第三十三話 そばに
「なんで……」
シュワイヒナはすぐに立ち上がったが、足元が覚束ないようだった。
「おい、お前は俺には勝てねえぜ。相性が悪すぎるんだよ」
「相性……そうでしょうね。あなたとは仲良くなれる気しませんもの」
「そういう意味で言ったんじゃねえんだが……まあいい。アン、大丈夫か」
「ああ、大丈夫だ。そういうお前こそ大丈夫なのか?」
「うん。昨日の相手は俺とは相性悪かっただけだ。だから、大丈夫! 俺はいつか最強になる男だからな!」
相変わらず元気は良いようだった。それに恐ろしいほどの自信だった。
すると、シュワイヒナが私のほうへ来て、
「凛さんは心配してくれないんですね」
と拗ねたように言った。
「いや、別に心配してないわけじゃなくて、なんか自業自得だなと思ったから……」
「自業自得ですか。凛さんもそう思うんですね。言ったとおりです。アンさんは危険です。私たちにとって。だから排除しないといけないんですよ」
「何をもってアンのことを危険だというんだ!」
そう抗議したのはネルべさんだった。
「そうだ。シュワイヒナ。どっちかといえば、君のほうが危険人物だ。君は自分の思い通りにならない人間を排除したいのだろう」
そういわれ、彼女は間髪入れずに、全くの思考をせずに、
「はい、そうですよ」
とまるでそれがはじめから私たちが知っている真実であるかのように言った。
信じられなかった。あまりの発言にネルべさんは驚いて、口をあんぐりと開けている。
「シュワイヒナ、うそでしょ」
「いや、それは嘘じゃない」
と私からの問いかけにアンさんが答えた。
「でもですよ、凛さん。私の思いどおりにならない相手は私と凛さんが幸せになることを邪魔する奴のことですよ」
「邪魔って……なんで……」
「幼い奴だ。まるで駄々をこねてる子供だな」
とアンさんが嘲笑った。
「そうですか、子供ですか。大人は汚いですからね。私はそんな生き物にはなりたくないですから、子供でもいいかもしれませんね」
「ほう、言うじゃないか。じゃあ私は君の言われたくないことを言ってもいいのかな?」
完全な脅迫だった。その言葉にシュワイヒナはさらに顔を歪ませた。だが、その言葉は驚異的な強制力を持っていることに気づいたようだった。
「それは……」
「人にお願いするときはどうすればいいんだ?」
「お願いします。言わないでください」
シュワイヒナは苦渋の表情で地面に膝をつき、頭を下げた。
「それでいいんだ。その性格なおしたほうがいいぞ。君はいつか間違える」
「……分かりました」
完全な敗北だった。やはり人の心を読める能力への対抗は彼女にはできなかった。
アンさんはそれを確認した後、去っていった。ネルべさんも後についていく。
「ね、シュワイヒナ。大丈夫?」
「……凛さん。ごめんなさい。私の幼稚な行為に付き合わせてしまって……」
「…………」
「凛さん、私ってそんなに幼稚ですかね。そんなに幼いですか!?」
「それは……」
「正直に言っていいんですよ。凛さん、人のこと傷つけまいとして思ったこと言わないじゃないですか」
「うっ……さすがの私でもね、シュワイヒナのことはわかってきたよ。それにアンさんが言わんとしていることも勘づいてきた。でもね、そんなことで私はシュワイヒナのこと嫌いになったりしないよ」
「本当ですか……?」
「うん、絶対に」
「じゃあ凛さん。お願いします。私を……一人に……しないで……」
彼女はそこで耐えられなくなったのだろう。私の体にしがみついて泣き始めた。その声は悲痛で、私は服に湿気を感じ始めた。
「怖い……怖いんです……」
彼女はそのまましゃべり始めた。その声に耐えられなくなって私は彼女の頭をなでた。
「もう一人は嫌……だから、だから、あなたがいないと耐えられない……」
