ギブアンドギブン
暗闇の中、ふぎゃあっ、と声がして、今僕が踏んだのは、彼女の長い髪の毛なのだと分かった。
「ごめん、痛かった?」
すると返事は無く、代わりに、すいっ、と空気が揺れたのを感じた。暗闇に慣れたおかげで、そういう感覚が鋭くなってきている。恐らく、彼女が頭を振るか何かしたんだろう。
彼女は日に日に「猫み」を増している。僕たちの視界が真っ暗になってからそれなりに時間が経った。肩をくすぐる程度だった彼女の髪の毛が、歩いているとたまに踏めるくらいに伸びたので、相当な年月が過ぎているのかもしれなかったが、僕自身はあまり、時の流れというものを感じなかった。なにせ頭髪は伸びないし爪も伸びない、空腹も来ないし睡魔も来ない。だから彼女の変化を、空気を伝って読み取ることだけが僕の生き甲斐だった。
彼女は先に行ったように、頭髪が伸び、体中の産毛がふさふさしてきて、この前なんか、しっぽみたいなものが腕に当たった。あれは髪の毛とか、そんなんじゃなかった。意志の通ったもふもふであった。それがしっぽであると確信するには、きちんと理由がある。耳をすませば聞こえるはずだ。常に物音がしているのが分かるだろうか。これは彼女がひたすら、走り回ったり転げまわったりしている音で、その様子はまるで、この世初心者の子猫そのものだった。想像すると楽しいのだか、残念なことに、本物の真っ暗闇なので、走り転げる彼女の姿は、僕の視界に映らない。
しかし彼女は猫だ。僕がどうしても暗闇に寂しくなったときには、一直線に来てくれる。最近はすっかり毛深くなって、本当に彼女なのか、疑問に思うこともあったけれど、こんな風に僕の下へ来てくれるんだから、間違いない。
彼女は真っ暗になってから、明るくなった。以前は歩くことが恥ずかしいと言って、いつもスキップをしていたけれど、今ではもしかすると四足歩行の足音が聞こえるので、微笑ましい。そうやって彼女は変わっていくのに、僕は何も変わらない。試しに筋トレを始めてみたけれど、肉体が頼もしくなった感じも無いのでおよそ二年前に止めた。
僕は変化を想像で賄うことにした。彼女はきっと、ソマリとか、そういう系統の猫だろう。すごく元気だけど、絶対に僕の下へ戻ってきてくれるから、河原で日向ぼっこするのもいいな。
彼女と僕は、猫と飼い主になるのだ。そう思ったとたん、僕は体感60歳年を取った。真っ暗闇は眩しいほどの野原に変わって、僕の膝の上には彼女が丸くなっている。そういえば、彼女は猫になりたいと言っていたし、僕は彼女の夢を叶えてあげたかった。
ありがとうございました。