第五十六話 それは始まりかもしれない
吐き出しそうだ。私はどうすればいい。
さすがのシュワイヒナもこの事態には恐怖と驚愕の表情を浮かべている。そのためか私の手を握る力が強くなっている。
「情けないな」
そう祐樹は地面に降り立ち、言った。
祐樹が放った拳は湊さんの体を破裂させたのだ。そして、こちらへ走り出していた湊さんの体を完全に止めた。
その時に放たれた衝撃波は私たち全員を震え上がらせるのに十分だった。
悲しみに浸る余裕もない。リブルさんと湊さんの二人の仲間が死んだという事実を前にしても、悲しみを恐怖が上回ってしまう。体についた血や欠片は次は自分たちがこうなってしまうということを予感させるのだ。
桜さんでさえ、声を出すこともできていなかった。ただ、動かずに大粒の涙を流すだけ。
「も、もう俺は嫌だ!」
そう声を出した兵士が一人いた。彼は走り出し、逃げようとする。
それにより緊張の糸が切れてしまったのか、兵士たちは次々と逃げ始めた。
だが、私はと言えば、逃げようという気にはなれない。恐怖やら悲しみやらを超えた先に憎しみが溢れだしてくる。
「貴様!」
そんな私の心を代弁してくれるかのようにファイルスさんは叫んだ。その拳を握り締めて、彼は歩き始める。
「湊とリブルをよくも!」
「ん? 何をそんなに怒っているんだ?」
起こるファイルスさんに祐樹は気の抜けたような返事をした。それがまた、ファイルスさんの怒りを膨張させていく。
「ああ、仲間を殺されて怒っているのか。しょうがないな。そりゃあ誰だって怒る」
と憐れむような目を向けてくる。さらに、祐樹は
「これが戦争だ。そういうものなんだよ。俺と戦うことを決めてしまったがために、湊は死んだんだ。そんなことも分からないのか?」
「……じゃあ、なぜリブルを殺したんだ!」
「邪魔な奴は消さないとな」
「なんだと……」
「それとも、お前も俺の邪魔をするというのか?」
祐樹は凄惨な笑みを浮かべた。
「決めた。お前ら全員ぶっ殺してやるよ」
そして、彼は手を前に突き出して、
「こんなの見たことあるか?」
そう尋ねてきた。
誰も答えない。ただ共通認識として、大変なことが起きてしまうであろうことは容易に想像がついた。
わかる。彼が使おうとしているのは――
「ファイヤーブレイク!」
その声の直後、背後に突然太陽が出現したかのような感覚を受けた。そして、耳をつんざくような、心を抉り取るような悲鳴が聞こえる。
ゆっくりと後ろを振り返り、その光景を見て、私は思わず息をのんだ。
地獄絵図だった。
ここから、城に続くまでの場所は全て焼き払われていた。砦は炭になって、崩れていく。人の形をしている黒い何かがうごめいていたが、それらもすぐに動くのをやめた。一つ遅れて、それらが逃げた兵士だったことが分かる。
その状況を見せられた私たちの絶望が如何なるものだったかは、もはや説明するまでもないだろう。生き残った兵士は無言で膝をつき、アスバさんはリブルさんの血を浴びたまま、わなわなと震え、アンさんはうつむいていた。
完全に退路を断たれた。逃げ出すこともできない。
「死ぬ……の……」
シュワイヒナはそんなの嫌とばかりに、手の力を強める。
「殺されるわけには……いかない! 私は凛さんを守るから!」
シュワイヒナは叫び、体に力を込め始めた。黒い紋様が体に浮かび上がり始める。
「シュワイヒナ……だめ、それは……」
「でも、この力を使わなきゃ、あいつには勝てませんよ。凛さんだって、死にたくないでしょ。だから、止めないでください」
そう言われると、止められない。
私だって、これほどの絶望的状況に追い込まれた今でも生き残りたいと思っている。むしろ、その思いは一層強くなった。こいつに殺されるわけにはいかない。
「死の雨!」
彼女は叫んだ。黒い雲が祐樹の頭上を覆い始める。
「なんだ? これ」
彼はそう腑抜けたような声を出した。――それが命を奪う力を持つことすら知らず。
すぐに雨が降り始める。だが、
「嘘……」
それは黒い雨ではなかった。ただの透明な雨だった。
