第三十五話 顛末
邪魔だなと思いました。思ってしまいました。
勝手に惚れられて、勝手に鬱になって、そんなの私から知っちゃこっちゃないんです。ましてや、私を刺せば、私がテールイを殺すのだと思っていること自体、腹が立ちます。
そんなに死にたいのなら、私が手を下してやろうかと、本気でそう思いました。けれど、それをやってしまえば、本当に私は悪魔になってしまう。そうとも、私の本能が訴えかけていたのです。
そうですよ。
テールイは最初から、私にとって、私が人であるための最低ラインとして存在しているだけでした。最初から、私には助ける義理もないし、最初から私には彼女の思いに応える必要もないのです。
体から、さらに闇が噴き出しました。テールイの命を奪おうと、勝手に噴き出してきたのです。
それを理性で抑え、また、私は破壊衝動をも抑えつけました。
殺してはいけない。ただいらついたからだとかそんな理由で殺してはいけない。
今まで、私が殺してきた人間たちは皆、私の命を脅かした人間たちばかりのはずでした。光を歪ませる空間を使用した男も、銃とかいう武器を保有していた男も、ボリチェも、ジョイマスも。
あの日、初めて闇覚醒を使った日、そして、兄を殺した日、凛さんが死んだ日。
凛さんのために関係ない人間まで殺してしまった時から、私は命を奪うのは命を奪いに来た者だけにしようと思っていました。
けれど、時々、衝動的に殺したくなってしまいました。それはいけないとわかっているのに。
「とにかく、テールイ、私はあなたを殺せません」
「でも、でも!」
「何してるの?」
横から声が飛んできて、何かと見ると、モイメさんがちょうど目を覚ましていました。
そこで、ようやくテールイは爪を私の腹から抜きました。
「何も、していません」
彼女はそんな誰の目から見てもわかる嘘をつきました。
「シュワイヒナちゃん、大丈夫!?」
そう焦って言う、彼女の目線は私のおなかのほうへと吸い込まれ、そして、止まりました。
「嘘……」
高速で塞がっていく私の腹を見て、モイメさんは唖然としていました。そりゃあそうでしょう。普通は、あんな事されれば死ぬんですから。
「私は死にませんから、安心してください」
モイメさんは何も言うことができないようでした。
そして、それを見たテールイは自分の爪を見て、そして、それを自らの首へと近づけて、
「ひっ……」
爪が彼女の首に触れたとたん、そう言葉を漏らして、手を下しました。
「テールイちゃん、何があったの!?」
そういう彼女に対し、テールイは何も答えません。
「何があったの!」
モイメさんはテールイの肩をもって、目をじっと見つめ、そう聞きます。
「……あなたなんかに話すわけないじゃないですか。あなたは何も知らないんですから」
テールイはそう答え、モイメさんの手を振り払いました。
結局、何も考えずに、私たちは山を登り始めました。そして、三千五百メートル地点で、天気が悪くなり、ブリザードが来るということで、テントを張り、私たちはそこで眠りました。
そこまでの旅路は誰も何も言わず、本当に静かでした。そりゃああんなことがあったばかりですから、私とテールイは何も言えませんし、モイメさんもテールイの言葉がショックだったようで、何も言うことはできなかったようです。
ブリザードは長く続くようで、私たちはご飯を食べ始めました。なんということはない、簡素な食事ですが、なぜだか全く味がしません。
頭がいろいろなことでいっぱいで、味がしなかったのだと結論付け、特に気にはしませんでした。
それから、ブリザードが過ぎたら出発しようと思い、体力を温存するため、私たちは一度、眠り始めました。
凛さんがいました。しかし、様子がおかしいのです。
黒いレースのような服を着て、全身に闇覚醒の紋様が現れて、どこか淫靡な雰囲気を纏っていました。
そんな彼女が私のほうへと、手を伸ばし、微笑んでいるのです。
「凛さん!」
そう一歩踏み出すと、ふと頭の中で半ば本能的にそっちに行ってはいけないと思いました。
足を止める私に凛さんは
「どうしたの? いいから、おいで」
そう優しく言葉をかけてきます。その言葉が直接、私の脳みそを溶かしているかのように、思考能力を奪っていきます。
早く、凛さんに抱き着きたい。早く、その唇に触れたい。早く、愛されたい。早く、愛したい。
凛さんには話したい事もたくさんあります。この時を、凛さんに会える時を心の底から楽しみにしていたではありませんか!
