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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ちいさくなあれ

作者: quiet



 もちろん、普通の大学生に、大学に行って真面目に講義を受ける義務なんてものは存在しない。

 それでも一週間も顔を見なければ、唯一あの子の希望に合わせて二人で履修登録した初級ロシア語作文(当然、出席しているだけで単位はくれる)まで休んでいれば、さすがに心配にはなるし、家まで行ってあげるくらいのことだってする。

 大学生の放課後は早い。午後一時。真っ白な光が霜みたいにきらきら流れる冬の日を、近くのスーパーマーケットで買った食べ物を両手に袋でぶら下げながら歩く。

 オートロックマンションのエントランスまで辿り着けば、いつもみたいに部屋の番号をぽちぽち押して、七、〇、一。おめでとう角部屋です。呼び出しボタン。

 返事はない。

 バッグを開いて、キーケースを取り出す。最初の頃は何もこんなものまで渡さなくても、とか、正直この子重いよ、とか思わされていたのに今ではなんだかんだで結構役立ってると噂の合いカギくんを取り出して、勝手にお邪魔する。オートロックのドアを抜けて勝手にエレベーターに乗る。部屋の前まで来て、勝手にインターホンを押して、返事がないので勝手に鍵を差し込んで勝手に回す。

 やっぱり溢れかえっていた。

「あさき~。太っちゃったよぉ~……」

 しくしく、という擬音語が付いて回りそうな情けない声で、その溢れかえっているお肉が私の名前を呼んだ。

 何度も来ているから間取りはよく知っている。八畳のワンルームに、肌色成分多めのセクシーなお肉がぎゅうぎゅうに詰まっている。私はあーあーあー、と声に出して『あなたのおばか加減に呆れていますよ』とたっぷりアピールしてから、支援物資をかさ、と掲げてあげる。

 よく見ればそのお肉には目があって、鼻があって、口がある。それがぱあっと輝いた。かもしれない。

「なんでそんなに太るかな。ちゃんと食べないとダメだよって言ってるのに」

 だって、とぐすぐす言い訳し始めるのを聞き流して、袋から食べ物を取り出す。前菜、ケーキドーナツ。四コ入り。一コ二百五十キロカロリーなり。

「あーん」

「あーん。……うぅ、かたじけねぇ……」

「毎回言ってるんだからちゃんと自分で食べられるようになってくださーい」

「うぅ……、申し訳ねぇ……」

 大学にはいろんな人がいる。だけどそれがいろんな友だちがいる、に直結するかというと、そうでもない。特に私みたいな、サークルに入っているわけでもなければ、恒常的にバイトをしているわけでもない、その上ゼミも研究室もないようなぼんくら文系大学生は、気軽に『たったひとりのお友だち』なんてお伽噺みたいな言葉が使えたりしてしまう。

 事実だから。

 ケーキドーナツを食べ終わったら、いちご牛乳を吸わせてあげて、おなかに食べ物がある程度溜まってきたところで、カロリー錠を飲ませていく。こんなに身体が大きくなっても日菜子は錠剤を呑むのが苦手らしいから、一粒一粒、間にゼリーを挟み込んで。ふう、と一息吐くのが聞こえれば、甘い匂いが立ち込めて、空気清浄機がぐおぐお震えだして、ちょっとだけ体積が減ったように見えなくもない。

「まだまだ行くよー」

「つらいぃ……」

「こうなるってわかってるのに、何回もおんなじことするんだもん」

 次に取り出したるはカツカレー。ほかほか。スーパーのレンジでお弁当を十個もニ十個も温めるのは大変恥ずかしかった。ダイエットに過剰な情熱を燃やす女だと思われていたことだろう。日菜子の代わりに。一枚、二枚、三枚、と空になった容器を積み重ねて、ようやく玄関に足を踏み入れられるようになる。

