第五話 リーベルテへ
視界がぼやけてきた。
依然として巨大なオオカミはシュワイヒナの方へ向かっていく。それを止める方法はないものかと考えるが、いい考えは全く思いつかない。体を動かそうと思うが、痺れて動かない。それとまた先ほどのオオカミの群れとの戦いによる疲労も来ているのだろう。体は全くと言っていいほど動かない。少しだけ指の先が動かせるくらいだ。しかも呼吸すら上手くできておらず、苦しい。
オオカミはその大きな口を開け、シュワイヒナに噛みつこうとした。シュワイヒナはオオカミの鼻を掴み、飛び上がり、オオカミの背中に飛び乗る。しかし、オオカミは激しく体を震わせ、シュワイヒナを振り落とす。そして右足でオオカミの体を押さえつける。
「突……風……」
切れ切れに、私の使える風魔法でも最も威力の高い魔法、突風を放った。オオカミの体はグワっと持ち上がり、後ろ向きに倒れた。その間にシュワイヒナはそこから逃げ出し、私の所へと駆けつけた。
「すぐに元通りになりますから、ちょっと待ってください」
シュワイヒナが私の体に触れると、私の体が光り、痛みと、疲労が消えていく。
私が右下の方を見ると、ステータスが表示されているものに残りマジックポイントは五と表示されていた。オオカミを何匹か殺したことにより、レベルが上がって現在五になっており、初期マジックポイントは二十五まで上がっていたのだが、先ほどの突風だけで二十ものマジックポイントを使っていたことになる。これはあんまり使えないななんて思ったりもしたが、そんなことを考えている場合じゃない。
オオカミはすぐに態勢を立て直してこちらの方を睨み付けた。そしてぐるると唸った。これだけ大きな獣に睨み付けられるのはさすがに怖い。足が震える。
「凛さんの風魔法で態勢を崩したところで首を狙って一撃で決めましょう」
「分かった」
「じゃあ、行きますよ。マジカルレイン!」
光り輝く雨が降り始める。それに触れた途端にマジックポイントの残量が上昇していく。
そして、オオカミは駆け出した。この巨体をどうやってそんなに早く動かしているのか不思議に思う。私はシュワイヒナがオオカミの横に回ったのを確認して風魔法を放った。
オオカミの足元から風が吹き出す。しかし、オオカミはその場に踏ん張って動かない。
「凛さん! 私の足元からも吹かせてください」
「あ……うん! 突風!」
シュワイヒナの足元からも風を吹かせる。それと同時にシュワイヒナが飛び上がる。それでマジックポイントがなくなり、オオカミの足元から吹いていた風が止まり、地面が抉れる。シュワイヒナはオオカミの真上からナイフを振り下ろした。
「まずい、シュワイヒナ!」
私が叫んだ頃には遅かった。この光景はさっきのと同じだった。
同じようにシュワイヒナはオオカミの体に飛ばされる。
動かなきゃ――瞬間的にそう判断した。
私は自分の足元から風を吹かせるのと同時に飛び上がった。オオカミはまだ空中にいる。空中では避けられない。
「そうでしょうが!」
私の握っていたナイフはオオカミの首を――
切り落とさなかった。オオカミの首はナイフを通さなかった。
「な……!」
振り下ろしたナイフはオオカミの皮膚を少し削っただけだった。思いがけない事態に思考が止まる。その間に私とシュワイヒナとオオカミは重力に従って地面に落ちる。
私はオオカミの体に落ちてその体毛に衝撃が緩和されたが、ふるい落とされる。
首から落とされたわけではないから、致命傷ではない。しかし、その衝撃は私たちの動きを止めるには十分だった。
私もシュワイヒナも石のように動かない。いや、動けない。
オオカミは私の上に覆いかぶさった。それで光る輝く雨に触れられない。
いよいよ詰んだ。打つ手がなくなった。刃を通さない肉体を持ち、信じられないスピードで走る巨大なオオカミをどうやったら倒せるというのだろうか。
さすがに無理だ。魔法が使えても風じゃこんなのはどうしようもない。オオカミは私の頭の方へとその大きな口を近づける。
獣臭い。こんな死に方は嫌だなと思ったが、もう遅い。諦めるしかないようだった。
今までのことが走馬灯のように蘇ってくる。訳の分からないままこんな世界に放り出されて、祐樹と決別し、シュワイヒナとともにここまでやってきた。まだ一日とちょっとしか経っていないのにこんなことになるとは思ってもいなかった。しかし、こうなるなら嫌でもあの場所にいれば良かったなと。
いや、そんなわけにはいかない。こんなところで死ぬわけにはいかないんだ。
