第十七話 夜明け
そう言われた途端、玲子の走る速さ、体の動かし方、それらすべてが変わった。動揺しているのに間違いはないが、まさに言われたくないところを突かれた、といったところだ。
衝撃が走る――が、
「もう一度、聞きます。あなたは本当に大人ですか?」
振るわれた拳はどこか弱弱しく、肉体強化を伴っていないのだとすぐにわかった。それで私はその拳を簡単に受け止められる。肉体強化が伴っていない理由も玲子が感情の荒波にもまれて、マジックポイントの操作がうまくいっていないか、長い戦闘の影響でマジックポイントが尽きかけているかだろう。
「ガキが、黙れ!」
「大人ってなんですか。子供に――人に無理矢理言うこと聞かせるのが、大人なんですか?」
大人の定義は難しくて、いや、そもそもそれに定義を求めるの自体、間違っているのかもしれない。日本では二十歳以上は成人となり、大人として扱われるが、実際問題、中学を卒業すれば社会人として生きていくことはできるわけだし、十五歳を大人の基準とする見方もあるように思う。
肉体的に未成熟でも精神的に成熟している人間だって、星の数ほどいて、その逆もまた然り。
私は自分を大人だとは思わない。けれど、同時に玲子も大人だと思えなかった。彼女もまた、盲目的になって、他が見えずに自らの主義主張を通そうとする子供に見えたのである。
「違うわ。私は私の正義を遂行しようとしているの。あなたのわがままと一緒にしないで」
「わがまま? 生きたいって思う衝動がわがままだって? ふざけるな」
「あなたが死んだほうが世界のためだと言っているの」
拳に込められた力は強くなっていく。肉体強化が戻り始めたのか。
「世界のためなんじゃなくて、自分のためなんじゃないんですか」
私は玲子の目を見つめて、問いかける。彼女は私の言葉に一層、いら立ちを募らせ、
「黙れ!」
そう叫ぶと、左足を大きく上げ、私の顔を蹴った。女だからって、女の顔を蹴っていいとは限らないだろう。
その時だった。何かしらの反撃をしようと、玲子のほうをもう一度見直した時、ぼろぼろになった玲子の履いていたズボンから一枚の写真が落ちたのである。
木から葉っぱが落ちていくみたいに、ひらひらとゆっくりそれは落ちていく。その写真は保存状態が悪かったのか、ぼろぼろで土をかぶっていて、汚い。私も、玲子も、果てはトールさんまでその写真に気を取られた。
それには人間が二人、写っていた。片方は玲子で間違いない。だが、もう一人は知らない男だ。それから、その写真はどうやら結婚式のときに撮ったものらしく、玲子は純白のウエディングドレスを、男はきれいな紳士服を着ていた。後ろには教会の鐘らしいものが写っていて、二人は一緒にブーケを抱えている。
本当に幸せそうだった。
「…………」
玲子は一拍置いてから、急いでそれを回収しようとする。そして、その様子を見た私は全てを察した。点と点が繋がって、どうして、玲子は私を殺そうとしているのか、そこまでの全てを理解した。
「あの魔王は、あなたの夫だったんですか?」
玲子は私のその言葉にゆっくりと、顔を上げて、私の顔を見ると、一瞬強く目を見開いて、拳を握り、攻撃しようとしてきたが、寸前で思いとどまり、小さく、頷いた。
玲子は自分の夫が、自分の大切な人が目の前で魔王化していくのを見たのだ。私を殺したくなる気持ちもわかる。暴走し、リデビュ島を破滅へと導こうとした夫の姿を見て、二度とそんなことはさせないと思ったか。
違う。八つ当たりだ。
「何のために人は生きるのよ。あんなことになる運命だったら、私は最初から海斗のことなんて好きにならなければよかった。こんなくそみたいな世界に来させられて、どうして、こんな目に合わなくちゃいけないのよ!」
