第二十八話 変容
「もう危険なものはないんで、出発できますよ」
とメイドさんに言うと、彼女らは、はあ、とどこかとぼけたような返事をしました。とはいっても、もう出発できるようで、私とテールイは気絶したままのプリンシアを担ぎ、さっさと馬車に乗り込みます。
と、馬車の中でテールイが、
「シュワイヒナさん。ごめんなさい」
とやけにかしこまった様子で、私に頭を下げました。どうやら、闇覚醒なんて使わせないと言っておきながら、早速約束を果たせなかったことを後悔しているようです。
「別に気にしてないよ」
「でも……自分がどうなってるかわかっていますか?」
「どうなってるって?」
「シュワイヒナさんから見て頭の右側、闇覚醒、解けてません」
「へ?」
「だから、黒い紋様が残ったままなんですって!」
言われて、私はその場所を触りました。何か変わったような感触はありません。しかし、テールイがそんな嘘つく理由も……。
いえ、ありました。彼女は私に戦わせたくない。ならば、戦えない理由を作りたい。
そう考え、私は信じずに――
「シュワイヒナさん、信じてませんね」
と、私が言葉を発するよりも先に、テールイが先手を打ってきました。
「本当ですから、ていうか鏡やら水面やら見ればわかるような嘘、私がつくわけないじゃないですか」
言われてみればそんな気もしますけど。
そうやって納得してから、急に体が震えました。そして、次に来たのは感じたことのない恐怖。死ぬことへの恐怖や魔獣と対峙したときの恐怖ではありません。
このまま、自分が悪魔にでもなってしまうんじゃないかという恐怖。このまま、戻れなくなってしまうんじゃないかという恐怖。
しかも、変化に実感が伴いませんから、ますます恐怖は増幅していきます。なんだか、自分の知らないところで、見た目だけではなく、私の中にも変化が訪れているような気もしてきました。
闇覚醒をしていないにもかかわらず、吹き飛んだ頭が回復したのはその前兆だったとでもいうのでしょうか。
先の見えない真っ暗な路地の中へ足を踏み入れてしまったのでしょうか。
自問自答。
いいえ、闇覚醒を初めて使って、制御できてしまった時点で、既に私は踏み込んではいけない領域に入っていたのでしょう。
『悪魔化』
ようやく、フレイムの言っていたことが理解できました。
これはまずい。そう、はっきりと意識しました。だって、だって――
もう、恐怖がなくなっていますもの。
「シュワイヒナさん?」
「えっ」
「私がやりますから、手遅れになる前に、全部私が倒しますから。だから、お願いします。もうその力を使わないでください。シュワイヒナさんがシュワイヒナさんでなくなってしまいます」
使わないほうが良い。そんなこと、私だってわかっています。しかし、この力を抑えることはもうできないでしょう。
「テールイ」
そう、私が呼びかけると彼女は目を見開き、首を横に振りました。
「お願いです! いうこと聞いてください!」
「できません」
「そんな……」
テールイは私の目を十秒ほど見つめました。そして、私の目に変わる余地がないことを察すると、ため息をついて、寝転がってしまいました。
それから、
「使わせなければいい。ただ、それだけだから」
ほとんど馬車の音にのまれるような小声でそう言いました。
それとほぼ同刻。
「ん……」
プリンシアが目を覚ましました。
ゆっくりと上体を起こし、自らの居場所と安全を短く確認して、私たちのほうを見つめてきました。
「ありがとう」
そう短く言った彼女の表情はいつもの彼女から想像できない穏やかな笑みです。
テールイも私も、彼女の目を見つめました。それから、なぜだか笑いがこぼれました。とても気分がよくなりました。
私は何が怖いのか。私は何を恐れているのだろうか。
全てが分からなくなってきて、目の前にはただひたすらに闇が広がっている。
シュワイヒナさんは大丈夫と思っているかもしれないが、私はそうは思わない。このままじゃ、シュワイヒナさんは、人間じゃなくなってしまう。このままじゃ、シュワイヒナさんはもう後戻りできなくなってしまう。