「でもほんと、持つべきものは友達だよ」

 日菜子が言うのに、そっすか、と頷いて次の皿。日菜子はすぐに食べるのをサボるくせに、いざ食べ始めると日向ぼっこしてる犬みたいに幸せそうな顔をする。

 こんなだらしない顔をしていても、二千年くらい前に生まれていたら神様だったかもしれないのに。

 そんな想像をこっそりするのは、正直、ちょっとだけ面白い。



 日菜子と初めて会ったのは、大学に入ってから最初の水曜日の講義のことだった。

 心理学の授業だった。五百人が収容可能の講堂に、四百人くらいがぞろぞろと『文系の中でもなんか役に立ちそうで楽しそうな学問のイメージ』に釣られてやってきた。実際に始まったのは映像講義と何が変わりあるのか、という教科書の読み上げで、以降の一学期間はずっとそれが続いて、それがのちの私の粗悪な出席態度に繋がるのだけど、今はそこは関係がないので飛ばして、初回だけ教授は張り切っていたのか、周りの人と相談してね、という時間を設けた。何について話し合え、と言われたのかは全く覚えていない。というか心理学の授業で何を学んだのか自体をさっぱり覚えていない。唯一覚えているのはアメリカの学生は試験前に頭のよくなる薬(スマートドラッグというらしい)を飲むんですよ、という雑談だけで、一夜漬けの途中でそれを思い出しながら私も欲しいなあとコーヒーを飲んでいたことだけがぼんやりと記憶に残っている。

 話し合う相手。たとえばこれがもっと閉鎖的な教室のことだったとしたら、心理学の教授のくせして心のこの字も知らんのかい、と怒ってもいいところだったと思うけど、みんな大学という新しい空間に浮ついていたから、案外すんなりとペアはできていった。そして私も同じように浮ついていたので、とりあえず隣の人に話しかけてみようとした。

 そのとき、机に突っ伏して寝ていたのが日菜子だった。

 えぇー、と小さく声に出た。どう見ても爆睡だった。一限だから仕方ないのかも、と思ったけど、日菜子を見ている間に逆隣の人は別のペアを組んでしまったので、こうなると教授の指示を完全に無視して黄昏れるか、この寝ている知らない人を起こすか、二択を迫られてしまった。

 黄昏れようと思った。起こして機嫌を悪くされたら怖いし。私関係ないですよ、という顔で無視を決め込めば、時間は素直に過ぎていってくれた。

 だけど、その途中で気付いてしまった。隣の女の子の体積が、ふくふくと増えつつあるということに。やがてそれがふくふくからぶくぶくに変わりつつあるということに。

 段になったでぶ肉を、どういう神経だったのか私はつまんだ。

 ぶみゃあ、と日菜子は声を上げて、講堂の視線を独り占めした。

 そんな感じで、私たちは出会った。



 冬の夕暮れは青い。濃紺の空色が東から溢れだしてくると、晴れていても雨に濡れるような気がして、ときどき手袋を外して確かめてみたくなる。

「さむいぃ~」

「さむいねえ」

 小学生の頃に、犬を飼いたい、と親にねだったことがある。幸運にも結構甘やかしてくれる家庭に生まれたものだから、一時は本当にペットショップで下見なんかをしたものだったけれど、ある日お母さんが気付いた。中型犬でも一日一時間も散歩が必要なんですって。物分かりのいい子だった私はそれだけ聞いて、じゃあいいや、と引き下がった。自分がそこまで継続的に運動を続けられると思わなかったからだ。

 でも、こうして日菜子と河川敷を歩いていると、案外ちゃんと犬を飼えたのかもしれない、と思ったりする。私は私を見くびっているのかもしれない、もしかすると。

「さむいよぉ」

「そうだねえ」

 何度目かわからない泣き言に、おばあちゃんになった気持ちで頷いて、とろとろと足を止めようとする日菜子の後ろに回って、その肩をぐいぐい押してあげる。鬼ぃ、と不平を言われるので、鬼です、とも返してあげる。日菜子の体温はものすごく高くて、ホッカイロの完全な上位互換として働いてくれる。どうしてこのあったかさで寒さを感じられるのか、いつも不思議になる。

