第二十話 他人
終わった。そう思いました。明確に「死」を覚悟したのです。今の自分に魔獣と戦えるほどの力は当然ながら残っていません。
「万事休す」
詰み。
「アレウスさん! 馬車!」
そう叫んでから、テールイのほうを見つめました。全てを悟ったテールイは首を振ります。
「シュワイヒナさん。あの魔獣の回復速度を鑑みるに今馬車を出してもすぐに追いつかれてしまいますし、もう馬は恐怖で動けません。それに、ここで離れてしまったらシュワイヒナさんの脚は元に戻らないじゃないですか」
「まさか……」
「はい。私が戦います」
無茶、という他ありません。なんてたってテールイの脚はがたがた震えていますし、握る拳もまた弱いものです。いくら才能があったとしても、あの心持じゃ勝てる戦いも勝てません。
それでもテールイは立ち上がっていました。もはや彼女の中にはそれしか選択肢がないのです。
「本能覚醒」
テールイははっきりとそうつぶやきました。それに呼応するかのように彼女の体に変化が訪れていきます。
全身に生えた毛はさらに深くなっていき、体は大人びて、顔つきは優しく幼い少女の顔から、気高い大人のものへと変わっていきました。
姿勢は段々と前かがみになっていき、まるで地を這う獣のような四足歩行の姿勢を取ります。
「くるるるあーッ!」
甲高く叫んだテールイは地を掴み、私をじっと見つめる魔獣の元へ走り出しました。その速度は私の超加速ほど速いものではありませんが、人間の走力を遥かに上回っており、さらには力強い走りです。
そして、ただのタックルだけで、魔獣をよろけさせることに成功しました。
思わぬ方向からの攻撃に魔獣はたじろぎ、その隙を見て、テールイは一気に畳みかけます。
魔獣の体を掴んだかと思うと、その体を投げ飛ばしてしまいました。投げ飛ばされた魔獣は先ほどの傷も相まってか、倒れこんだまま、動けません。
しかし、圧倒的かと思われた戦いもそうではないようで、テールイはすぐにその場に座り込んでしまい、荒々しく呼吸を繰り返していました。そして、変化していた肉体も徐々に元の形を取り戻していき、ついにはいつもの姿に戻ってしまいました。
苦し気に喘いでは、立ち上がろうとしますが、まるで精神を肉体が拒んでいるかのように体が動かないようです。
それもそのはず、戦闘経験がほとんどないテールイがいざとなって戦えるわけがありません。火事場の馬鹿力とでもいうのでしょうか。今のはそれに等しいものであり、継続することはまず不可能なのです。
「シュワイヒナさん……、私少し頑張れたでしょうか」
そう彼女は言って、無理矢理に笑って見せました。それを見ると、自分の弱さを突き付けられているみたいで、胸がぎゅっと苦しくなります。
私のせいで、テールイは苦手な戦いをやらなければならなくなってしまった。私が戦えばよかったのに。私が無茶なことするから。
かといって、私の最高火力を受け止められてしまっている以上、打つ手はないわけで。
私は今逃げ出せば、確実に失血死してしまいますし、テールイの力をもってしてもあの魔獣を倒すことは不可能ですので、後に待つのは確実に「死」。
思わず唇を噛んでしまいました。鼓動が早くなるのを感じ、また崩壊が行きついていない、まだ原形をとどめている股関節から、溢れだす血が増えていくのを感じました。
焦れば、焦るほど死は近づいてきて、また、思考能力は低下していきます。そんなことくらいわかっていますけど、いざこうやって「死」というものを身近に感じてしまうと、焦らざるを得ないと言うものです。
腕の崩壊を止めただけでもましと言えなくもないですが、それでも脚がそこまでダメージを受けていたことに気が付かなかった私の弱い点でもあります。
結局は私が招いたことで……いや、やってもやってなくても死んでる――。
運が悪かったとでも?
ただそれだけの理由で私が死ぬ?
信じられません。何度も何度も死線を潜り抜けて、生き残ってきた私がこんな道半ばで死ぬとでも?
