第三十九話 それでもあなたを
その感覚は明らかに私の脳みそを溶かしに来ていた。馬鹿になってしまうかのような感覚が襲い来る。だが、それは快楽とは違う。いや、違うこともないのかもしれないが、少なくとも私の知っている快楽ではない。もっと具体的に言えば、シュワイヒナの与えてくれた身のよじれるような、それでいて、優しい快楽とは違うのだ。このときの、それは暴力的で、支配的だった。気を抜けば、気が狂って、自分が自分でいられなくなるような感覚だ。
「ミルア、一体何を……」
「キュートブレス」
そうミルアは答えた。だが、私はすぐにこの認識が間違っていたことを知る。
目の前にピンク色の煙が現れ始めたのだ。固有スキルの発動がこれからだということ。なら、今までのは? 単純なミルアの魅力のみで、それを発動させたのか?
逃げるべきだ。受けてしまってはいよいよ正気を保てなくなる。その時、私はどうなってしまうのだろうか。想像したくもない。
倒れているシュワイヒナはこちらへ来ようと必死に動いていた。エナジードレインをその身に受けて、立てなくなってしまうほどなのに。それに肉体の回復すら間に合っていないのを見ると、マジックポイントまで根こそぎ奪われたのだろう。おそらくミルアはそうやって、多くの私たちの仲間たちを術にかけてきたのだ。だから、あの量の人間を同時に操れる。いや、操れるという表現自体正しいのだろうか。彼ら彼女らは命令をそのまま自分の意志で聞いてしまっている。「惚れ」はそれほどまでに有効なものか。
彼女から離れようと体を動かそうとするが、体に力が入らない。心までは屈服させられていないのに、体は入ってくる強烈な催眠ガスに屈服してしまっているのだ。
そのうちに彼女は私の体から離れる。それだけで私の体は体温を欲しがってしまう。まだ離れてほしくないと思ってしまっている。
「ねえ、凛さん」
ミルアは既に顔が蕩け切って、だらしない姿を見せている私の名を呼ぶ。そのことに、名を呼ばれたことに、全身が喜ぶ。
「私、あなたのこと好きなの」
彼女は膝をついてしまった私に合わせるかのように屈んで、上目遣いでこちらを見つめながら、そう言った。時折、目線を動かすと、それに合わせて恥ずかしそうに頬を染める。その様子がいじらしい。
「凛さん……ダメ……」
シュワイヒナの声が聞こえる。私だってわかってる。頭の中ではそんな言葉に動揺してなどいない。でも、体が欲しがってしまっている。本能に訴えかけられているようで、一度動き始めた情欲は収まりそうにもない。
「ねえ、あの子のことなんて、放っておいて! 目、動いてるの。私だけ見ててなの! あの子はきっといつかあなたを傷つける。でも、私はあなたを傷つけないの。分かるよね」
最後の一言はそれまでの甘い声と打って変わって、冷たくなった。だが、それも不安でたまらないという感じで、私の中にこんな感情を背負わせってしまった自分が悪いという意識が芽生え始める――もっともそれが嘘だと頭の中ではわかっているのにだ。
「後ろのアンさんだって、桜さんだって、あなたを助けようとはしないじゃん」
その時だった。私は気づいていなかったが、アンさんと桜さんはその言葉を言われる前にすでに動き出していたらしい。そして、その言葉を言い終える前に、ミルアのすぐそばまで来ていた。
両側からの同時攻撃だった。普通なら、避けられるはずがない。受け止められるはずがない。そう普通なら。
彼女は明らかに普通ではなかったのである。動いた。そう思ったのは全てが終わった直後だった。
ミルアは地に手をついて、アンさんの剣を避けながら、桜さんの蹴りに対して、蹴りで返した。瞬時に使われた肉体強化により、桜さんの蹴りは意味をなさずに、逆に蹴飛ばされ、壁に激突し、めり込む。さらにその後、アンさんの腹を真下から殴った。アンさんは宙に浮き、さらにそこをミルアは一回転して、蹴飛ばす。それによりアンさんはただの一回の攻撃で遥か後方に飛んで行った。