「ああああああああああ!」
私は叫びながらオオカミの口の中にナイフを突きつけた。
「があああああ!」
オオカミは苦痛に顔を歪ませて、私の方をにらんだ。しっかりと目があった。だが、怯えているわけにはいかない。さらにナイフを刺し込んでいく。口の中はさすがに固くない。どんどん刃はオオカミの口を抉っていく。
だが、この作戦には大きな欠点があった。考えればすぐに分かることだし、ここでこんなことをしてしまったのは間抜けだとも言われそうだが、これが最善策だったと私は後悔していない。
オオカミは口を閉じた。ごくごく自然にまるでその間に何もなかったかのように、まるで空気を飲み込むかのようにオオカミは口を閉じた。
つまり、オオカミは私の腕を噛み切ったのだ。
「いやああああああああああ!」
あまりの事態に頭がパニックになる。経験したことのない激痛が私を襲い、自分に降りかかってくる無数の血液に視界が狭まっていく。意識が猛スピードで遠のき始める。当然のように体は動かない。
オオカミは私の腕とナイフを吐きだした。そして私の顔を口に含もうと――
その時だった。目の前にいたはずのオオカミは突如として消え、それの代わりに熊のような足が現れた。
私は消えゆく意識の中で左を向いた。そこにはこれまた巨大な熊がいた。
そしてそれは私の方を見て、微笑んだかのように見えた。その熊はオオカミの方へと走った。オオカミに掴みかかり、オオカミを投げ飛ばした。
オオカミはその攻撃を受けてぐだっとしている。
「大丈夫か――」
それが限界だった。私の意識は虚空の中に吸い込まれていった。
夢を見た。いや、それは夢ではないのかもしれない。あまりにそれははっきりしていたのだ。しかし、はっきりしているのは私の意識だけで、視界はぼやけていた。だが、不思議と恐怖はなかった。
男がそこにいるのは分かるが、顔は見えない。その男が口を開く。
「あまり、無茶をするな。君が死ぬわけにはいかないのだ」
「でも、私そうしないと死んでいたのだから……」
「いや、確実に助けが来るはずだったのだ」
「なんで、そんなこと……」
「私はこの世界の神のようなものだ。そんなこと分かる」
「じゃ、じゃあなんでその神様が私なんかに構うんですか?」
「これを教えるのはまだはやい。君に幸せが訪れますように」
それだけ言って、その姿はなくなっていく。
「待って!」
そう叫ぶが、その声は届かず、代わりに
「凛さん! 凛さん! 凛さん!」
シュワイヒナの声だ。
私は目を覚ました。
「良かった……凛さん、もう目を覚まさないのかと思いましたよ……」
「え……大丈夫だよ、シュワイヒナ」
とそこで私は違和感に気づいた。一つは周りが夕焼けに包まれていること。もう一つは景色が目まぐるしいスピードで動いているということだ。そして私の右手は元通りになっていた。
「すごいでしょ。それ私がくっつけたんですよ」
「え、シュワイヒナが……」
「はい! 回復魔法ではこんなことも出来るんですよ」
「すごい!」
「えへへへ」
そう笑うシュワイヒナがすごくかわいい。思わず抱きしめたくなってしまう。ただ、それはセクハラめいたことのように思えて、留まる。
「で、これは今どういう状況なの?」
「あ……今、リーベルテに向けて移動してます。もうすぐ着くと思いますよ」
「え……どういうこと?」
「私たちを助けてくれた人、ライン・アズベルトって言うらしいんですけど、その人が私たちを乗せて、リーベルテに連れて行ってくれてるんですよ」
「乗せてって……」
下は熊のようなのだが。
「あ……ラインさんは固有スキルで熊になれるらしいです」
「固有スキルって本当になんでもありなのね……」
シュワイヒナはマジックポイントを回復できる雨を降らせ、こっちは熊に変身。幅が広い。
「固有スキルって要はマジックポイントの使い方なんですから、まあそりゃあ、何でもありでしょうね」
「へえ、そうなんだ……ってどういうこと?」
「まず、マジックポイントってのは人の体に流れる魔法のエネルギーなんです。人によって質が違うらしいですよ。で、あんまり詳しいことは分かっていないんですけど、そのマジックポイントというのをどう使うかによって、というよりどのように使えるかによって固有スキルってのは変わっていくんです。それにマジックポイントの性質が加わってきて、多様な固有スキルが生まれるんです。その使い方が上手な人ってそんなにいなくて、だから固有スキルが使える人は少ないんですよ。それに親子でマジックポイントの使い方って遺伝するんですよ。だから固有スキルは遺伝するらしいです」