人なんて助けなければよかった。ただ凛さんだけを追い求めて、死にたかった。凛さんと一緒なら死んでも良かった。
私が幸せになるための力だったのに、なんで肝心な時に使えないんですか。私が何か悪いことしましたか? それとも悪い力だったから、今の私には使えないと?
何のせいだ。何が悪いんだ。魔獣か? ドラゴンか? 私に人を助けることを教えさせたテールイか? 桜さんか? 凛さんか? 世界か? 神か?
わからない。もう何もわからない。
魔獣はなおも起き上がり、強い憎しみの目をもって、私たちを見つめた。人類の限界を超えた力を持つ化け物。それが私たちをまとめて殺そうと見つめてきた。
「ぐるああああああああ!」
魔獣の叫び声は空間を震わせ、森の中にいたであろう鳥ははるか遠くにいるものまで羽ばたいた。繰り返される衝撃を受けた木々の葉も幾分か吹き飛んだ。
私もあの鳥のように飛べて、逃げ出せたなら。
いや、逃げたくない。
私を傷つけた魔獣を殺したい。私に死を見せてくると言うのなら、私がその死を返してやる。
そのためには力が、この世の全てを破壊できる力が、必要なんだ。
決して誰かのためじゃない。私が生き残って、私が幸せになるためだけの力が。
自分勝手でもいい。身勝手でもいい。どうせ人の力なんて役に立たない。テールイの奥の手も、あんなに待たせた割には大したことなかったし、アレウスさんも守られることしか頭になく、今こうやって死を目前にすれば、倒れ、わなわなと震えるだけ。
祐樹に殺された湊さんも、リブルさんも、ファイルスさんも、役には立たなかったじゃないか。私の親も、兄も、誰も魔王には歯が立たず、ついには身内同士で殺しあって、みんな死んじゃった。
どうしようもない強敵を前に、我こそはと腕の立つ者はすぐに死んでいく。少しも役に立たない。
誰も彼も、弱い。それなら、私が、それが例え悪魔の力だとしても、自らを魔王へと変える悪の力だとしても、それで、自分が助かるなら使わなくてはならない。
誰かのために戦えなんてふざけるな。今まで、誰かのために戦って、生き残っていたやつらがいるか? みんな死んでいっただろう!
私は誰かのためになんて戦わない。テールイも、アレウスも、私が生き残るために使うだけだ。すべては私のために動いてもらう。
それはもちろん神さえも。大賢者さえも。
だからもう一度、戻って来い。私の、私だけの制御できる力を。
睨み返した私の姿を見て、魔獣は一瞬怯んだ。しかし、その睨んできた人間がもはや戦える力など持ってないことを認めると、テールイやアレウスもおいて、私のほうへ走り出した。自らの仲間を殺したやつを殺すために。
動く力のない私はそれを甘んじて受け入れるしかない。
魔獣を受け止めようとした私の腕をまるで、弱い小動物を食べてしまうかのように食いちぎってしまった。激しく血が噴き出し、私の意識はまた一層消えていく。
「シュワイヒナさん……!」
動けすらしないテールイが私の無残な姿を見つめてきた。なんの力にもなれなかったテールイは死にゆく者の名前を呼ぶことしかできない。
いつも、いつも私が戦って、いつもいつも生き残ってきた。そうだろう? なら、今回もまた私が戦って生き残るしかない。
この痛みもこの憎しみも全部全部私の力になれ。
もう一度、食らいついてきた魔獣の頭は私の腕によって食い止められた。それとともに、魔獣は宙を舞った。
腕が、脚が、再生していく。全身から噴き出した暗黒は全身を飲み込み、私の姿さえも変えていく。
黒い紋様が全身に現れ、私は立ち上がりました。長い銀髪すらところどころ黒く染まっているのが風にたなびいたのを見てとれます。
痛みは消えました。それから、理由もなく、自信が沸き上がってきます。
「どうしようかな」
不思議と楽しく感じます。今の自分には相手を一方的にやれるからでしょう。
「おい、魔獣。かかってこいよ」
私の喉から出た声はいつものそれよりかは随分と低いものでした。しかし、違和感はありません。