だから、私が止めなくちゃいけない。シュワイヒナさんが私を必要としているかどうかはわからないけれど、きっと、私はシュワイヒナさんにとって必要な存在だから。私が、今最もシュワイヒナさんに近い存在だから。
だけど、そのために私は人を殺せるだろうか。未来が先に広がる者たちの命を奪うことができるのだろうか。
やらなくちゃ。私には力がある。
きっと、私の行いは間違っていないのだと、自分に言い聞かせながら。
それからさらに一週間が過ぎ、私たちは三度の盗賊からの襲撃を受けました。
私たちの馬車はそりゃあ豪勢なものですから、盗賊からしたら相当の獲物に見えるでしょう。普通なら、それだけ豪華なら強い用心棒が一緒に乗っているはずだと思うはずなのですが、そうではない人たち、すなわち血に飢えている方たちが、私たちの馬車を襲うわけです。
当然、私とテールイの強さは普通の盗賊が太刀打ちできるようなものではなく、そのほとんどは一瞬で返り討ちになるのですから、たいして問題はないのですが、ここにテールイの変化が見られたのです。
対大人数となると、テールイの本能覚醒は圧倒的な力を示します。音速をも超える速度――もちろん、本当にそんな速度を出してしまえば、面倒になることもあるので、全力は出していませんが――を出せるテールイを前に、盗賊たちは自分がいつ攻撃されたかすらもわからぬままに、気絶していきました。
しかし、中には少し小突いたくらいでは倒れないものもいて、しかも、かなり巨漢の、分かりやすく言えば防御力の高いタイプの相手は攻撃を受けたことすら気づかず、そのまま、私たちのほうへ向かって行きます。そういう相手は私がさくっと殺して差し上げようと思っていたのですが、テールイは一瞬の葛藤を見せることもなく、さらに強めの攻撃を打つようになったのです。
テールイの力はとんでもないものですから、少し匙加減を間違えれば、簡単に相手の命を奪うことができます。さらには、彼女は全くそういった相手への攻撃を打つことがありませんでした。
なのに、彼女は迷いもせずに、力を使い、そして、男は気絶しました。
テールイはほっと息をつき、私たちの元へと戻ってきます。その目には後悔も恐怖も浮かんでいませんでした。
安堵。
そう私には捉えられたのです。
あと、変わったことと言えば、プリンシアのことでしょうか。傍若無人なのには変わりありませんが、その程度が低くなっています。
きっと、彼女の本当の「素」がこれなのでしょう。そう思うと、なんだか今までのそれもかわいらしく思えてきました。
まあ傍若無人代表格ともいわれる私が人に言えた話ではないのですけれども。
そうそう。
プリンシアから興味深い話を聞きました。私たちが現在向かっている隣国エゴエスアから、さらに国を四つまたげば私たちは竜王山のふもとにまでたどり着けるそうです。距離も気の遠くなるほどではなく、五千キロメートルほど。これでも十分遠いように思われますが、前回を鑑みると、そうでもないように思えるのです。
正直、今地図を見たところで、自分たちがどこにいるのかなんてわかりませんし、土地勘もないですから、やはり用心棒としての仕事をしながら、東へ進んでいくと言うのがよさそうです。王女の用心棒をしていたとなると、需要もあると思いますし、それが安定すると思います。
さらにそれから一週間がたち、それ以外に特筆することもないまま、旅は終わりました。
三日前に入った国はかなり豊かな国という印象を受けました。人々は明るく、とても幸せそうに見えます。さらに、街はどこも活気があり、大きな建物もいくつもありました。どうやら、エゴエスアは交通の要地らしく、多くの品が流れてくると言うことでした。それで、レベリアはつながりを深くしようと、プリンシアと王子を結婚させることにしたようです。
いやはや、私は離島の王女でしたから、そう言った話とは無縁で、しかも恋愛なんて凛さんに出会うまでしたことありませんでしたし、話を聞いたこともありませんから、正直、他人事のように思いました――本当に他人事ですしね――が、かわいそうだとは思いました。恋愛すらも満足にさせてもらえないと言うのは本当に残酷なことです。
