第78話 毒蜘蛛令嬢は命令さんに物理で噛みつく
ヒルダさんが立ち上がった。
やっべーやべえ。
だが、カウンターを放って駆けつけることは出来ない。
ゆりゆり先輩っ。
アイコンタクトをゆりゆり先輩に向けると、彼女は笑って手を振った。
やべえ、ゆりゆり先輩、役に立たない。
漆黒の髪、漆黒の目、赤い唇。
ヒルダ先輩は動く時、物音を立てない。
地上の霧が静かに高速で移動するように、彼女は命令さんの前に立つ。
「な、なによっ、ヒルダ・マーラー、あんたなんかポッティンジャー公爵派閥を抜けたなら、怖く無いわよっ」
「ケリー・ホルスト伯爵令嬢、自主零細派閥の領袖、ヒューム川の水運都市ヒルムガルドの領主」
命令先輩はケリーさんというのか。
ヒルムガルドというのは、王都横を流れる川の上流にある、結構大きい都市だね。
「な、なによ、うちが何だというのっ」
「お父様のランドルフ卿は恋多き方のようですわね。先日新しい弟さんが生まれましたわね。おめでとうございます」
「あ、あんな売女が生んだ奴なんかっ、弟じゃないわっ!!!」
「そうなんですか、せっかくの男子誕生じゃないですか、喜ばないといけませんよ。一門の存続こそが貴族の大事なのですからね」
ヒルダ先輩はふわりと笑う。
命令さん、いや、ケリー先輩は怒りで顔を赤黒く染めた。
「どうでしょうか、初の男児誕生ですわ、マーラー家が側室派閥の後押しをして、嫡子として認められるようにしてもよろしいのですけど」
「な、なにを、や、やめなさいっ、人の領の事にくちばしを突っ込まないでっ!!」
ヒルダ先輩はいきなりケリー先輩の頭をがしっとつかんだ。
「だったらあやまれ、おまえなぞ家から追放させるのはたやすい事だぞ」
「だ、誰が毒蜘蛛なぞにっ」
「言ったな」
ヒルダ先輩はにやりと嗤うと、ケリー先輩の首筋にがぶりと噛みついた。
なんで?
「これで、お前は私の眷属だ」
「ひ、ひいいいいいっ!!」
ケリー先輩は悲鳴を上げて、椅子から転げ落ちた。
ヒルダ先輩は口から一筋血を滴らせ、目を細めて嗤う。
もう、しょうが無いなあ。
「メリサさんカウンターおねがい」
「わかりました」
私が食堂に入ると、ゆりゆり先輩が手を軽く振った。
あんたがなんとかしてくださいよっ。
「バンパイヤごっこは感心しませんよ、ヒルダ先輩」
「実際に吸血鬼の血は流れてるのだけどね、ごく薄くなって眷属なんか作れないわ」
「本当に血が流れてるのかいっ」
私が突っ込むとヒルダ先輩はにっこり笑った。
本当にやっかいな人だなあ。
「あわわ、私も吸血鬼に、吸血鬼になってしまうっ」
「聖別しますから、大丈夫です。『生聖』」
私は、単なるヒールをケリー先輩の首筋に掛けた。
青白い光と共に、ヒルダ先輩の残した歯形は綺麗に消えた。
「は、はあ、はあ、あ、あの、その」
「なんですか、ケリー先輩」
「お、お礼を言ってあげても、よ、よくってよ」
「普通にありがとうと言いなさいよ」
ヒルダ先輩が突っ込んだ。
「あ、ありがとうございます、聖女さま」
「たいした事ではありませんよ。でも、もう食堂で騒がないでくださいね」
「わ、わかりました」
ケリー先輩は取り巻き二人を連れて、食堂から逃げていった。
ヒルダ先輩はいつのまにか、元の席について、お茶を飲んでいやがる。
ほんとうに、もうっ。
そして、ゆりゆり先輩は、また私に手を振るのだった。
ゆりゆり先輩使えねーっ!!
私がカウンターに戻ると、コリンナちゃんがニヤニヤしながら声をかけてきた。
「おつかれー」
「まったくヒルダ先輩は~」
「まあまあ、これでヒルダ先輩に逆らおうという人は出てこないから良いとおもうぞ」
「物理で噛むことはなかろうに」
「まあ、命令さんのわがままは目にあまるからねえ」
「命令さんちは独立派閥だったんだねえ」
「ああいう細かい小派閥も、王国には沢山あるらしい」
「なるほどねえ」
小派閥は大体王家派閥の庇護を受けているという話だ。
結構ややこしい事だね。
お客さんのピークが去って、一息つく。
「マコトさんが居てくれるので、食堂のトラブルが減って助かるわ」
「食堂の主みたいになるのは嫌なんですけどー」
「まあまあ」
メリサさんが褒めてくれるけど、なんか納得がいかない。
「マコトさま、鍵が出来てきました」
「ダルシーお帰り。ありがとうね」
ダルシーが急に横に出現して、鍵の束を差し出してきた。
「後で神殿にお手紙を書くから、届けてくれるかな、夜遅いけど」
「問題ありません、なんでもお申し付けください」
「ダルシーは便利だね、私も一人欲しい」
「ありがとうございます、コリンナさま」
「お賃金が高そうだから、男爵家だと大変よ」
「うわ、じゃあ、いらない」
「……」
憮然とするダルシーは放っておいて、私は鍵束から鍵を一つ取り出して、コリンナちゃんに渡した。
「私に? いいの?」
「みんなが使う部屋だからね、コリンナちゃんにも、カロルにも、鍵を持っていて貰いたいわ」
「ん、ありがとう、うれしい」
私とコリンナちゃんは顔を見あわせて、にっこりと笑い合った。
いいよね、こういうの。