行け。凛さんを抱きしめろ。
足が動きません。足が震えて動きません。
「私に会いたかったんじゃないの? 私はシュワイヒナに会いたかったよ」
甘い言葉。
好き、が溢れだす。私は凛さんが好きだ。あの体に触れれば、きっと私の悩みも全部なくなってしまうような気がする。
「怖い、んだね。いいよ。私がそっちに行くから」
いや、来ないで。
早く、こっちに来て。
相反する感情が渦巻いて、頭がおかしくなりそうでした。けれど、そんなのもすぐに終わります。
暖かい手が私の手を掴みました。それだけで、否定的な感情は消え去り、圧倒的な幸福感が押し寄せてきます。
「凛さん」
「シュワイヒナ」
彼女は私の手を引っ張って、私をきつく抱きしめてくれました。
「凛さん、凛さん、凛さん!」
ああ。温かい。まぎれもない凛さんの温かさだ。
上を見上げれば、美しい顔が目の前にありました。
「シュワイヒナ、愛してる」
そう言うと、凛さんは瞼を下ろして、顔を近づけてきました。
それに、応えるように、私も目を閉じ、その時の、到来を待ち望みました。
来る。
たった一秒にも満たない瞬間が、永遠にも感じられ、胸が高鳴りました。
そして、ついに訪れるその時。
唇同士が触れあい、頭がおかしくなってしまいそうな幸福感と快楽が流れ込んできました。凛さんの味。凛さんの体温。凛さんの心。
そのすべてが、私のそれと混ざり合って、溶けていく。そんな感じがしました。
一生続いていく。老いて死ぬまで続いていく。そうなってしまえばいいと本気で心の底から願っていました。
けれど、そんな幸せな時間もすぐに終わって、凛さんは唇を離しました。
そして、またニコリとほほ笑み、
「こっちに来て」
そう言いました。
「もちろんです」
考えるよりも先にそう口をついて言葉が飛び出しました。
その返事に、凛さんは喜んだ様子で、私の髪を撫で、
「良い髪だよね。私、この髪が世界で一番好き」
そう言い、
「これも黒くなることだけが残念なことかな」
不思議なことを言ったかと思うと、次の瞬間にはどこから現れたかもわからぬベッドの上に私の体は押し倒されていました。
「全く、凛さんったら。意外とオオカミですよね」
「しょうがないでしょ。私だってずっと会いたかったんだから。それに、二つのものが蕩けて、一つになっていくのってとっても素敵なことじゃない?」
「そうかもしれませんね。いいですよ。凛さんの好きにして。全部受け止めますから」
もう一度、彼女は口づけしたかと思うと――
目が覚めていました。やはり、夢だったようです。そりゃあそうですよね。あんな天国とは違って、ここは地獄なんですから。
そう思って、横を見て、
「――っ!」
まだ夢の中にいるのかと思いました。
テールイも、モイメさんもいなかったのです。どこかに行ってしまったのでしょうか。しかし、外はブリザードが吹き荒れる地獄です。そう簡単に外出などできるわけがありません。
はてと首を傾げ、もう一度、じっくり見てみると、何か小さなものが転がっているのが目につきました。
「なにこれ?」
手を伸ばし、それを掴むと、柔らかい感触がありました。知っている感覚でした。
「……」
それが何なのかなんて、すぐにわかりました。けれど、その事実から連想される真実について、私は困惑し、体のどこからか震えが起こりました。
指、でした。テールイの。
ようやく気が付きました。私の周りが血に染まっているのです。そして、私の体の中からは今まで感じたことのないようなエネルギー。
背中には、羽が生えていました。ちょうど鳥のものがそのまま巨大化したようなものでした。
服は、黒いレースのもの、夢で凛さんが着ていたものに変わっており、さらには全身に真っ黒な文様が浮き上がっています。
ああ。
二人はどこかに行ってしまったんじゃない。私が殺したんだ。私が食べちゃったんだ。
眠っている間に、無意識のうちにやってしまったのか。
本当に、悪魔になっちゃったんだ。
違う。私が殺したんじゃない。そんなわけない。
違う。私が殺したんだ。私だけ生き残ってそこにいるのがなによりの証拠だろうに。しかも、もう戻れないところまで来てしまってるじゃないか。
――違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
わからない。わからない!