「ぐらあああ!」
魔獣はなおも突進をしかけてきました。しかし、その挙動全てが手に取るようにわかります。
「まず足一本」
私の右手から噴き出した黒い何かは魔獣の四本の足のうち、一本を飲み込み、食べてしまいました。それとともに体にエネルギーが供給されるのを感じます。
それで態勢を崩した魔獣はまたもや倒れました。
「次は、四肢全部貰おうか」
さらに噴き出した黒い何かは障害を感じることなく、いとも簡単に足全てを飲み込みました。そうなればどうなるかは簡単にわかるでしょう。
魔獣はもはや一歩も動くことはできず、そこでただただ苦しそうにあえぐしかありません。
かわいそうに思うでしょうか? しかし、私も似たような理由でついさっきまで苦しんでいたのです。
「もっと苦しめ。苦しんでから死ね」
そうは言うものの、もう魔獣の命の灯は消える寸前でした。どうせ、このまま放っておいてもすぐに死んでしまいます。
「じゃあ食べちゃお」
体から噴き出した黒いそれは魔獣の体を覆い、消滅させました。
「なんだこれは……」
アレウスさんが口をあんぐりと開けて、驚いています。
「別に驚くのは構いませんが、今見たの他の人には絶対に言わないでくださいよ。もし、したら、おんなじことになりますよ」
微笑みかけると、なぜだか怖がられました。こちらは驚かすつもりなんてないんですけどね。脅すつもりはありましたが。
さて、エネルギーが足りなかったので、先ほどの魔獣の死体も平らげてしまいました。もちろん、味などを感じるわけではありませんが、確実に自分の体の一部になっているという感覚はあります。
戻ってきた悪魔の力。ないことで苦しんだのはほんの一瞬ではありましたが、なんだか心持ちが少し違う気がします。
体から溢れ出す力は解放の場所を探していました。もっとこの力を使って、戦いたい。殺したい。
この力に対して正面から渡り合える人物はこの世にどれだけいるのでしょうか。この全てを飲み込む闇で対処できない人間なんているのでしょうか。
いるはずがありません。闇は完全に私の制御下に置かれ、意のままに操ることができ、さらには私の元々備わっていた高い魔力から行われる回復魔法のお陰で私は不死身です。
どんな痛みでも、耐えられる。死の恐怖も、もう私にはない。だって、死なないのだから。
明らかに今までの闇覚醒と違う。そう感じていました。近いものはランが見せた闇覚醒フェーズ2。いえ、今の私は明らかにあれよりも強いのです。
体を覆う闇は次第に消えていきました。それとともに、全身から力が失われていくのを感じます。
失いたくない。この力だけが私を守れる。だから、この力がないと――怖い。
「シュワイヒナさん……」
私のすそをつまんで、テールイは傍に立っていました。
「あんまり、あれにならないでください」
ほとんど消え入りそうな声で彼女はそう訴えかけました。
「ならないでって言われても……」
「あれになったら、どこか遠くに行ってしまっているような気がするんです。いつものシュワイヒナさんじゃなくて……」
テールイ。あれが本当の私なんだよ。私はもう自分が身勝手な存在であることを肯定したんだから。
「大丈夫、ずっと私は私のままだよ」
もう悩むことなんて何もない。良心の呵責など、私を違う何かで彩るための欺瞞でしかありません。
だから、この言葉に嘘などないのです。
「本当、ですか?」
「もちろん」
笑って答えるとテールイは嬉しそうに笑いました。無理矢理作った笑みを浮かべました。
どうせ、テールイも分かってる。どうせ、テールイも私が、テールイの思い描いていたようなシュワイヒナ・シュワナではないことを知っている。
それなのに彼女はなぜ、私のことを信頼し続けるのでしょうか。なぜ、私のことを信用し続けるのでしょうか。
もちろん、少しもわかりませんし、今後わかることもないだろうなと思いました。