「あら、助けようとはしたようなの。でも、意味はないの」
その時に浮かべた笑みはそれこそ凄惨なものだったが、その笑みはすぐに驚愕に変わることを私は知っている。
アンさんと桜さんが作ってくれたチャンスを、私は確実に受け取る。
肉体強化。ゼロ距離からの一発を、彼女のがら空きの腹へ。
強烈な一発だった。受け身の姿勢など取っていなかった彼女の腹に入った。
「なんで……」
圧倒的な自信が崩壊した彼女に、私は鬱憤を晴らす。
「私が恋に落ちるわけないでしょうが! 私には大好きな人がいるんだよ!」
シュワイヒナ。私は約束したんだ。あなたの傍にいるって。いなくなったりしないって。
「う……」
だが、そこはさすがのミルア。すぐに平静を取り戻し、私の腕をつかんだ。
「私のこと……好きにならないの……」
彼女は私を睨みつけた。これが彼女の本性。
「なら、いらない――いらない! エナジードレイン!」
全身から気力が抜けた。立てなかった。もはや膝立ちすらできない。前向きに倒れる。
「ねえ、もういいよ。どうせ君たちも、君たちも、君たちも! 死んじゃえ!」
だめだ。強すぎる。肉体強化はシュワイヒナ以上。しかも珍しい魔法である吸収魔法を使え、能力は催眠。
その時だ。温い液体が降ってきた。血なまぐさい。もはやほとんど残っていない力で上を向く。
「――ミルア、あなたの負けです」
それはミルアの腹から突き出した剣から降ってきていた。
「大体、予想外のことが起きると人って混乱するんですよね。だから、後ろにいた私には気づかなかった。そうでしょう?」
シュワイヒナだ。彼女の剣がミルアの腹を貫いていた。
「このまま剣を上にあげていけば、あなたは心臓を切られ、死ぬでしょう。それか、この刺さった状態を続けられれば、失血死するでしょう。さて、どうしますか?」
「やめて……」
「どうしてですか? 今やめれば、私たちの命が危ういんですよ。ていうか疲れるんで、あんまり喋らせないでくれませんか?」
「どうして……私は……幸せになりたいだけなのに……」
「幸せですか。あなたは私たちの幸せを自分の幸せのために奪いますよね。なら、奪われても文句言えないでしょ」
「いや……」
「そんな目で見ても、無駄ですよ。私の心には何も響きません。あなたの固有スキルもそのかわいらしさも、私には効かないんですよ。それより、固有スキルを早く解除してください。湊さんとファイルスさんが動けないじゃないですか」
「いやなの」
「なら、殺すしかありませんね」
シュワイヒナは剣をゆっくりと上にあげていく。それに合わせてミルアは悲鳴を強めていった。それだけ痛いのだろう。
「はい、心臓の直前まで来ました」
「……殺さないで」
「だから、殺さないから、固有スキル解除するって言ってるんですよ」
「分かった。分かったから」
そうミルアが返事すると、本当に固有スキルが解除されたようで、リブスさんとアスバさんが正気に戻ったようだ。
そして、立ち上がり、ミルアに近づく。
「シュワイヒナ。もう抜いてやれ」
湊さんがそういうので、シュワイヒナは剣を抜いた。そして、すぐに私の体を起こしてくれる。
「凛さん、大丈夫ですか」
「多分、ありがとう、シュワイヒナ」
「いえいえ、私のほうがありがとうですよ」
彼女は私の体を抱きしめた。温かい。そして優しかった。
気づけば、桜さんとアンさんも動いている。
「ミルア、君はまだこれからだ」
とアンさんが珍しくなだめるようなことを言った。それに対し、ミルアは
「これから……」
とその言葉を繰り返した。そして、
「そうですね。これからがありますの」
そう言って、可憐にほほ笑んだ。すると、アンさんが、
「逆転の一撃はやめたほうがいいと思うぞ。これだけの固有スキル使いに囲まれている上に能力は全て割られているんだ。君の勝てる要素はもう残っていない。そんなことをするよりも、今ここで降伏したほうが、君は幸せになれる」
