第三十一話 使者
「私と戦うのはやめておいたほうがいい。命を失うぞ」
「……だから、なんだってんですか!」
もう訳がわからない。なんで、こうも私たちは平穏の中にいられないのか。神だとか悪魔だとか、そんなこと言われたって、どうしろっていうのか。
戦えばいいんでしょ。戦って、勝って、シュワイヒナさんを守って、それでいいんでしょ。
飛び出す。
今度は音速を超える。この速度で力をかけられて死なない生物などいないはず。
が、
「ぐわらああ!」
オオカミは大きく口を開けると、次の瞬間、そこから光の柱が噴出した。
「は!?」
予想だにもしない攻撃に大きく軌道を変えると、そのすぐそばを光が通り抜ける。
「は?」
もう一度、同じ声が出てしまった。それもそのはず、光が通り抜けた場所が焼けているのだ。
だが、すぐに考え直せる。いくら強力な攻撃を持っていても、それは当たらなければ意味がない。
そう自分に言い聞かせ、死への恐怖に震える体で、私は走り出した。
そのまま、オオカミの体へと一直線に突っ込む。
一秒という時間が長く感じられるほどの速度。拳をオオカミの腹に叩き込む。
それだけで、オオカミの体は爆ぜ、私が勝利するはずだ。
しかし、私の拳がオオカミの体へと触れることはなかった。代わりに私の持っていたスピードが突如吹いたあまりに強力な風により相殺される。
その風はオオカミの翼によって生み出された。
そう、オオカミは空高く飛翔したのである。しかも、たった一回羽ばたいただけでこの強さの風を吹かせた。
「お前じゃ私には敵わない。テールイ。わかっているだろう」
「わかってても! やんなきゃいけないんですよ!」
脚に力を込める。脚力には自信がある。あれくらいの高さならば跳んでいけるはずだ。
しかし――わかっていた。空を自由に飛べるオオカミとただの地の上の生物である私では空中において大きな戦力差があることを。
オオカミが空高く跳びあがった私に憐れむような眼を見せた直後、私の体は地へと叩き落されていた。全身に激痛が走り、今度こそ立ち上がれない。
木々は折れ、ついには空が少しだけ見えるようになっており、そこからはちょうど月が顔を覗かせていた。その月明かりを浴び、天に浮かぶオオカミの姿は一種の神々しさすら感じる。
そのオオカミが大きく、口を開き、こちらをじっと見つめていた。そして、言う。
「痛みは一瞬だ。苦しんで死ぬよりはいいだろう」
また、先ほどの攻撃が飛んでくる。動けない私にそれを避ける術はなく、あれをまともに受けて生き残ることもできない。
そして、危険を察したシュワイヒナさんが私の前で今度は私をかばうように立つのだ。
はっきりと言い切ることができる。あのオオカミではシュワイヒナさんに勝てないと。
どんな技を使おうと、どんなに運がよかろうと、絶対にシュワイヒナさんには勝てない。あのオオカミがシュワイヒナさんに勝っているビジョンが少しも見えないのだ。
それほどまでに私とシュワイヒナさんの間には戦力差が開いている。すべての持ちうる才能を発揮しつくした私が届かない世界に既にシュワイヒナさんはいる。
悪魔になるというデメリットを抱えて。
「テールイ、もういいですよ。十分に頑張りました」
声は優しく、明るい。けれど、言葉は私の心を深く抉り取る。
声が出なかった。
戦わないでほしい。私はまだ戦える。そう言いたかったのに、まるで何か空気が詰まっているかのように言葉を発することができない。
「あとは、私がやりますから」
そんなこと言われたくないのに。そんなことさせちゃいけないのに。
「闇覚醒」
そう呟いたシュワイヒナさんの体から大量の闇が溢れだし、それは彼女の全身を覆っていく。
脚に、腕に、顔に、体に、黒い紋様が浮かび上がり、闇そのものへと変貌する。
あるものが見れば、その姿は美しく見えるかもしれない。少なくとも初めて、私がこの姿を見たときは美しいと思った。今まで見てきたどんな花よりも、どんな洋服よりも、どんな人よりも、どんな景色よりも美しいと思った。