 河川敷には誰もいない。私と、普通の女の子くらいの大きさになった日菜子の他には、誰も。このあたりは住宅街のはずなのに、なぜだかほとんど人が歩いているところを見ない。ひょっとすると家だけがあって、人は誰も住んでいないのかもしれない。

 ふいに、日菜子の背筋が伸びたと思ったら、手で口のあたりを押さえた。けぷ、と小さくげっぷする音。おなかいっぱいでげっぷするの赤ちゃんみたい、と思ってあはは、と声を上げて笑ったら、顔を赤くした日菜子がなんだよぅ、と振り返って怒る。

「もう私、絶対太らない。ていうか寝ない」

「がんば」

「信じてないでしょ」

「ごめんね。私そこそこ知能あるから……」

 見てろ、と言って胸を張った日菜子は、当然食べたばっかりでまだおなかも張っているので、一秒で胃のあたりを押さえてまた背中をまるめた。そのあったかい背中をさすりながら、まあ今回も無理だろうな、とやさしい気持ちで私は思っている。

 日菜子は人並外れて太りやすい。

 寝てる間に太る、というのは誰でもそうだけど、日菜子は特にすごい。一晩で二倍近くまで太るのはそれこそお伽噺に出てくる半分神さまの英雄くらいのものだ。だから人一倍食べ物を口にしてカロリーを消費しなくちゃいけないのに、ずぼらだからそれもすぐにサボる。それにふつうは人間、部屋の大きさに合わせて、このへんまでで太るのはやめておこう、とブレーキをかける習性がついているはずなのに、センサーが鈍ちんなのか、日菜子はどこまでも広がる。ついでにねぼすけ。ありうる限りの太りやすさを詰めこんで、できあがったのがこのいまだにちょっとマシュマロ気味なやわらかくてあったかい女の子。

 食べ物をちゃんと摂るのももちろん痩せるために必要なことだけど、急激に太ったり痩せたりする身体のメンテナンスのためには適度な運動も必要で、だから日菜子はこうして腹ごなしの散歩を私にさせられてるし、私は親切心でそれに付き添っている。星が降ってきたら帰ろっか、と約束をしながら。

「いいよね、あさきは太らなくて」

「規則正しく生活してるからだよ」

「うそじゃん。だって一晩で二キロとかしか太らないんでしょ?」

「ふつうじゃん」

「ふつうじゃないよぉ」

 ふつうだった。成人女性の睡眠時平均増加量が二キロくらい。男性が三キロくらい。私たちはそれを活動のエネルギー源にしている。余った分は、そのままでいるとどんどん溜まっていって社会生活の邪魔になっちゃうから、『体内に異物を入れて、それを消化する』っていうものすごくエネルギーの要る仕事をわざわざすることで、計画的に消費している。

「四十キロ増える人がふつうじゃないんだよ」

「だよねぇ。やっぱり病院行こうかな……」

 行かない。私は知ってる。日菜子は激太りと激痩せのコラボを終えたあとは毎回こういうことを言うけど、一度だって病院に行ったことがない。話を聞いていると、どうも私に会う前から一度も行ったことがないらしい。一晩で体重が倍になるっていうのに。さすが、倍になった体重を減らさないまま二度寝して恐ろしい倍々ゲームを繰り返している女は肝の据わり方が違う。こんな娘を病院に連れていかなかった上に一人暮らしまで許している日菜子のお父さんお母さんも、一度も会ったことはないけどたぶん日菜子にそっくりなんだろうな、と勝手に想像している。