「へえ。シュワイヒナ、詳しいね」
「ええ、それにレベルが上がるのは相手を殺した時に持っているマジックポイントを吸収するかららしいですよ。あと、ステータスがあがっていくのは基礎マジックポイントって言うのが溜まっていってそれが肉体を強化しているかららしいです」
「よく知ってるね。どこで知ったの?」
「ま、まあ、マジックポイントについて研究してる人がシュワナにいたんですよ。その人に教えてもらって……その人優しかったな……」
亡くなったんだ。シュワイヒナは口にはしなかったが、なんとなく私には分かった。地雷を踏みぬいたような気がした。
「ま、まあほら町が見えてきましたよ」
とシュワイヒナが指を指した方向を見ると、確かに街が見えてきた。
「いや、本当に良かったですよね。助けが来てくれて」
「うん、本当に」
私はあの時、確実に死にかけていた。それを思うと、今この状況は幸せだった。
森を抜けた。しばらく草原が続くが、それもあまり広くはなく、すぐそこにたくさんの家や畑が見えた。そしてこちらに手を振っている人が二人見えた。葦塚湊さんと、葦塚桜さんだ。
熊はゆっくりと減速していき、やがて止まった。そして熊は頭をぶるぶると震わせた。私たちはそれが降りろという合図であるかのように感じ、熊から降りた。
「やあ、シュワイヒナ・シュワナ王女と佐倉凛だね。ようこそ、リーベルテへ」
「あ……ご歓迎ありがとうございます」
そして熊の体が変化を始めた。それはやがて一人の男の姿へと変わっていく。
「この姿でははじめましてだな。佐倉凛」
現れたのは体格のいい男だった。
「はい、はじめましてです。こんにちは」
「がははははは、まあこれからよろしくな」
「よろしくお願いします」
髪をそり上げていて、頭が光っている。背中には大きな斧を携えている。あれごと姿が変わっていたとはびっくりだ。
「さて、私たちの王宮に行こう。桜お願いな」
「ええ、皆私の体につかまって」
言われるがまま、私は桜さんの手に触れた。シュワイヒナは腕に、ラインさんはもう片方の腕に、湊さんは肩に触れた。
「ワープ!」
桜さんが言った。それと同時に視界がぐにゃりと歪んだ。感じたことのない奇怪な感覚が体を襲う。どこに足をついているわけでもないのになぜかそこにいる不思議な感覚。そしてこれ以上は吐きそうだと思った時、足元に感覚がよみがえった。それと同時に視界が整った。
そこは豪華な部屋だった。
「ここは私の王室だ。どうだ今の感覚? 良かっただろ」
「いや……」
「ちょっと辛いです……」
「湊さんよ、あんたのその感覚は一生分かんねえぜ」
「ライン、そうでもないでしょ?」
「ええ……」
どうやら桜さんと湊さんは感覚がちょっと違うようだ。
「ま、俺は皆を呼んでくるぜ」
と言ってラインさんは部屋を出て行った。
「さて、佐倉凛、シュワイヒナ、君たちはこれからどうしたい?」
「え……どうしたいって言われましても」
「そうか、なら私たちの軍に入らないかい?」
「はい、分かりました」
シュワイヒナが二つ返事で承諾した。
「シュワイヒナ、マジで!?」
「はい、マジです」
「え……なんで?」
「シュワナはもうすぐリーベルテに宣戦布告するでしょう。そしたら湊さんには私たちの力が必要なはずです」
「それはそうかもしれないけどさ……」
「だったら協力するしかないじゃないですか!」
「まあ、うん。そうだね。うん、そう」
「それに……」
シュワイヒナが私の耳元にぐっと顔を近づけた。
「これは私たちのためでもあるんですよ。ここで暮らすほうが、私たちの得じゃないですか。暮らしが保証されるのは大事なことですよ」
そう言って、シュワイヒナはニヤリと笑った。
「話がついたみたいだね。なあに君たちに戦ってもらおうというわけじゃない。ただちょっと戦場での指揮もお願いしたいところではあるがね」
「指揮なんて、そんな……」
「大丈夫だ。シュワイヒナは頭が切れるようだし、凜はシュワナの人たちの性格をよく知っているのだろ? 君たち程適切な人間はいないはずだ」
「わ、わかりました。尽力します」
「はい!」
シュワイヒナは快活な返事をしたが、私には得体のしれない不安感があった。私じゃいけない、それは自分に自信がないからというのはもちろんあったが、それとはまた別に特に理由もなく、ただ直感的に危機を感じた。