玲子は立ち上がる。ボロボロと涙を流しながら、それでも、私を見つめて。
「あなただけが助かるなんて許さない。私だけが悲しまなくちゃいけないなんて、海斗だけが死ななくちゃいけなかっただなんてそんな理不尽、私は許さない」
「そんな八つ当たりで人の命を奪っていいと思っているのか!」
トールさんが叫ぶ。
「八つ当たりじゃないわ。こいつを殺せば、世界中の人が救われる」
話の辻褄があっていない。
玲子はなんで、『あなただけが助かるなんて許さない』だなんて言葉を発したのか。その答えは簡単にわかる。
私が助かる方法がどこかにあるから。
「玲子――玲子さん。私に話さなくちゃならないことがあるんじゃないんですか」
「…………ないわ。あなたが助かる方法なんて」
私が知りたいと思う情報が何なのか悟ったであろう玲子はそう答えた。
見え透いた嘘だ。
「何を知っているんですか?」
「あなたは死ななくちゃならない。ただそれだけよ」
私は我慢ならなかった。だから
「ちょっ、何するのよ!」
私は玲子を抱きしめた。
私は言語の限界を感じて、それとどこか寂しさを欲しがっているように見えた玲子に人の体温が必要なのだとどこかで感じて突き動かされたのかもしれない。
「離して!」
「離しません」
拒んだ私へ玲子が行ったのは当然のように攻撃。私の背中を赤ちゃんみたいにばんばん叩いて、彼女の力がすさまじい分、それだけ痛い。あとで腫れて残りそうになる勢いだ。
「私の体温、感じますか?」
「何言って……」
「私だって同じ人間ですから」
「死んでも死なないあなたが人間だって? 笑わせないで!」
「だったら、私は何ですか?」
「…………」
「あなたの悲しみは私にはわからないかもしれません。私だって多くを失いました。けれど、あなたの失ったものに比べれば大したことないかもしれません。けれど、私が死ねば、あなたと同じ悲しみを背負う人がいるんです」
「私だけが悲しまなくちゃいけないなんておかしいのよ……」
涙が私の首筋に流れ込んで、服の中へ、入っていく。体の表面をなぞってしたたり落ちた。
「もう海斗は戻ってこないの。私の幸せはもう訪れないの」
「私は海斗さんを知りません。けれど、海斗さんはあなたを愛してたんですよね」
「…………」
「海斗さんはあなたの幸せを望んでいたんでしょ」
「……私の幸せはもう来ないんだって言ってるじゃない!」
「だからって、悲しむ人を増やして良いと思ってるんですか!」
「そんなの……」
玲子は私の背中をたたくのをやめた。それから、私に体重を預け、ぐったりとする。
「私は誰にも悲しんでほしくありません。だから、戦うんです」
私の生きる理由。
死にたくないから。それも、もちろん一つの理由だ。けれど、それだけを理由として挙げるのはいささか抵抗がある。
シュワイヒナに悲しんでほしくないから。私はもう一度、あの子の笑顔を見たい。
だから、帰らなくちゃ。そして、私の役目を――英雄になって、祐樹を討ち果たすという目的を達成しなくてはならない。
だから、死ぬわけにはいかない。
「凛、あなたが生きているせいで大勢死ぬの。わかって。死んで」
「そうならない方法を、あなたが知っているんでしょう?」
「……っ!」
私は彼女を放した。すると、支えられるもののなくなった彼女は地べたに座り込む。
「シュワイヒナ・シュワナ」
玲子はぽつりとつぶやいた。その声をもっとよく聞こうと、私は彼女と視線を合わせながら、彼女の前に座る。
「シュワイヒナはあなたを救うために大賢者のところへ向かっている」
「大賢者、ですか」
「そう。大陸を縦断するドラゴン山脈最高峰竜王山の頂上に住んでいると呼ばれている彼よ。彼ならあなたを救う方法を知っているはず」
「…………」
「きっと、シュワイヒナは成し遂げる。あなたを救い切れる。それが……憎いのよ。海斗は救われなかったのに、あなたは救われるなんてずるい」