「が……あ……」
と、突然、シュワイヒナは胸を押さえて、苦しみ始めた。それとともに、闇の紋様は消え去り、雲は消えていく。
「あ……はあ、はあ」
がくっと膝を落とし、ついには彼女は倒れた。
「えっ……ちょっ、シュワイヒナ!」
少しも想像しなかった事態に動揺しつつも、私は彼女を抱き起す。
意識がない。呼吸は早い。そして、
「熱っ……」
体は触れたこちらがやけどしそうなほど、熱かった。まるで、炎天下の鉄でも触っているかのような気分だ。
頭が回らない。何が起こっているかが分からない。
音を立てて降り始めた雨の中、必死に考える。
逃げれない。倒せない。このままじゃ、みんな死ぬ。みんな死んで終わる。誰も生き残れず、全滅する。私はもうすぐ十七になる。せめて、二十歳まで生きたい。なんで、この世界に来なければいけなかったのか解き明かしたい。
私を生き残らせたいなら、神でもなんでもいいから、助けて。
「桜、全員を連れて、ワープを使って、逃げろ」
ファイルスさんの声。
「無理よ! 私には無理。湊もいないのに……」
桜さんが泣きじゃくりながら、答える。
「おい! てめえは湊がいないとなんにもできないのか!」
「それは……」
「泣くんじゃねえ。俺も泣いちまうだろうが!」
ファイルスさんは叫ぶ。
「おい、祐樹! 俺と戦え!」
「ふーん」
祐樹はしばし考え込む。
「へえ、君だけ死んで、周りは逃がそうっていうんだ」
「ああ、そうだ」
「へえ、いいじゃん」
祐樹はへらへらしながら答える。
「いいよ。俺を足止めできたらね」
そう言って、祐樹はファイルスさんに襲い掛かった。
彼の動きは少しも見えなかった。ただ、見えたのは吹き飛ばされていくファイルスさん。
「一発KO」
ファイルスさんは砦にぶつかり、砦には穴が開いた。ファイルスさんの姿も見えない。
「はい。無理でした。さあ、皆殺しターイム」
祐樹はこちらを見て、にやりと笑った。
「桜! 私が時間を稼ぐ。そのうちに早く」
アンさんが前に出る。
「ええー。お前、戦闘能力低いじゃん。いけるの」
「いけるいけないじゃない。私にできることをするだけだ。さあ桜! 早くしろ!」
「そんなこというけどさ、お前俺が今すぐその桜だっけ? それ殺せば終わるんだよ?」
と祐樹は言う。
「終わらせようか」
その言葉にある説得力は語るまでもなく、ついに私の命はついえるのかと覚悟するほかない。
「シュワイヒナ……」
ここで死にたくないのはシュワイヒナだって一緒のはずだ。なのに、もう二度と目を覚まさないなんてことがあってたまるか。
祐樹が動く。
終わる。抗うことはできない。
その時だった。祐樹の姿は突然横向きに吹き飛んだ。
「なにが、一発KOだ?」
現れたファイルスさんの姿は見るも無残な姿だった。胴体の左半身のほとんどが吹き飛んでいる。だが、その空洞は徐々に埋まっていった。これが固有スキル――
「俺の『ペイン』の力、なめんなよ」
だが、祐樹もすぐに立ち上がる。
「全然痛くねえよ。ていうか、てめえゾンビかよ。気持ちわりい」
「さあ、ゾンビと遊んでくれよ」
祐樹は舌打ちをした。
「いやだね」
姿が消えた。その直後、空気が破裂するような音が聞こえる。
「させねえよ」
そのファイルスさんの声を聞いてから、悟る。祐樹はファイルスさんの相手をすることをやめて、私たちを殺そうとしたのだ。それをファイルスさんは食い止めた。
もはや次元が違う。目の前で何が起こっていたのかそれが起こった後じゃないとわからないくらい、速く、動いている。
「桜! いい加減にしろ!」
ファイルスさんは叫ぶ。
「逃げるんだ! これ以上誰も死なせるな!」
「でも……」
「俺も……もう限界なんだ。本当はペインはこんなに大きな体の損傷に耐えるようにできていない。だから、早く逃げてくれ。俺のこと聞いてくれ!」
ファイルスさんはにやりと笑った。
「安心しろ。俺は戻ってくる」
その時、祐樹がファイルスさんに殴りかかった。それをファイルスさんは受け止めて、返しの攻撃を浴びせる。