「そんなわけがない……なぜなら、あなたたちは悪なの。そうなの、凛さん」
彼女は私のほうをじっと見つめた。
「違う」
ただ短く、私は彼女の目を見らずに答えた。
「そうなのぉ」
はあとため息をついてから、甲高く笑った。
「死んじゃえ。やっぱ死んだほうがいいの。凛さん。あなたは特になの!」
動いた。この距離で、どうして倒せると思う? 周りをかこっている人たちが、手を伸ばせば届く距離なのに。
だから、私は動かない。今、決めた。目を逸らさない。じっとミルアの目だけを見つめる。
止まった。その手は私の鼻まで僅か二十センチ。
最も近かった桜さんとアンさんが私の目の前まで来たミルアを止めていた。しっかりとおなかを掴んで、彼女はそこからもう動けない。
遠距離攻撃を持たない。それだけが彼女の作戦。自らの触れられる範囲内でしか、攻撃ができない。それはこの場の全員がすでに理解していることだ。
「どうしてなの! 好きになってなの! かわいいでしょ! 愛らしいでしょ! 私のことを守ってなの! ねえ!」
泣き叫んだ。こうなるともはや彼女はただの子供でしかなかった。絶望して、救われて、また絶望。救い方が間違っていた。そんなことはわかってる。
「いつまでも子供でいられないでしょ、いつまでも守られるだけの存在にはあなたもなりたくないはず。だから、その肉体強化の力は異常な精度を誇ってる」
「う……ぐす……」
「知ってるわ。あなたはその肉体強化だいぶ、練習したのね。よく頑張ったわ」
私は知りもしないことを、嘘っぱちをただ予想だけで話しながら、彼女を慰める。これは一種の賭けだ。間違っていれば、地雷を踏み抜くことになりえる。だが、今の彼女に必要なことは認めてもらうことだと私は判断したのだ。
「そう練習したの。頑張ったのぉ」
泣きじゃくりながら、彼女はそう言った。
「そう。あなたは頑張ればできるの」
私は立ち上がり、彼女の頭をそっと撫でる。
「だから、これからも頑張れる。あなたならきっとやれる」
「本当に、私もできるの……?」
「うん、あなたなら生きていける。人の力を頼るのは構わない。でも、あなたにはあなたの人生があるでしょう。ミルア。あなたの人生なんだから。見せかけだけの『好き』に惑わされないで」
すーっと彼女の力が抜けていったのだろう。がくりと頭を垂れた。
「そう。だったら私も生きていくの。私の選んだ道を」
彼女はばっと顔を上げ、そして、私の目をみつめて、にやっと笑って見せた。
「まずい!」
危険に察知したのはアンさんだった。すぐに彼女を掴もうとする。だが、
「肉体強化」
ピンク色の髪はその色が与える印象と全く異なり、荒れ狂い始めた。そのまま、後ろへ一気に跳ぶ。
一瞬の出来事だった。あまりのスピードに誰もついていけてない。
「私の選んだ道。教えてあげるの!」
彼女は窓の外へ飛び込んだ。
それと外で爆発音が聞こえたのは同時だった。
窓のほうへ走って、外をみつめる。
見えるのは壊れる砦と、大量の氷。そして、そこへ走っていくミルア。
「敵襲だ!」
アンさんが叫ぶ。
考えている余裕などなかった。先ほどのエナジードレインで体がほとんど動かないことも忘れ、私は窓の外へ飛び込んだ。
ほとんどないエネルギーの中で、まともな着地ができるわけもなく、庭の上へ体を打ち付ける。すると、すぐに追いかけてきた桜さんが、私に回復魔法をかけてくれた。
上を見ると、皆も続々と窓の外へ飛び込んでいっていた。
私は限界だと叫ぶ自分の体に鞭うって、走る。
壊れた砦から、軍が入ってきた。彼らと私たちがちょうど三十メートルの間をもって対面する。
「お父さん……」
そう口に出したのはアスバだった。
大量の氷にすでに私たちも勘づいていた。
今、目の前にいるミルアに抱き着かれている男。彼こそがアスバさんのお父さん――ビラス・アイス。それで間違いなかった。
次回投稿は十月二十八日です
 