だって、なんで私が二人を殺すなんてことしなきゃいけないの。少し邪魔って思っただけじゃない。本気で殺したがってたわけないでしょ!
こんな結末、存在しない。あるわけない。やり直さなきゃ。
外へ飛び出す。
天上翔真の闇覚醒の力を使えば、時間を遡れる。そうすれば、テールイが、モイメが死んだ事実も消えてなくなる。私が食べた事実も消えてなくなる。
消さなきゃ。なくさなきゃ。
強く羽ばたく。強い風が、私を追うように追いかけてく。
気持ちいい。楽しい。
違う。そんな感情いらない。仲間が死んだんだから、悲しまないといけない。そうじゃないと、私は本当に悪魔だ。
――いらない人間が消えて、嬉しいんでしょ?
嬉しくなんかない! 私が人であるために、私は悲しまなきゃいけない。
――もう人じゃないよ。
違う、私は人として、生まれて、人として生きていく。そうじゃないといけないんだ!
――その力があれば、世界くらいぶっ壊せる。私は今、世界で一番強い。
力があったって、悲しいだけ。
嫌だ。悪魔になんかなりたくない。ずっと、ずっと人でいたい。
――佐倉凛だって、悪魔だったじゃん。あっちに行きたいでしょ。
違う。あれはただの夢だ! 現実じゃない!
「なんだ?」
いた。天上翔真だ。
「シュ……シュワイヒナ・シュワナか」
こいつを闇覚醒させるには、隣の女を殺せばいい。
そう思った瞬間、女の体は文字通り、弾けた。そして、闇に食われ、欠片すらもなくなっていく。
「は?」
そんなとぼけた顔しないで、さっさと憎め。絶望しろ。悪魔のほうへ堕ちろ!
「お前、なんでそんな泣きそうな顔してるんだよ」
「うるさい! 美月は死んだ。私が殺した! さあ、恨め! 私を殺しに来い!」
「美月が……死んだ? 嘘だろ。どうなってんだよ!」
「嘘じゃない。もうどこにもいないでしょ」
「お前がやったのか……なんのために?」
「早く、早く、早く!」
なら、先に仕掛ける。
飛び出し、男の顔を殴った。それだけで、衝撃波が生まれ、男は大きく吹き飛ばされ、倒れる。
気持ちいい。こんなのやめられない。こいつの命は、今私が握っているんだ!
違う。そんなこと思っちゃいけない。普通の人は、そんなこと思わない。
「既に決着はついている!」
気づけば、私の首は切断されていた。けれど、そんなこと、私にとって些細な事。
「早くしろよ!」
男の首を掴んで、地面にたたきつける。
「ぐぁ!」
痛みにもだえ苦しむ天上翔真。
――優越感。
違う!
――殺したい。殺したい。
違う!
「お前……何がしたいだよ。そんなに苦しんで」
「黙れ!」
そう叫んだとたん、男の体は弾きとんだ。大量の血しぶきが、舞い、私の体にかかる。それすらも、私の体は吸い上げ、破片を貪る。
命が二つ消えた。私が消した。何の罪もなかったのに、殺してしまった。
もう戻れない。時間を巻き戻す力も失ってしまった。
もうどうしようもない。いっそ、世界なんて壊してしまおうか。
――そんなことしちゃいけない。
なんで? なんでダメなの? なんで? 私は悪魔だ。壊すことが本望だろう。
凛さんのところに行かなきゃ。
凛さん以外の全てを壊して、二人きりで過ごすんだ。幸せだろう。二つの悪魔だけの日々だ。
立ち上がった。
目下には雲が広がっている。それを抜ければ、先にあるのはたくさんの人。
殺すしかありません。全部ぶっ壊してしまえばいいのですから。
黒い雨が降り出し始めました。




