第三十三話 目を背けないで
一週間後、予定通り装備を整え、私たちは出発した。もちろん日々の鍛錬は欠かさなかったが、馬車も非常によく、何不自由ないまま、旅は進んでいる。
この一週間で、アドニスはめきめきと腕を上げていった。おそらく、才能に恵まれているんだと思う。第一段階のマジックポイントの放出はすんなり乗り越えたし、私が魔獣との厳しい戦いを繰り返す中で命のために手に入れていったマジックポイントの操作も順調にできるようになっている。一種の羨ましさまで感じた。
「どうですか、私! うまくなっていますか!」
「うまくなっているよ」
「ありがとうございます」
そんな様子を他の仲間たちが優しく見守ってくれる。それから、ラングスやファインも負けじと鍛錬に励む。
本当に幸せな時間だった。運命から目を背けて、ここにずっといたいと一瞬だけでも思ってしまうくらいには。
今思えば、それはそんな私への戒めの意味も込められていたのかもしれない。こうして私が幸せを感じている間にも、リデビュでは今も人々が苦しんでいるのだと。アンさんや、桜さんや、みんなが英雄の帰りを待ち望んでいるのだと。
それを私は感じるべきだった。けれど、目を逸らした。もう忘れたかった。
だから、それは私に下った罰だったんだ。
出発してから、一か月後、例のモルト山脈へと入っていった。
本当に暗い森だ。少しだけ怖く感じる。そして、寒い。視覚がかなり奪われているためになおさら寒く感じる。しかも、鳥の羽ばたきが、木々のささやく声が、なおのこと恐怖を煽る。
「うー、こわ……」
アドニスが声を上げた。随分とかわいらしい声を上げるものだ。レインもやだなあという顔をしている。あのラングスが結構びびっているのは一周回って、かわいい。
こんな感じだったけれど、特にみんな本気で怖がっている様子はない。やっぱり、このメンバーだったら、大丈夫だろうという見立ては間違っていなかったようだ。
そんな矢先、私の脳が、がつんと殴られるような、そんな衝撃が走る事件が発生した。
馬車が突然止まった。馬車を操っていたドライさんがドアを開け、言う。
「オオカミだ。囲まれている」
一瞬で緊張が走る。私たちは馬車から降り、構えた。
すると、
「待て」
そういう声が、オオカミからした。そちらの方を見ると、暗闇から、だんだんと一匹のオオカミの姿が浮かび上がり、私たちの前に現れる。
「佐倉凛様。大賢者様の使者でございます」
「…………」
全員が呆気に取られていた。
私以外の全員は突如として現れた「サクラ・リン」、あのイラクサ教の人たちが言っていた世界を滅ぼす悪魔がこの中にいるという発言について。
私は、自分の名前をいきなり呼ばれたことについて。
八人のうち、一番後ろにいた私の下へオオカミはゆっくり歩いていく。白いオオカミだ。美しいと言えば美しいのかもしれないけれど、そんなこと今の私に考えるだけの余裕はない。
「佐倉凛様。私はあなた様のしもべとなることを誓います」
オオカミは私の前に、跪き、そう言った。
沈黙が場を支配する。私とてなんと返せばいいかわからない。もう完全にパニック状態だ。全く、思考がまとまらない。
「ま、待てよ。隊長が佐倉凛だって?」
フレイムが沈黙を破った。
「隊長は、リク隊長だ。そうで、間違いないんだろ、隊長」
「…………」
「そ、そうっすよ。先輩はリク隊長で間違いないっすよ!」
アネモネも言ってくれる。
「大体、てめえ、大賢者の使者って言ったな。獣野郎がどうやって喋ってんのか知らんが、大賢者はもう死んだはずだ。嘘をつくなよ」
ラングスの発言に、オオカミが返す。
「嘘ではない。大賢者様がなくなった今、大賢者様のご意向を佐倉凛様にお伝えするのは私しかいないのだ。世界を破滅に向かわせないために。嘘だと思うなら、証拠を見せてやろう」