「行きな行きな。どんどん行きな」

「そう言われると行く気なくすなぁ……」

「なんでやねん」

「いややっぱ人から言われると、なんかね」

「じゃあ行かなくていいよ」

「うん! そうする!」

 なんでやねん、ともう一度言って背中をたたくと、日菜子は声を上げて笑った。いっつもこんな感じ。

 ぴゅう、と冷たい風が吹いてちょっとだけ真面目な話がしたくなった。

 でも、日菜子が首を竦めたのが、妙に楽しそうで、だから、やめた。



 友だちの少ない大学生の単位取得の方法は、出席すること。それができない場合は、教科書を読み上げてるタイプの講義を選別して、一夜漬けを敢行すること。

 そんな風にしてテスト前だけに身に付けた知識の大半は当然、ろくに記憶に残らないしタメにもならない。だけど、別々の講義の知識が不思議なつながり方をしたときだけは、どうしてかそれははっきり頭に残ったりする。

 たとえば、民俗学の講義で、こんな話を聞いた。むかし、私たちと同じように眠っている間に体重を増やすことができた突然変異の動物たちは、その身体の大きさのために山の神や海の主として崇められていた。らしい。

 たとえば、進化生物学の講義で、こんな話を聞いた。進化というのは、優れた方向へ変わっていくということを意味するのではなく、ただ変わることそれ自体を意味していて、強いものが生き残るのではなく、環境に適応していたものがたまたま生き残る。のだそうである。

 このふたつを合わせて、私は思った。ああ、現代にすっかり寝てる間に太る動物が現れなくなったのは、その子たちには何かしら適応できないところがあったからなんだろうなあ、と。

 じゃあどんなところが適応できないところだったんだろう。その答えらしきものは、テレビから流れてくる。

 次のニュースです。アメリカでの“Free Gain”運動に対する大統領の発言が波紋を呼んでいます。

 アメリカで広がっている、体重増加や絶食の自由を訴える“Free Gain”運動に対し、十六日、アメリカ大統領ヒックス氏がSNS上で「馬鹿げた考えだ。アメリカは自由の国だが、自分勝手の国ではない」と批判的な意見を表明しました。

 これに対し、”Free Gain”運動を牽引するウェブ氏は次のようにインタビューに答えています。

「私自身の身体は私自身が所有するものです。国ではありません。体重制限法は私たちから身体を富ませる権利を奪っています。どうしてただ、身体を大きくするというだけのことが認められないのでしょうか。暴力に関する心配をするなら、体重よりも先に銃の規制をすべきです。また、社会から受け入れられるために必死に働いて、本来殺す必要のなかった動物の死骸をスーパーマーケットで買うことは、まったく間違ったことで、それこそ『自分勝手』なことです」

 体重制限法は欧米諸国では長い歴史を持つ法律ですが、近年中国を始めとするアジア・アフリカ各国でも類似の制度の導入が始まったことにより、各地でその正当性についての議論が巻き起こっています。

 また、日本国内でも、与党は体重制限法の年度内成立に向けての調整を進めているところですが、この件について田無厚生労働大臣は「アメリカの考えはアメリカの考えであり、我が国の今後の動向には影響しない」とのコメントをしています。

 では、次のニュースです。



「あさき? 聞いてる?」

「え、あ、ごめん。全然聞いてなかった」

「ちょっと。正直者」

 向かいに座った日菜子はむっとした顔をしたけれど、それでも私はカウンターの上にある古臭いテレビに視線を注いでいた。日菜子もそれに釣られたように視線を向けたけど、でも実際には私はそこに今映っているものを見ているわけじゃなくて、ただその残像を追っているわけだから、何を見てるんだろ、という顔でもう一度私に顔を向けて終わり。

 ああ、そういう感じだったんだ、と私は思っている。

「日菜子、今の話知ってた?」

「その話してたんじゃん」

「ごめん、聞いてなかった」

「もう……。味玉二個まで無料ってかなりお得じゃない?」

「いやそっちじゃなくて」

 確かにさっき注文を取りに来た店員さんにそう言われたけど。そして二人して二個ずつ頼んだけど。

 夜風が首筋をさすり始めて、日菜子が音を上げたので私たちは帰ることにした。日菜子は家へ、私は駅へ向かうから逆方向になるはずだったけど、こういうとき日菜子は送ると言ってきかない。私ももうそれに抵抗するほど遠慮深い友だちではなくなってしまったので、さんきゅ、とだけ伝えて河川敷を離れて繁華街をふらふらふら。その途中にラーメン屋さんがあった。