しかし、今は違う。その姿の行きつく先を知った今ではもう違う。
人ならざるものになってしまう力なんて使わなくていい。それで多くの人が悲しむのならば、そんな力必要ないはずだ。
けれども、そのあまりの強大さゆえに何度も何度も使われた。そして、シュワイヒナさんの顔の右側や、背中に浮かぶ紋様は消えなくなってしまった。
「化け物め」
神の使者を名乗るものは言う。私の大好きな人を何かおぞましいものを見るような目で見つめて。
シュワイヒナさんをそんな目で見ないでほしい。そんな声すらも出せない。
満を持し、光の柱は放たれる。全てを焼き尽くし、消してしまいそうなその柱が私たちへと一直線に向かってきた。
そんなもの、シュワイヒナさんの前では意味がないというのに。
前に手を伸ばしたシュワイヒナさんの手から、闇が飛び出した。あれが光の柱ならばこちらは闇の柱で。そう言わんばかりに、真っ黒な「何か」が飛び出し、光の柱へとぶつかる。
全てを焼き尽くす光の柱か、あるいは全てを飲み込む闇の柱か。
二つの柱は拮抗し、そしてそう時間の経たぬうちに決着がつく。
闇が光を飲み込んでいった。
まっすぐ突き進み、そのあまりの威力にオオカミは大きく、横へと逸れる。
「そこまでとは……だがっ!」
オオカミは未だ諦めず、今度は大きく翼を動かして、風を巻き起こす。
「へえ、私に風で攻撃するんですか」
そう言って、笑ったシュワイヒナさんはその攻撃に対して――
「その程度?」
何もしなかった。ただ、そこに立っているだけ。音速を超える速度で動いていた私を相殺してしまったほどの強い風を受けて、少しも軸がぶれず、そこに立っていた。
圧倒的な威力の風により、木々はなぎ倒され、災害が起こった後のように、いや今現在目の前で災害級の攻撃を受けているにもかかわらず、だ。
「な……!」
驚いたオオカミはその光景を前にしてその場で止まってしまった。
「何をそんなに驚いているんでしょうね。自分が弱すぎることにですか?」
嗜虐的な笑みを見せたシュワイヒナさんはオオカミをじっと見つめる。
「ていうか、はやくそこから降りてきてくださいよ。遠距離攻撃で私を倒せないことはもうわかりましたよね」
「なめるなよ!」
そう威勢よくオオカミは言うが、こちらへと来るような素振りは見せない。きっと、近距離戦においてシュワイヒナさんに勝てるなどということがありえないことがわかっているのだろう。あの闇にのまれては命ごと消し飛ばされてしまう。
「まあいいですよ。こうするだけですから」
そう言って、シュワイヒナさんは手をオオカミのほうへと向ける。直後、手から大量の闇が噴き出した。オオカミのほうへ一直線に向かって行き、その体を捉えようと必死に動き回る。
もはやオオカミには逃げるほか道がなかった。幸運なことに「闇」の動きは遅い。オオカミが全力で動けば十分に避けきることはできる。もちろん、ひとたび近づこうだなんて考えれば、大量の闇によって瞬く間に消されてしまうだろう。
天高く羽ばたくオオカミは直に一つの点となり、ついには見えなくなってしまった。
「ちっ」
シュワイヒナさんが露骨にいら立ちを見せる。
シュワイヒナさんの力はあくまで防御特化であって、攻撃手段では完ぺきではない。もちろん、それでも十分すぎるほどで、普通の相手ならば対抗することはできない。しかし、あのような空を飛べる相手や、速く動ける相手ならば、負けることはないが、相手を殺すことは難しい。
が、そんなこと分かっていても、割り切れないのが闇覚醒状態のシュワイヒナさんだ。とはいっても、優しいのは健在で、
「テールイ。大丈夫? 今どうにかするから」
そう言って、闇覚醒を解き、ぼろぼろの私に回復魔法をかける。
傷が癒えていく。
と、ふとシュワイヒナさんの右手が見えた。そして、思わず息をのんだ。
黒い紋様がはっきりと刻まれていた。まるで血管が浮き出ているかのような場所にあるが、その色を見ると、そんな発想は出てこない。