そう言うと、オオカミの背中がびくびくと動き始めた。と思うと、大きな翼が生え、
「うっ……」
光の輪が頭の上に出現した。そろそろ暗闇に目が慣れ始めたころだったから、目が痛い。
「私は天使である。信じていただけただろうか。佐倉凛様」
私を見つめ、言う。
さすがに返答しなければならないように思えてきたころ、ドライさんが声を上げた。
「リク、本当に佐倉凛なのか?」
「おい、待てよ。ドライ。てめえは隊長が佐倉凛だって疑ってんのか?」
ラングスがすぐに反論する。
「そうですよ、隊長が世界を滅ぼす悪魔なわけありません!」
アドニスも一緒になって、反論した。
「答えは全部、隊長が知っているんだろう?」
ドライさんはなおも私に言う。
メイは何も言わない。何かを言おうとしてもすぐにためらっていた。
どうする。そもそも、こいつが大賢者の使者ではなく、神の使者である可能性だってあるだろう。それだけじゃない。もっと別の私の命を狙っている相手である可能性もある。この間、迂闊に自分の名前を喋って、ひどい目に合ったのだ。どう考えても自分の正体を明かすのは危険すぎる。
その一方で、この使者が私の運命を変えてくれる可能性だってある。それをみすみす手放すわけにはいかない。
どちらが正解か。
私は悩みに悩み、そして、答えを導き出した。
「……みなさん。ごめんなさい。その……私の名前はリクではありません。私の名前は佐倉凛です」
よくよく考えてみれば、悩むほどのことではなかった。相手のオオカミは私のことをはじめから、佐倉凛だと知っていて、話しかけているのだ。言い逃れのしようがない。
となると、私は諦めて、そのあとの話をどうするかを考えるべきだった。
どさっと音がした。アドニスが腰を抜かして倒れこんだのだ。そして、
「おい、待てよ」
ラングスが即座に発言した。
「どうして、そんな嘘つく必要ある? 隊長、リク隊長なんだろ」
「違います。私は佐倉凛です」
「……じゃあ、なんだ、てめえは今まで俺たちをだまし続けてきたのか?」
「……ごめん」
「ふっざけんなよ! 俺は俺なりにてめえのこと信用してきたんだよ! なのに、なんだ。てめえ。お前は佐倉凛だと。自分がこの世界を滅ぼす悪魔だって恐れられているから、正体を隠してきたってことなのか!」
「それは……」
「俺は相手の人柄を見て、信じるかどうか決めてるんだ。お前が最初っから、自分のことを佐倉凛だって言っていたなら、俺は信用してたさ。ふざけんなよ!」
ラングスは叫ぶ。だが、空気は凍っていた。
そして、ラングスは
「これだから、人を信じるのは……」
そうぽつりとこぼした。直後、
「全員が、全員そう思っているわけではない。ラングス」
ドライさんが冷たく言う。
「信じられないな。佐倉凛。私は本当に佐倉凛が世界を滅ぼすかどうかはどうでもいい。だが、そのように言われている以上、危険な人物なのは間違いない。君は、異世界から来たのか?」
「……はい」
「いくら神話とはいえ、おんなじ名前の人間が同じようにこの世界に現れるのは偶然と片付けるにはあまりにもできすぎている。そうは思わんか?」
「…………」
「佐倉凛、お前は何者だ?」
「私は佐倉凛であって、それ以外の何者でもありません」
「そういう話をしているのではない。いつか、お前は二つの魔法構造があるという話をしていたな。あれはなぜだ?」
「それは……」
言えない。私が生き残るために神の与えた力だなんて。そんなことを言ってしまえば、私が神話通りの世界を滅ぼす悪魔だと言っていることになってしまう。
「言えないのか。未だなお、お前は私たちに隠し事をし続けるのか」
「…………」
「なんとか言ったらどうだ。佐倉凛」
「…………」
「言わねば伝わらないぞ」