 ただ生きていくだけなら、私たちに食事する必要はない。でもこれだけ流行っているのは、ある程度強制されているからというのも間違いないけど、それと同時に娯楽としての価値が高いからだ。先に店先の見本写真に足を止めたのは私。でも、私の後ろにぴったりくっついてきた日菜子も、ついさっきまでの食べ物地獄をさっぱり忘れたみたいな顔で、入ろっか、と口にした。

 お店の中は空いていた。あんまり美味しくないのかな、と不安になったけど、それはついさっきの店員のお兄さんの「開店サービス中なんですが」から始まる言葉が解消してくれた。何事も初めのころは細々と始まるものだから。

 静かな夜で、キッチンの少し遠い音を聞きながら、首を曲げればテレビが見える。私はそれを指差して、日菜子に言う。

「今言ってたやつ。体重制限法って、聞いてた?」

「全然」

 この国でいちばん関りありそうな人間だというのに、なんか不穏だね、なんて言った日菜子の顔には不穏のふの字はない。穏の字はある。

「あるんだねえ、そんな法律。ない方がおかしいか」

 ぼんくら大学生二人が、海外の法律なんて知ってるわけがない。自分のところの国の法律だって、小学校で習った道徳の授業の内容からぼんやり推理してるくらいなのだ。

 でも現代は、調べたいことがあれば簡単にインターネットで調べられる。まだラーメンが来ていないのをいいことに、携帯を取り出して検索を始めてみた。

 肝心の法律の中身は、体重が一定を超えると罰せられます、なんて名前そのままのものだったから、一旦放っておいて、周辺情報。日本。議論不十分。年度内強行か。人権配慮への懸念。

 電源ボタンを押して消灯。

 顔を上げると、日菜子が私をじっと真顔で見ている。

「……寂しかった?」

「え?」

 声をかけると、砂の城よりあわれにその真面目な表情が崩れる。この子は一生のうちにどのくらいの時間を、とぼけた顔をしないで過ごせるんだろう。意外と標準体重になったときには、しゅっとした顔立ちをしてるのに。

「なんか今、超見てたから」

「あっ、ううん! あさき携帯きれいだなーと思って見てただけ!」

「どゆこと?」

「私画面ばきばきなの、ほら」

 日菜子はコートのポケットからそのばきばきの形容に恥じない、見事なばきばき携帯を取り出してくれた。表面に蜘蛛の巣みたいなひび割れ。ちょっと触るだけで指がガラスできらきら輝きそうなくらいの壊れっぷりだった。ほんとだ、と笑ってしまってから、ちょっと真面目な調子で私は言う。

「直しに行った方がいいよ、それ。指傷ついちゃうし」

「でもさ、太ったときに下敷きにしちゃったりするからどうしても壊れやすくて。もう完全に動かなくなってからでいいかなって」

「もう太らないんじゃなかったの?」

「決意と事実は別だから……」

 弱気だなあ、と言えば、冷静と言ってほしい、と返ってくる。なんて小賢しい物言いをする小娘なんだろう、と呆れていると早くもへいお待ち、の声がして丼がテーブルの上に来る。西、とんこつラーメン特盛チャーシュー三枚味玉二個。東、魚介ダブルスープ大盛メンマ増量味玉二個。私が東の方。午後から日菜子がずっと食べているのを横で見ていたら、自分も思い切り食べたくなってしまった。そこそこ散歩もしたし、今夜はたっぷり眠っておかないと、明日の体力がなくなってしまうかもしれない。