「おい! お前ら! あいつらを攻撃しろ!」
そう祐樹は兵士たちに指示を出した。呆然としていた彼らはそれで正気を取り戻したようで、こちらに弓矢を向けてくる。
「私は……私は……」
桜さんは立ち上がった。
「湊、ごめん」
もう下半身くらいしか残っていない湊さんの死体へ桜さんは語り掛ける。
「子供の顔見たかったね。海の向こうにも行きたかったね。ずっと一緒にいたかったね」
桜さんは流れて止まらない涙を袖で拭う。
「ファイルス。あとはお願い」
「ああ、任されたぜ」
「必ず、戻ってきてね」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとう」
桜さんは息を吐いた。
「みんな! 魔法を打って! それがあなたたちの助かる道よ!」
その言葉に一瞬場がざわつくが、みな、理解したようだ。
「ファイヤーストーム!」
「ウォータースプラッシュ!」
「アースロック!」
「アイス・ダンス!」
声が聞こえる。飛んでいった魔法はこちらへ弓矢を放ち始めたほうへ飛び、攻撃を抑える。また、それとともに、生き残った兵士たちは一つの場所に集まり始めた。ワープで逃げることが分かっているからだ。ワープで運べる範囲には限りがあることを理解しているのだろう。
辺りで血しぶきが飛ぶ。弓矢はいくつかこちらへたどり着いているのだ。
だが、兵士たちは倒れた仲間の体を持ち上げて、なおも動き続ける。助かるために。
「皆殺しにしろ!」
祐樹は叫ぶが、ファイルスさんに足止めされる。
「てめえの相手はこの俺だ! こっちと戦え!」
はたから見れば混戦のようにも見える。しかし、実際は完璧に統率された動きをしていた。今更ながら、湊さん、そして桜さんの人望をはかり知ることができる。
「ワープ!」
その叫びで、体験したことのない大規模の集団移動が始まった。
慣れない感覚が押し寄せる。ただでさえ吐きそうだったのに、その感覚が増幅される。
視界の先に、悔しそうに叫ぶ祐樹が見えた。
たどりついた先は王宮。生き残ったということをかみしめるが、素直には喜べない。シュワイヒナは依然として目を覚まさないし、湊さんも死んでしまった。一緒に帰ってきた兵士を数えてもそれが少ないのは一目瞭然だ。最初は一万人いたと聞いていたのに、もう三百人ほどしかいない。被害があまりに大きすぎる。
「おい、どうしたんだ?」
と言って現れたのはラインさんだ。
「……」
沈黙が広がる。誰も答えたくないのだ。
「まさか……!」
「そうだ。ライン。君の思っている通りだ」
アンさんのその一言にラインは、
「じゃ、じゃあここにいないやつらは全員……」
「ああ、そうだ」
無慈悲にも事実が伝えられていく。
「どういうことだよ!」
と突然大きな声を上げたのはネルべさんだ。
「誰も死なないんじゃなかったのか! 湊はどうした! リブルはどうした! ファイルスはどうした!」
「湊も、リブルも死んだわ。こちらは二千以上の兵を失う惨敗よ」
ふいに桜さんがその問いに答える。
「おい、ん……あ……どういうことなんだよ!」
ネルべは桜さんにつかみかかった。
「なんでそんな簡単に言えんだよ! ていうかなんで死んでんだよ! 何かの冗談だよな……だったら、そんな冗談はやくやめてくれ!」
怒鳴りつけるようにネルべは言う。
「なあ、答え……」
そのとき、ネルべは桜さんの頬を伝う一筋の涙を見た。それで途端に言うのをやめたのだ。桜さんが一番悲しんでるんだってことをわかってしまったから。
「もう終わったんだな」
短くそう言って、うなだれた。
「いや、でもまだファイルスがいるわ。彼ならきっと……彼なら」
最後に残ったたった一つの希望。それに縋って私たちは何もしない。
そもそもこの戦争に何の意味があったのか。祐樹にとっては侵略戦争ではあるが、私たちにとってはただの防衛戦。こんなものがなかったら、湊さんは、リブルさんは、死ななかった。兵士たちが命を落とすことはなかった。もう終わると言うのになんの感動もない。あるのはただただ大きな虚無感だけだった。