その気持ちは私にもわかった。彼女は一人になりたくないのだ。だからこそ一度手に入れたものを手放したくない。ただの独占欲。けれどもそれは人を傷つける。それに独りよがりな考えを生んでしまう。それでも人には絶対にある欲望なのだから。
「シュワイヒナ、私はあなたを離さない。絶対に」
彼女が持つ感情を私は持っていないわけではなかった。それに彼女が安心して暮らせるようになるためには私のことを信用してもらわないといけない。
「私のこと、信じて」
「信じてますよ……でも、それでも怖いんですよ」
一度にあふれ出した感情は留まるところを知らない。それだけ我慢していたということなのだろう。思えば、彼女はいつだって自分一人で抱え込んでいた。それが彼女の心を蝕んでいったのだろう。
私は何も言わずに彼女をきつく抱きしめた。
それが正しいと判断した。それだけのことだ。
彼女は私のことを信じていると確かに言ってくれたことがある。その時は私のほうが救われた。ならば、今度は私が救わないといけない。それくらいのことが私の恩返しだ。
彼女の柔らかな体は羽毛のように心地よく、また頼りのあるものだった。それが私の脳みそを安心させたのか、気づけば、私は彼女を抱いたまま寝ていた。
どれだけの時間が経っただろうか。それは案外長い時間が経っていたかもしれないし、あるいは体感通り、それほどの時間は経っていなかったかもしれない。そのどちらであるかはその時の私にはわからなかったが、ただ一つ今の時間について言うことができるのならば空はオレンジ色に染め上げられていたということだけだ。
夕焼けはなんだかとても明るかった。先ほどよりもずっとだ。
「凛さん、きれいですね」
「うん、そうだね」
そう返すと、彼女は何かがおかしかったのか口元に手を当てて、笑った。
「……何か変だった?」
「いえ……凛さんも勘違い激しいなと思っただけですよ」
「勘違い?」
え、分からないんですかあと彼女は笑った。普通の人なら人を蔑むような笑いになると思うのだが、それはどこか純粋で、悪気などなかった。
「全く言わせないでくださいよ、恥ずかしい」
「えっ……何が?」
シュワイヒナは頬を赤らめてる。何かそんなに恥ずかしいこと言ってたっけ。少しも記憶にないし、気づかなかった。
「ちゃんと、思い出してください!」
赤い頬を膨らませた。そんな姿もかわいくて、つい頬が緩んでしまう。
「ちょ、なに笑ってるんですか!」
「いや、私の彼女、かわいいなあって……」
「もう……もっと恥ずかしくなったじゃないですか」
「ごめん、ごめん」
彼女はもう耳まで真っ赤だ。トマトみたい。それにぷくーっと膨らませているほっぺもお饅頭みたいで、気持ちよさそうだ。
だから、ほっぺをつついてみた。
「何するんですかあ……」
「いや、気持ちよさそうなほっぺだなあって思って」
「そうですか……私ほっぺ触られるのそんなに好きじゃないんですけど……」
「あ、悪かった?」
「いえいえ、むしろ……もっと……さわって……ほしい……なんて」
下を向いて、すこしもじもじしてた。かわいい。語彙力を失いそうだった。もはやかわいいとしか言えないのだ。
許しをもらえたことだし、思う存分、ほっぺを堪能した。手に吸い付いてくるようだった。下品なことを言って少し申し訳ないのだが、桜さんのあれよりもこっちのほうが触ってて気持ちいいと思う。ごめんなさい、桜さん。
「いつまで触ってるんですか……それに、なんか話逸れてますけど」
「あ、そうだったね。そうか、そんなに知ってほしい内容なんだあ」
「いや……その……」
うーと彼女は頭を抱えた。その様子がまたかわいい。好きな人フィルターたるものがかかっている恐れもないことにはないのだが、少なくとも元の世界にこれほどの美少女はいなかったので、この点だけで言えば、この世界は素晴らしい。祝福を送りたい。
こんな表情すらも愛くるしげであるのならば、意地悪したくなるつもりも分かるだろ?