 箸を取って、髪を括って、いただきますをして、私も結構勢い込んで食べたけど、日菜子はそれ以上で、私が箸を置くまでに開店サービスで五十円の替え玉を二個も頼んだ。

 身体が熱くなる。異物を消化するために内臓がせわしく動いている。日菜子が食後のデザートを選ぼうとメニューを見ているのを、私はおなかをさすりながら見ている。

「あさき、ここパフェあるよ」

「もういっぱい。骨になっちゃうよ」

「でもパフェだよ」

「パフェかあ」

「味変えて二個頼もうよ。食べきれなかったら私が全部食べるからさ」

 ちょっと悩んでから、いいよ、と頷くと、日菜子はうれしそうに店員さんを呼んで追加注文をする。オーダーを受ける店員さんは、流石まったく私たちの食事量に動揺を見せなかったけれど、キッチンの方でおお、と声が上がった気がした。気のせいかもしれない。

 店員さんが去って、私はおなかの調子と相談している。たぶん私は、同年代の人たちと比べたらかなり食べる。睡眠時間が長いタイプだから、一日に消費しなくちゃならないカロリーが多くて、子どものころから比較的運動慣れも、食事慣れもしているのだ。

「あっ、待って。あんみつもある……。こっちも頼もっかな……」

 でも、それはあくまで比較対象が同年代の平均相手の場合で、日菜子とではイワシとクジラみたいなものだ。

「あさきー。あんみつ……」

「好きにしなよ、もう。でも、食べきれなかったら日菜子がちゃんと食べてよね」

 もちろん、と日菜子は笑って、メニューをたたむ。それから、こんなことを言った。

「あさき」

「なに」

「私が刑務所に入っちゃっても、友だちでいてくれる?」

 何かを答える前にパフェが来て、その話はそこで終わった。



 たとえば、暗闇の中で目覚めたとする。

 何も見えなかったとしよう。何も聞こえなかったともする。ただなんとなく鼻先に水の匂いが香って、今まで自分が寝ていた場所は、いつものベッドではない気がする。

 そんな場所で目覚めて、手の中には思い当たりのない、軽くて脆い、卵のようなものが握られている。

 きっと、多くの人はそれを手放したりしないだろう。

 そういう気持ちで、ラーメン屋を出たあと、私は駅へと向かわずに日菜子の家についていくことにした。日菜子はやった、とはしゃいだけれど、どうして、とは訊かなかった。わかっていたのかもしれないし、単に訊きたくなかったのかもしれない。

 途中のスーパーで、お酒を買った。部屋に着いたら、荷物を落ち着けないうちから日菜子はプルタブを開けて一本を飲み干した。アルコールは結構消化にカロリーを使うし、酩酊しやすい体質じゃなければすいすい入って気分もよくなる。人気の食事形態のひとつで、当然日菜子もそれをたしなんでいた。

 眠くなるまで、他愛のない話ばかりをした。

 昼ごろにここに来てからずっと一緒にいたっていうのに、一秒だって話すことに困るような時間はなかった。だけど、大切なことは何も口にしなかった。

 本当に私が訊くべきことはたった一つだっていうことも、そのたった一つが何かっていうことも、ちゃんとわかっていて、口にしなかった。

「不安なの?」

 と訊けば、きっと日菜子は答えてくれただろう。うん、そうなの。どこがどう不安なのかっていうとね……。そして私はすっきりする。なあんだ、そんなこと気にしてたの。全然大丈夫だよ。大したことじゃないよ。そう言ってまた背中をさすって、お酒を飲ませて、つまんないことは全部忘れちゃおうよ、と慰めることができる。

 でも、それじゃいけない気がした。

 酔いつぶれた日菜子が、抱えきれないほど重たくなってしまう前に、ベッドに引き上げる。今日一日の大量摂食で、日菜子の体重はようやく平均くらいに戻ったけど、元々身長差がある上に、私だって結構食べて体力を消費しているから、たったこれだけのことも重労働だった。