「やめてください」
そう言ったのは私ではない。メイだった。
「お姉さんは悪い人じゃない。もし、お姉さんにそれ以上、言うんだったら、私が戦うけど、ドライ、勝てるの?」
この場にいる中では、大賢者の使者を名乗るオオカミは別として一番強いメイが強く言うものだから、ドライさんは口を閉ざすのかと思いきや、彼はまだ話し続ける。
「メイ。君は知ってたんだな」
「はい」
「いいだろう。メイ。戦おうか」
「ふーん、いいんだ。ドライ、死ぬよ?」
ぴりっとした空気が流れる。
「やめて」
私はたまらず声を上げた。
「話します。なんで私が二つの魔法構造があるか」
仲間同士で争うくらいなら、話したほうがましだ。
けれど、
「話すな」
オオカミが口を挟んだ。
「ドライなるものよ。おぬしが知ったところで、それを活かすところなど存在しないだろう? 意味はない」
「……そうか。そうかもしれないな」
ドライさんは両手を上げて、降伏の意を示した。
「私が悪かった。そう言えばいいんだろ。大賢者様の使者よ」
「わかればよろしい」
ドライさんは、ばかばかしいと呟きながら、馬車へと戻っていった。
「さて、この中にこれ以上、言い争いをしたいというものはいるか?」
誰も何も言わない。
「それならば、佐倉凛様以外は馬車に戻ってもらおう」
オオカミの言葉にみな、それぞれ戻っていた。腰が抜けていたアドニスはアネモネが運んでいった。
「さて、佐倉凛様。話をしましょう」
「……大賢者様の意向を私に伝えるんだよね」
「はい。大賢者様の意向はただ一つ。あなた様にただ一つの言葉を。自分の信じるものを信じろ。そう大賢者様はあなた様にお伝えしたいとおっしゃっておりました」
自分の信じるもの。
「…………」
「佐倉凛様。私のできることは少ししかございません。私に与えられた力は異世界からやってこられた転移者たちのそれよりはるかに劣るのです。それをわかっていただけると幸いでございます」
「……うん。これから、ついてくるの?」
「はい」
「……ありがとう」
その言葉は義務感から出た言葉だった。
感謝すべきかどうか。そう質問されたら、きっと感謝するべきだというのが答えなのだろう。けれど、感謝しているかと聞かれると、私は首を横に振るしかない。少なくとも、誰かが見ている前では。
馬車に戻り、出発した。
戻った私に対して、誰も声はかけてくれなかった。それだけじゃない。レインと、メイ以外は目すら合わせてくれない。アドニスなんてあくまで私たちには聞こえないようにしていたが、泣いていた。
まあこんなものだろうなと私はためいきをつく。何もかも、私の望んだことじゃないのに――そう思ったが、最近は人生なんてこんなものだろうと私は半ば強引に納得させるようになっていた。
別に何もかもが不幸なことなんかじゃないんだから。
ただ、私の信じるものが私にはわからない。私が世界を滅ぼすという最悪のシナリオを、運命を絶対に回避してやるという私の決意か?
なにやってんだろうな、私は。
別に逃げたりなんかしないから。言われなくたって、私は私が運命を変えれるってそう信じてるから。
それは決して、ひとりでにやってくるものじゃないけれど。私がつかみ取るものだけれど。
私はそう信じてる。
だから、こうやって、私を誰かに信じてもらえなくても、いつか必ず幸せをつかみ取るんだって。今が苦しいだけなんだって。
だけど、なんでだろう。
私は自分の顔を見られないように膝を抱えて、下を向いた。
同情なんてされたくなかった。きっとシュワイヒナを除いて誰の言葉も、いや、シュワイヒナの言葉さえも私の心には響かないから。
それに、こうして、うずくまって下を向いているとき、私は一つの確信が得られた。
悪魔は、涙を流さない。
 