「分かりましたよ、もう一回言いますね!」
彼女は胸を押さえた。その胸が上下する。
「凛さん、きれいですねって言ったんです!」
「――! ……夕焼けがでしょ?」
さすがにわかった。わかってしまい、私の顔もきっと赤く染め上げれているのだろう。なんだか暑いし。だけど、彼女はそれには気づいていなかったようだった。夕方になっているのがいいように作用しているようだ。もう少し、彼女の愛くるしい姿を堪能したい――その欲望がいつの間にか私の体の全てを支配していた。
「違いますよ!」
「えっ、でもさ、文章がさ、はっきりしてないじゃん。よく意味が分からないよ。ちゃんと言わないと」
「凛さん……なんか意地悪ですね」
「えっ! なんのこと? わかんないな」
なんかむかつく彼氏オア彼女感を出してしまってる感がある。でも、これには理由があるのだ。最高のタイミングで最高のことをするという理由が。だから、もう少しだけ我慢して、シュワイヒナ!
だなんて言えるわけもなく、私はただ、とぼけた顔をして、沈みゆく太陽を眺めていた。
「じゃあ、言いますよ! 絶対に聞いておいてくださいねっ!」
「分かった。わかった。聞いてるよ。耳の穴かっぽじってよく聞いとくよ」
「むしろ、耳元で言ってやりましょうか」
「あ、それのほうがいいかも」
「ふーん、そうですか……」
彼女はずっと恥ずかしそうだった顔をニヤッと歪ませた。何か良からぬことを考えているときの顔だった。だが、言ってしまった手前、もう後には引き下がれない。
彼女は私の肩をつかんで、ぐいっと引き寄せた。突然のことにドキッとしてしまった。
「ふー」
「ひゃう!」
彼女が私の耳に息を吹きかけた。こそばゆくて、声が出てしまう。
そして、彼女は
「凛さんだって、顔真っ赤のくせに」
と耳元で囁いた。
バレてた! その事実がさらに私の羞恥心を刺激する。それに激しく動揺しているうちに彼女はさらに追撃をしかけてくる。
「そんなに私に意地悪したかったんですかあ? いけない子ですねえ」
ゾクッときた。
まずい。なんだかいけない性癖が開発されそうだ。いや、彼女に開発されるのなら、それは幸せなんじゃないのか……。 いや、待て、私よ。脳みそがついに正常な判断ができなくなっているぞ!
「今、ゾクッとしましたね。凛さん、そっちの趣味もあったんですかあ、意外と変態さんですね」
体中に電気が走ったような気がした。だらしない表情をしそうになるのを、私のちっぽけで簡単に崩れてしまう砂上の楼閣のようなプライドでなんとか抑える。
彼女の手が私の背中を走った。それだけの少しの刺激にすら反応してしまってる自分がいることがたまらなく恥ずかしい。
「そんな欲しがりな凛さんですけど、今回は特別に言いますよ。いいですか。聞いてなかっただなんて許さないですからね」
「…………」
「返事はどこですか?」
「はい!」
やばい。こんな庭のど真ん中で叫んじゃった。でもまあ、庭のど真ん中でこんなことしてるのも問題ではあるんだけれども。
「よく言えました。うーん、凛さん、私今すごく楽しいですよ」
焦らしか? 早く言って欲しい!
「早く言ってって顔してますね。そんなに聞きたいんですか? 何言うか分かってるのに?」
「……早く、言って……くだ……さい」
「はい、凛さん、とてもきれいですよ。大好きです。愛してます」
耳元で大好きな人にこんなことを囁かれてまともでいられる人なんているのだろうか?
理性が崩壊しそうだった。否、すでに崩壊していた。
私はシュワイヒナを芝生の上へと押し倒した。
「きゃっ……凛さん……そうですか……」
シュワイヒナも理解したようだった。いつでもどうぞと言わんばかりの表情を浮かべる。それがまた、走り出してしまった私の欲望を加速させてゆく。
これほどまでに体が熱くなっているのはいつぶりだろうか? つい最近あったやつでもこんなに体が熱くはならなかったと思う。
そもそも私はマゾなのだろうか。それでこんなに体が熱くなってしまっているのだろうか。そう、私の加速した感情に取り残された理性が考える。だが、それも取り払ってしまった。不必要だと思ったからだ。理由なんていらない。いつもは理由を求める私がそう思ってしまうほどに、欲望は強くなっていた。
私はただ私の欲望の赴くままに彼女の素敵な赤い唇に自分の唇を触れ合わせた。
次回投稿は十月二十二日です
 