それとは別に、レベリアもそれなりに豊かな国でしたし、ヴァルキリアもおそらく豊かな国でしょう。本当に裕福な国が多いものです。
とはいっても、プリンシアの話によると、そもそもレベリアは領土が広いだけで、末端の村などは貧しい暮らしを強いられていたらしいですし、エゴエスアを抜けて先は一つ、裕福な国がありますが、残りは貧しい国ばかりが広がっていて、正直行くのはおすすめしないということでした。
しかし、同時に大陸を二分するドラゴン山脈の麓には多くの薬草や、おいしい肉を持つ生き物が生息しているらしく、危険を冒してでも行く価値はあるそうです。
けれども、それだったら、用心棒の仕事としては生き返りまでサポートしなければいけないことになり、ただ向こうに行きたいだけの私にとっては不都合になります。やはり、利害が一致する相手でなければいけませんが、果たしてそんな相手は簡単に見つかるのでしょうか。
一応、私たちが腕の立つ用心棒であると言うことを簡単に示すことができるので、プリンシアから推薦状は書いてもらいましたが、結局私たちを必要としてくれる人はいるのだろうかと不安に思います。
そんなことを思いながら、私たちはプリンシア御一行とお別れをしました。
街は、王子の婚約者の到着で祝賀ムードです。当然、今から竜王山方面への移動を考えているものがいるような雰囲気はありません。
しょうがないので、私たちはもらったお金を使って、そこそこいい宿泊所に泊まり、ぼんやりとした日々を過ごしていました。そして、ふと思い当たりました。
手紙を書こう、と。
ここは交通の要地。もし、凛さんがこっち方面に向かっているのならば、きっと、ここを通るでしょう。そうしたときに、私は凛さんに私がここにいた証拠を、私が無事に生きているという証拠を残しておきたいのです。
筆を借り、机に向かいました。
隣にはテールイのすやすやと幸せそうな寝息。外はパレードの歓喜の叫び。
その中で、私はなんだか憂鬱でした。
目的地が近づいてきたとはいえ、明日にも問題を解決したい私からすれば、今ここで立ち止まっていることさえもいらいらするのは今更ですが、さらにはこうやって、凛さんに自分の安否を知らせるための文章を書くのに、自分の思いを吐露することができないことが歯痒く思えるのです。
何度も、何度も書いては捨て、書いては捨てを繰り返しました。
一日が経ち、二日が経ち、三日が経ちました。
そして、私は最後の言葉を書き終わりました。
「凛さん、愛しています」
と。
少し恥ずかしいので、テールイの寝ている時を見計らって、筆をおきました。
思えば、誰かのためにこのように文章をしたためるというのは初めてのことです。文字の書き方くらいは習っていましたが、手紙なんて渡さずとも、話せるほどの距離間でしか私に知人はいませんでしたし、そのほうが好都合でした。
この手紙は宿の人に預けておきました。佐倉凛という人物が来たら、渡してくれと。宿の人は私の思いを察してくれたようで、快諾してくれました。
部屋に戻り、机の側でともっていた光を消すと、視界は一瞬にして真っ暗になりました。
暗闇。
暗闇とはもう随分仲良くなりましたね。あんまり仲良くなりすぎるとテールイに怒られちゃうんですけど。
人のことなんて気にしないはずの私ですけど、どこか物悲しそうなテールイの横顔を見ると、胸が痛むのはしょうがない話です。
けれど、闇覚醒はもう私では止められない。攻撃を受けただけで自然に発動してしまう。
私は生き残るでしょう。たとえ、テールイが死んだとしても。たとえ、世界が滅んだとしても。最後に凛さんが残ってさえいれば、私は生き残るのでしょう。
けれど、果たしてそれは幸せなのでしょうか。
自らの手を上にあげ、掌をじーっと見つめました。
と、その時でした。
一瞬、視界が白黒になったかと思うと、手がかぎ爪を生やした黒い何かに変わり、そして、すぐに元通りになりました。
体が悪魔化した。
まさかそんなはずはないと、手をもう片方の手でつかむと、その手にはいつもの柔らかな感触がしました。
きっと最後のは幻覚だ。そう私は自分に言い聞かせ、目を閉じました。
眠れる気は少しもしませんでした。