 机の上に広がった空き缶も、ビニール袋の中にまとめて、口を縛っておく。

 部屋の中をぐるっと見回した。

 まるい部屋だ。机だろうと棚だろうと、角は取られてまるみを帯びている。きっと、太りすぎたときに身体を傷つけないように、尖った部分をなくしている。

 本棚を見た。上から順に、漫画、漫画、通販の段ボール。口が開いていたのでひょいと中を覗いてみると、使い終わった教科書が無造作に入れられている。

 動物倫理学。

 キッチンの水道で、私の分のコップに水を注いで、飲んだ。

 冷蔵庫が静かに鳴っている。記憶の中からだけ、声が聞こえてくる。

 教育臨床心理学。拒食症とは摂食障害の一種です。思春期に多く、その理由としては自己肥大願望が挙げられます。宗教者や動物愛護家がその思想のために行う絶食とは臨床上区別されていますが、一切の食事を拒むといった極端な行動については、うつ病のような他の精神病からの合併症と判断される場合もあります。一方で過食症。これは反対に自己縮小願望から。あるいは食事という行為が周囲の社会に溶け込むための手段であるという側面を持つことを踏まえ、過剰な社会適応欲求なども理由に挙げられます。

 テレビニュース。テロ組織に対する強制摂食について、賛否両論です。先日、中東ゲリラ組織のメンバーと思われる人物に対し、アメリカ軍兵士と思われる集団が体力の消耗を目的に強制的に食事をさせている場面を撮影した動画がインターネットに投稿され、物議を醸しました。これに対してアメリカ大統領ヒックス氏は「安全対策上、当然の措置である」とコメントしていますが、投稿された動画にはゲリラ組織の母体となる宗教上タブーとされる食品の混入が疑われ、信仰の自由に対する問題から、アメリカ国内外で批判が高まっています。これを受け、篠山首相は「テロに対する処置としては妥当であり、アメリカの姿勢を評価する」とコメントしており、野党各党はこの発言について「多文化主義を推し進める中で個人の信仰の尊重は非常に重要なものであり、こうしたことに無批判に追従する首相の姿勢は評価できない」として、今国会で議論を深めていく構えです。

 冷蔵庫を、勝手に開けた。

 トマト、チーズ、卵。肉もなければ、魚もなかった。

 冷蔵庫を閉めて、ベッドに腰かけて、寝顔を覗いて、ひょっとするとこの子は、誰も傷つけたくないのかもしれない、と思った。

 心理学の授業で初めて会ったとき、変な声を上げた日菜子を、私は笑った。

 夏になるころに、自分が一晩に二倍近く体重が増えることをなんでもないことみたいに打ち明けた日菜子を、私は笑った。

 私が年末年始に実家に帰省しているあいだに、このマンションの一室で肥え太ってぎゅうぎゅうに詰まった日菜子を、私は笑った。

 どうして日菜子は、バイトもサークルもやらないんだろう、と思うことがある。

 どうして日菜子は、私のほかに大学で友だちがいないんだろう。中学の友だちの話も、高校の友だちの話も聞いたことがない。

 どうして日菜子は、両親に一人暮らしを許してもらえたんだろう。本当に、私が想像しているように、日菜子の両親は日菜子によく似た、能天気な人たちなんだろうか。どうして日菜子は、あの年末年始、一人きりでこのマンションの一室で眠って、太っていく必要があったんだろう。

 訊いてみてもいいのかもしれない。そして、日菜子の持っている荷物を半分くらい持ってあげるのが、友だちってものなのかもしれない。

 でもそれが、私に抱えきれないものだったら?

 日菜子がそれを、ちゃんと理由があって隠しているんだとしたら?

 ただの思い過ごしなのかもしれない。日菜子がバイトもサークルもやらないのは私と同じくめんどくさいだけで、中学と高校の友だちの話はわざわざ私にしないだけで、日菜子の両親は本当に能天気で年末年始はハワイ旅行にでも行ってしまったのかもしれない。

 日菜子が、私にそう思わせておきたいとしたら。

 そう思っていられるくらいに鈍い私だから、友だちになっているんだとしたら。

 私はどうすればいいんだろう。

「どうなの」

 ささやくと、声はあっけなかった。

 日菜子は何も答えないまま、幸せそうに寝息だけを洩らしている。

 あ、とそれで思い出した。

 心理学の講義で隣の人と相談しろと言われた、その質問の内容。

 他人の心は、どうしたら知ることができると思いますか?