「…………」
「世界の行く末は決まっている。神の作り出した物語に沿って世界は滅んでいく。けれど、あなたたちならそれを変えれるかもしれない」
「…………」
「ただの嫉妬。許して。私も大人にはなりきれないの」
そう言って、彼女は仰向けに寝転んだ。
「あーあ。もう殺したくもなくなって。何もすることがなくなっちゃった」
瓦礫の破片を掴んだ。そして、それを自らの首筋に――
「そよ風」
風が吹いて、破片は玲子の手を離れて、どこかへと飛んでいった。
「あなたは死ぬには惜しすぎます。生きてください。そして、幸せになってください」
長い夜が明け始めた。無残に破壊された街が朝日に照らされていく。
「……あら」
玲子はぽつりとつぶやいて、それから、
「少し寝るわ」
静かに目を閉じた。
長い戦闘の後、私の体は限界を迎えたようで、また三日近く眠り続けていた。突如現れた女が敵兵を倒し、戦争が終わったという事実はそれを見ていなかったものには全く受け入れられなかったようで、伝説として語られている。全ての兵を失ったヴァルキリアは兵の派遣をやめ、戦争は完全に終結した。
「ということで、あなたの知っていること全て話しなさい」
「えー」
「私」に尋ねると、いかにも嫌そうに口を尖らせた。
シュワイヒナは当てがあって、大賢者のところへ向かっているのだろう。彼女は私のことを世界で一番大事にしてくれていると私は信じているからこそ、分かる。つまり、私が救われる方法――魔王化が起こらなくなる方法が存在しているはずなのだ。
神は何がしたいのか。
「あなたは救われない。全ては世界の理として決まっている。因果関係は逆転している。あなたが魔王になるという結果があって、それに至るまでの過程が作られているんだよ」
「ありえない。それとも、因果の理を逆転させる固有スキルが存在しているっていうの?」
「そうなるように神が世界を作ったんだよ。それがあなたの運命」
「運命なんて私がぶっ壊してやる」
「……そうだね」
「私」は少しだけほほ笑むと、消滅した。
きっとどこかになんとかなる未来がある。私は玲子に殺されればよかったなんてことが絶対にないようにしなくちゃいけない。
さらに一週間後。
「それじゃ。行ってきます」
「……死ぬなよ。リク」
私はレベリア首都リバルへと旅立つことを決めた。と言っても、最大の目的は修行。圧倒的に強いと言われる魔獣たちを相手にして、自らを鍛える。どうせ死なないんだし、怖くない。今はただ強くならなくちゃいけない。全部守れるほど、そして、シュワイヒナに全てを背負わせないためにも。
「もちろんです」
固有スキルの解放。それから、「私」を受け入れること。これが魔王化の条件だった。
本当にそれで合っているのか?
ありとあらゆる情報が溢れかえって、何が真実なのか何が嘘なのかはわからない。「私」の存在さえも、信じられないのだ。
けれど、私は私自身くらい信じられるようになりたい。そのための強さでもある。力は何よりも信じられるだろう。
私の目的は英雄になることなのだ。それだけはブレずに心の芯に持ち続けていきたい。
荷物は、少ない。必要最小限。リバルへと向かいながら少しずつ補充していこうという考えだ。飢えは辛いし、直面しそうだけれど、それの対応策も含めて強さなんじゃないかな。
門が開いた。仲良くなった馬にも名前を付けてあげた。
未来。それがこいつの名前だ。女の子だから、未来ちゃんかな。
「行こう」
三千キロという気の遠くなるような行程。日本縦断ほどのとんでもない距離だ。どれだけ時間がかかるかわからない。
けれど、きっとこの先には未来が広がっているから。
甲高く鳴いた馬に乗り、私たちは駆け始めた。