私の視線に気づいたのかシュワイヒナさんが慌てて、その右手を隠す。
「見た?」
「……」
無言の肯定。
「別に私は大丈夫だから、テールイは気にしなくていいよ」
とシュワイヒナさんは言う。まるで、私なんて蚊帳の外であるかのように。まるで、私がシュワイヒナさんを心配するのが気に食わないとでも言わんばかりに。
決壊しかけていた心が爆発した。
「私は邪魔なんですか?」
言ってはいけないのに。もう抑えられない。
「私は邪魔なんですよね」
「そんな邪魔だなんて……」
「うそですよね。本当は邪魔だって思ってるんですよね!」
「だからそんなこと――」
「わかんないんですよ!」
発してはいけない言葉が溢れだす。
「だって、私少しも役に立たないじゃないですか。それなのに、なんで一緒にいてくれるかわかんないんですよ! なんでなんですか。なんでシュワイヒナさんは一緒にいてくれるんですか? それとも、私じゃなくても一緒にいてくれるんですか?」
「それは……」
「一緒にいてくれるんですよね。私じゃなくても」
わかってた。どういうわけでシュワイヒナさんが自分の敵をしない人に優しくしようとするのかはわからないけれど、それは博愛にも似たもので、たった一人への愛情ではない。
既にたった一人への愛情を向けられている人がいるのだから。
「違うよ。テールイ」
シュワイヒナさんはあくまで優しく言葉を紡ぐ。
「テールイが私と一緒にいたい。だから、私はテールイと一緒にいる」
その言葉は嬉しかった。けれど、なぜだか涙が溢れてく。
「じゃあ、なんでその力使うんですか。私はシュワイヒナさんと一緒にいたいんです! 悪魔と一緒にいたいわけじゃないんですよ!」
「私は悪魔じゃない!」
「そんなこと言ったって……、だって、シュワイヒナさんその手も、その頭も、背中にも残ってるじゃないですか。それが悪魔に近づいていってる証拠だって」
「でも、この力使わないと生き残れないの、わかってるでしょ」
「それでも……」
私は死んでしまうよりも、シュワイヒナさんが悪魔になってしまうほうが嫌だ。
そう口に出すことはできなかった。代わりに、溢れていた涙はついに止まらなくなり、声が出ない。
そんな私をシュワイヒナさんはきつく抱きしめる。
柔らかく、温かく、そして、残酷に。
シュワイヒナさんの体温を感じて、シュワイヒナさんの匂いを感じて、シュワイヒナさんの鼓動を感じて。
たったそれだけで不安やら心配やらは消し飛んで、柔らかい快楽に包まれてしまう。
惚れた方が負け。
この言葉の意味がよく分かったような気がする。
けれども、今回ばかりはそうはいかなかった。
快楽の後に現れたのは怒りだ。
何度も何度も闇覚醒を使うシュワイヒナさんへの怒り。そうせざるを得ない状況を作り続ける世界への怒り。神へ、悪魔へ、人々へ。
しかし、そんな数多の怒りはもっと大きな怒りによって気にすることもない。
弱い私への怒り。
私がもっと強ければシュワイヒナさんに闇覚醒を使わせることなんてなかった。私がもっと強ければみんな守ることができた。私がもっと強ければ、誰も悲しまずに済んだ。私がもっと強ければ。私がもっと強ければ。私がもっと強ければ。私がもっと強ければ私がもっと強ければ私がもっと強ければ私が――。
力があれば、私はお父さんとお母さんを失わずに済んだ。私が弱いばっかりに周りの人が犠牲になっていく。
次はシュワイヒナさんだ。私が戦えないから、シュワイヒナさんが悪魔の力を使って戦わなきゃいけなくなる。
もう後戻りできないところまで来ている。じき、闇覚醒は解除できなくなって、じき、シュワイヒナさんは人じゃなくなって戻れなくなるか、死ぬ。
そんなバッドエンドは避けたい。けれど、その力が私にはない。
既に頭打ちの私にできることなどもうない。
無力感。
空っぽになった私にはもはや希望も何も見えず、怒りを忘れるよう努めるほかない。
けれど、溢れた涙は止まらない。
結局、私はシュワイヒナさんの胸の中で泣きじゃくるしかないのだ。
小さな子供のままで。