 教授が言った答えの方は思い出せなくて、それでわかった。

 そんなものはどうでもいいと、私は思っているのだ。



 レンジが鳴ったら、さすがに日菜子ももぞもぞ起き出した。

 んん、とか、むぐぐ、とか唸っているのを無視して、カーテンまで開けてやる。なにせ、もう朝どころじゃないのだ。お昼。昨日の夜に閉まったスーパーが開いて、私が買い物に行って帰ってくる、そのくらいの時間になっているのだ。

 さすがに揺さぶって起こしたりはしない。そのくらいのやさしさはいつでもある。私はまたテーブルの前に座って、続きに取りかかる。

「いい匂い」

 のそ、と毛布のこすれる音がして、その中から日菜子が顔を覗かせている。一晩の間にまるくふくれたおまんじゅうみたいな顔をして、私の手元を見ている。

 食パンを買ってきた。チーズとトマトを勝手に使って、勝手にトーストを作った。端っこからかじって食べる。真ん中から食べる人はいないから。

「食べる?」

 日菜子は頷いて、あ、と口を開けた。甘えんぼうめ、と私は笑って近づいてあげる。

 どうでもいいや、と思った。日菜子が悩んでいても、悩んでいなくても。

 ものすごく太る日菜子は、ものすごく太ることを気にしているかもしれないし、していないかもしれない。

 ものすごく太る日菜子は、太らないでいるためにたくさんの動物を消費しなければならないことに罪悪感を抱いているかもしれないし、抱いていないかもしれない。

 ものすごく太る日菜子は、その体質のために法律で規制されるような暴力を自分の中に見出されることを悲しんでいるかもしれないし、いないかもしれない。

 ものすごく太る日菜子は、そのことで人から同情されることをうっとうしがっているかもしれないし、あるいはそうして人の気持ちを落ち込ませることをつらく思っているのかもしれないし、それとも何も気にしていないのかもしれない。

 日菜子には日菜子のつらさがあって、私にそれを気付いてほしいのかもしれないし、ほしくないのかもしれない。

 そういうことは、どうでもいい。

「はい」

「あぐ」

 日菜子の一口は大きい。しゃく、という音とともに四分の一近くを口に収めて、ぽろぽろとこぼれるパンのかけらは私がティッシュで拾ってあげる。

「おいしい。あさき、料理うまい」

「料理ってほどでもないけどね」

 私は日菜子の友だちだ。

 自分で言うのもなんだけど、だいたいのことは笑って済ませてしまうし、結構面倒見もいいし、食事にもまあまあ付き合えるし、こうして家に泊まって朝ごはんを分けてあげるくらいのこともできる。

 別にそれでいいじゃん。そう思う。

「もう一口」

「えー。もう自分の分作りなよ」

「ねむ。さむ」

 日菜子に悩みがないなら、それはそれでいい。日菜子はたぶん、体重制限法とかいうのが始まっても能天気なままだから、もう少し小まめに家に来てあげることにする。それだけ。

 もしも日菜子に悩みがあるのなら。

「あーん」

「図々しいなあ……」

 ずっと一緒にいてあげる、って。

 お伽話の言葉かな。

 今度はベッドの上にかけらがこぼれないように、お皿ごと持ち上げて日菜子の口に、トーストを運んであげる。

 日菜子は目を閉じて、ふくよかになった頬の間で無防備に、ぽっかり口を開けている。

 その口の奥の、まっかな喉に向けて、私はひっそりささやいた。

「ちいさくなあれ」

 おいしい?と訊けば、おいしい、と日菜子は答えた。



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[一言] 不思議な話。友情なのか百合なのか。食えば痩せる世界ってどういう発想だ。面白し。
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