35
居室に戻り、制服に着替えて身支度を整えた私は、授業に必要な本や道具を小さいトートバッグに入れ、つばの広い白い帽子を被って部屋を出た。帽子には淡い水色のリボンがついている。
食堂に寄って、冷たい紅茶を水筒に詰めてもらう。食欲がなかったが、小ぶりなパンを一つナプキンに包んだ。
食堂を出ると、その足で庭園に向かう。
昨日の夜、星を散らしたように見えた人工の川は、今は陽光を眩しく反射している。今日は日差しが強いから、帽子を被って来て正解だ。
昨夜は暗くて見えなかったが、せせらぎに沿って植えられた矢車菊が一面を愛らしい青紫に染めている。
昨日私が体を休めたベンチを見つけると、居住まいを正し、一人分スペースを開けて座る。日差しを浴びないように帽子を深くかぶって、冷たい紅茶で喉を潤した。
授業時間中の庭園には、誰もいない。
私には、根拠のない確信があった。きっともう少しここにいれば、彼がやって来る。
風に揺れる矢車菊の鮮やかな青は、昨日見た炎の色に似ていた。澄んだ空が高く、白い雲が大きい。暑い季節が近いことを予感させる天気だ。
背後に、人が近付き、立ち止まる気配があった。振り返らず声を掛ける。
「よろしければ、隣にどうぞ」
背後の人物は、緩慢と思えるほどゆっくりした動作で、私の左隣に腰掛ける。
「――昨日は、ありがとうございました」
まずはもう一度お礼を言って、隣に座ったマクアダムス卿を見つめる。今日も騎士の制服を着ているマクアダムス卿は、いつもどおり爽然とした佇まいだ。
「いえ。それより、どうされたのです。授業に向かわれないのですか」
「今日はどうしても確かめたいことがあって参りました」
「…昨日のことですか」
「いいえ、マクアダムス様が私の後をつけているかどうか、知りたかったのです。でも、今その答えがわかりました」
マクアダムス卿は何も言わない。
「私、自分をあんな風に呪ってまでアルバートの気を引こうとなんかしません。そんなことしなくても、どうせここを卒業すれば結婚するんです。
わざわざみんなを巻き込んで迷惑かけたり、心配させて自分が注目されたいなんて、そんなこと絶対にありません」
「――わかっています」
「いいえ、わかってらっしゃらないわ。わかっているなら、どうして私を見張っているんですか、どうしてここにいることが分かったんですか」
堰を切ったようにあふれた言葉が上ずってくる。これ以上何か喋ったらうっかり泣いてしまうんじゃないかと思い、途中で口をつぐんだ。唇が震えだしそうだ。なぜか、マクアダムス卿の前では、絶対に泣きたくなかった。
「あなたを見ていたら、あなたが邪な計略を謀れる人物ではないことくらい、わかります」
低くマクアダムス卿が呟いた。予想をしていなかった言葉にまた心がさざめき立つが、唇を噛んでぐっと堪える。騎士殿が言葉を続ける。
「――そうでした。お渡ししたいものが」
そう言いながら、おもむろに、ここに現れた時から手に持っていたら小さい茶封筒を差し出した。封筒にしては少し膨らんでいる。
「よろしければ使ってください」
なんだろう。受け取って、手のひらに乗せたまま、騎士殿を見つめる。
「開けてもいいですか」
「どうぞ、大したものではありませんが」
小袋から出てきたのは、折り畳まれた白いコットンのハンカチだった。
膝の上で広げてみる。飾り気はないが、生地がしっかりしており、上品で使いやすそうだ。いつも使うものよりひと回り大きいので、男性用のハンカチなのかもしれない。
「昨日、一緒に燃やしてしまいましたので」
「あれは…、私が燃やしてほしいとお願いしたからです。すみません、お気遣いいただいてしまって。
すてきなハンカチ、ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」
真っ白なハンカチ。今日私に会ったら渡すつもりで持ち歩いてくれていたのかな。広げたハンカチをもう一度丁寧に畳み、封筒に入れる。
私のお礼に対してしばらく何も言わなかった騎士殿だが、突然思い出したように、
「――もちろん未使用品ですよ」
と、どうでもいいことを付け加えるので思わず笑ってしまった。
「わかってます」
洗ってあるなら私はどっちでもいいけど。一度緩んだ表情は、元には戻らない。さっきまで萎れていた気持ちに光が差してきた。
「それしても、勘が鋭いですね。私たちがあなたを注視しているとなぜ思われたのですか」
「アルバートが今朝わざわざ医務室にまでやってきて、そんなようなことを言っていましたから」
「殿下が。そうですか」
いつものマクアダムス卿を見ていると、頭の霞が晴れたような気がする。
なぜ誤解を解くために、何かしなければと思わなかったのだろう。ショックを受けてへこむより、行動を起こすべきだった。
頭が働き始めた私に、名案が閃いた。
王后陛下の誤解を解くためには、今私とアルバートの仲を正確に理解していただく必要がある。アルバートが何に夢中なのかも知ってもらった方がいいだろう。
それには、この先発生するアルバートの破廉恥なイチャイチャ現場にこの騎士殿に立ち会って貰えれば話が早いのではないだろうか。
「マクアダムス様、どうせ私の後をつけいてるんでしたら、今度、私たちの活動をお見せします」
「活動ですか」
「はい、面白いものを見ていただけると思いますので、よろしければ」
風紀委員のメンバーの顔を思い浮かべ、どう説明しようかと考える。
ミシェルは嫌がるだろうな。パティとローラは気にしなそう。シャローナは、どうだろう。イケメン好きだから喜ぶかもしれない。
そういえば、ふとシャローナが騎士殿に聞きたがっていたことを思い出し、今なら聞けそうなこの質問をぶつけてみることにした。
「マクアダムス様に婚約者はいらっしゃるのですか」
表情を全く変えずに、騎士殿が即答した。
「いません。私は結婚いたしませんので」
いつもと変わらない声音でそう答えた騎士殿。
結婚しない、というのは、どういうことなのだろう。お坊さんにでもなるのだろうか。そう決めている? 愛することを許されない誰かに思いを寄せているとか? もしかして、BL的な?
いずれにせよ、何やらとても立ち入った事を聞いてしまったらしい。どうであれ、私にはそれを詮索する権利なんてない。
「そうでしたか、失礼なことを伺ってしまい申し訳ありません」
私はベンチから立ち上がり、
「今夜はキース先生の舞踏会ですよ」
と話しかけた。騎士殿も立ち上がり「心配ですね」と続ける。
「明日は先生のお土産話を聞きに、研究室にみんなで伺うことにしています。授業後です。
尾行されるなら、キース先生の研究室を探していただければ、すぐ見つかりますので」
太陽光がまぶしいのか、マクアダムス卿は目を細めて頷いた。
「ハンカチ、ありがとうございました。では」
もう一度お礼を伝えて立ち去るとこにした。風が吹いて、騎士殿が何か呟いたが聞こえなかった。
振り返らず、歩を進める。風に煽られた制服のスカートを押さえながら、足早に食堂に向かった。他の生徒たちが授業中なので、今なら空いている食堂でゆっくりランチを食べられるチャンスだ。
さっきまで全然空腹を感じなかったのに、不思議とお腹はペコペコだった。




