第55話 ジェラルド視点:僕の大切なアバカスの君へ
Side:ジェラルド
教室へ向けて廊下を歩く。
キンボールと同室のケーベロスという、ぐりぐりメガネでみっともない文官志望の娘を見て、僕は、なぜだかアバカスの君の事を思い出した。
彼女と出会ったのは、もうずいぶん昔の事。
僕が最初にアバカス競技会に出た頃の事だから、そう、十歳の頃だ。
僕が競技をする卓の斜め前の卓に彼女は居た。
赤い石のアバカスを使う、妖精のような儚げな少女から、僕は目が離せなかった。
小柄で、小さい手、灰色がかった銀髪、なにより印象的なのはその目だ。
深く吸い込まれそうに澄んだ青い目。
一目見た瞬間に、僕は彼女の虜となったのだ。
アバカスの君は、綺麗な少女だったが、身なりは貧しく、平民の商人の娘か、下級貴族の娘であろうと推察できた。
華麗な指使いでアバカスをリズミカルに正確に素早く弾く。
その姿は、優美でとても美しかった。
競技の後、何度も何度も、声を掛けようとした。
毎年、今年こそはアバカスの君の名を聞き出すのだと決心し、大会が終わるたびに声をかける勇気がなかった自分を責める日々が続いた。
彼女と仲良くなってどうする。
自分は侯爵家、彼女は平民か下級貴族。
身分差で結ばれる事はあり得ないと自分に言い聞かせる。
それでも、アバカス競技会のたびに彼女を目で探し、彼女が参加していることを確認してほっとする。
彼女も、時々、僕に話しかけようとしているのに気がつく時があった。
でも、僕も、彼女も、なんだか気後れして諦めてしまっていた。
僕は、忙しいから婚約者を決めていないと言われている。
だが、それは嘘だ。
アバカスの君が居たから、僕は婚約者を決められなかった。
きっと、いつか、彼女の名前を聞き、きっと、いつか、笑い合い、一緒に夜会に出て、そして、愛を語り、婚姻を結ぶ。
そんな夢のような事を考えて、僕は婚約の話を断り続けた。
そして、五年前から、彼女はアバカス競技会に出てこなくなった。
競技会に彼女が居ないと気がついた時、僕は失った物に初めて気がついた。
巨大な喪失感で目の前が真っ暗になった。
ああ、なぜ僕は一歩踏み出せなかったのか。
ああ、なんて僕は勇気が無く、駄目な人間なのか。
その回のアバカス競技会では胸が詰まる感じで、初めて十位以下の納得できない結果に終わった。
家に帰ると、悲しみと苦悩で熱を出し、寝込んでしまった。
この頃、僕はケビン第一王子の側近に選ばれたのだが、出仕早々に倒れてしまい、きっと首になるのだろうなと、熱にうなされながら考えていた。
寝込んで三日後、なんとケビン第一王子が僕の家へお見舞いに来てくれた。
目を覚ますと枕元にケビン王子が居るというのはなかなか得がたい体験だった。
「ケビン王子……」
「ううん、寝ていて良いよ、ジェラルドが意外に元気で安心したよ」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「誰でも具合が悪くなることはあるよ、しっかり養生して、体調が良くなったら、また、僕の仕事を手伝ってくれ」
「ありがたきお言葉」
僕は胸が熱くなった。
なんと優しい方なのだろうか、彼の為なら僕は命をかけてもいい。
いつまでもずっと、王子の治世を影で支えて行こう。
そんな事を誓ったのを覚えている。
お見舞いに来た王子と色々な事を話した。
政治の事、経済の事、そんな流れの中、ついうっかり、アバカスの君の事もしゃべってしまった。
「そうか、ジェラルドも木石で出来てるわけじゃないんだね、嬉しい発見だ」
「い、いえ、失言でした、忘れて下さい」
「そうか、寝込むほど、ジェラルドが女の子の事をね、ふふふふ」
「王子、面白がってますね」
「面白いとも、新しいジェラルド像の発見だ。よし、解った、僕も協力する、相手の女の子がどんな身分だろうと、君と結ばれるように力を貸すよ」
「王子……」
「早く見つけ出そうジェラルド、熱を出して寝込んでいる場合ではないよ」
「あ、ありがとうございます」
暗い道の向こうに光明が見えた気がした。
相手が庶民であろうと、下級貴族であろうと、ケビン王子なら何とかしてくれる、そんな力強い助けを得た、と思った。
人間とは現金な物で、何とかなるかもと希望を得ただけで、翌日には熱も下がり、王子の元へ出仕する事が出来た。
それから五年間、僕は各方面に必死に手を伸ばし、探し続けたのだが、いまだにアバカスの君は見つからない。
だが、僕は諦めない。
いつか必ずアバカスの君を見つけて、愛を告白し、婚姻を結ぶ。
必ずだ。
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「コリンナちゃんがメガネかけ始めたのはいつよ?」
「んー、五年前だなあ、勉強のしすぎだ」
「もっといいメガネに替えればいいのに」
「金がねーんだよっ、しょうがないよ」




