忘れちゃダメだよ。生まれが何処だって、嫌いにならないで」
「ああ、そうだな。……これを受け取ってくれるか?」
私はポケットから夏希へのプレゼントを取り出した。彼女は丁寧に包みを開けていく。
「真珠のペンダント……」
夏希は嬉しそうにしていて、私は彼女の後ろに回りペンダントをつけた。
「僕は夏希のことが好きだ」
私は夏希を後ろから抱きしめ、誰にも聞かれたくないと耳元で告白をした。
「私も哲也のことが好き」
私は夏希の言葉が嬉しかった。二人一緒でなら、これから待ち受けるどんな困難にも立ち向かうことができると思った。






