第三話 狂人
木はミチルの目の前で止まっていた。
「あっ……」
ミチルは死を覚悟していたのだろう。
私に人の命を奪う気なんて全くないのだから、それを知っていたらそれは余計なことだと思う。けれど、今はそんなこと関係ない。
それよりも、もっと大事なことは、ミチルのその時の表情だった。
安堵の後の失望。
その顔は恐怖に歪んだものでもなく、憎悪に縛り付けられているわけでもなく、ただただまるで自分の願いが叶わなかったときのように見えた。
猛烈な違和感が私を襲った。だって、今まで戦っていたミチルは私たちを殺すために生気に満ち溢れていたのだ。それなのに、今の表情はまるで敗北を悟った途端に、全てを諦めて、死を受け止め、さらにはそれを救済だと思っているみたいだ。
ああ、そうだ。最初から、ミチルにはどこか疲弊したかのような印象を受けていた。それは戦争から帰ってきたという事実に付随してできた当たり前のことのように思えたが、その疲れは肉体面だけでなく、精神面に大きく影響を及ぼしていたのだ。
――どうせ死ぬんだから、いつ殺しても変わらねえよ!
ミチルは初め、そう言っていた。それは果たして、彼が生まれ持った思想なのか。
違う。
それは、戦争でねじ曲がってしまった思想なのだ。
ミチルは加害者だ。それは間違いない。けれど、同時に被害者でもある。
だから、私は死んでほしくない。人の未来を奪いたくはない。
「ミチルさん」
私は彼の元へ歩き始めた。ミチルは私をじっと睨みつけると、
「お前も、俺に死んでほしいんだろ」
そうまるでため息でもつくかのような声で言う。そして、その言葉は私の心を刃物みたいに刺した。
「私はあなたに生きてほしいと思っています」
しっかり目を見据えて、心の奥底から湧き出た本音を言った。本音だから、通じてほしいと思ったが、依然ミチルの表情は悲しみに溢れていて、
「嘘をつくなよ! てめえの髪も、俺がいなければ切れなかったんだ! そうだろう!」
「そんな理由で死んでほしいだなんて思いません」
「俺はもう何人も殺しちまったんだ! 何人も、何人も、何人も! その気持ちがお前にわかるか! 俺一人とどめを刺せれないお前にわかるか!」
「わかりますよ! 勝手にわからない風に言うな!」
ついついイラっとして大声を上げてしまう。大いに反省すべきことだとは思うが、
「……お前は俺に何を求めているんだ?」
そう言われてハッとした。
なんで、死んでほしくないのか。
周りを見渡した。死体がいくつも転がり、村人たちは私たちに複雑な視線を送っている。
私たちを恐怖に陥れたミチルに早く死んでほしいという目だった。どうして、あの女は早くミチルを殺さないのか。そんな目だった。
「……なんで」
わからない。私にはどうして村の人たちがミチルに死んでほしいと思っているのかすぐには理解できなかった。
あなたたちが帰りを待っていた人なのに。あなたたちが生きていてほしいと願っていた人なのに。
それだけの恐怖体験。
長い間村にいなかった人が生きて帰ってきたという喜びよりも、長い間村にいた人たちを奪われたという苦しみのほうが大きかった。それだけの話だ。
ミチルに生きていてほしいというのはただの私のエゴなのだろうか。本当は私が目の前で命が失われるところを見たくないからなんじゃないんだろうか。
私にとっての命は平等だった。ミチルの命も、殺された村の人たちの命もみんな、平等だった。
本当に命は平等なのか? 人を殺した時点で命の公平さは失われるのか?
「いいだろう。もう」
ミチルはほとんど泣き出しそうな顔をして訴えかける。早く、死をもって救ってほしいとでも言うかのように。
「戦場で、何があったんですか?」
人間を変えてしまったその場所で、何があったのか。
「話したくない」
ミチルはそう言って、短いナイフを取り出した。
「待――」
私が手を伸ばしたその時、目の前が赤く染め上げられた。白い雪が降りしきる一面の銀世界で赤は輝いて見える。その瞬間は、輝いてはいけないのに。後悔すべき瞬間なのに。
「なんで」
違う。後悔していたのはこの場で私だけだった。
「ありがとう。強いんだね」
モイメさんが話しかけてきた。
「……強くない」
モイメさんの顔を見ずに答えて、剣を鞘にしまう。
「命を守れなかった。私が悪い」
ないものづくしの私にできることなんてなかった。話せば生きてくれると思っていた私のほうが馬鹿だったんだ。
「これからどうするの?」
「佐倉凛」
「えっ?」
「それが私の名前。それ以上には何も教えられない」
やることは決めていた。
ミチルを死に追い込んだ戦場に言って戦争を止める。
「ああそうだ」
この世にはまだやり残したことがあった。
「ねえ、モイメさん」
「…………」
「シュワイヒナ・シュワナって人に会ったら言ってくれない? 佐倉凛は死んだって」
「は?」
「お願いします」
頭を下げた。すると、モイメさんは私の体を抱きとめて、
「やめてよ。死ぬみたいじゃん」
良い匂いがした。心地よい暖かさがした。生きている人間だ。
じゃあなんで。
口から出かかった言葉を止める。言ってはいけないという根拠のない確信がそこにはあった。
「離して」
あなたたちは生きているのを待ち望んでいたはずのミチルに死んでほしいと思った。その裏に何があるかも考えずに。どんな苦しい思いを戦場でしたのか考えもせずに。
――私も同じだった。
ふと頭を貫くかのように言葉が生まれる。
私は祐樹の心の中で何があったかもわからずに死んでほしいと思った。仲間を殺されて、それで、それだけで私は祐樹を殺したいと思ってしまった。
それだけで。
それだけってなんなんだ。仲間の大切な命は。
「離せないよ」
モイメさんは優しく言う。
そんなに優しい人なのに、ミチルに死んでほしいと思っていたじゃないか。
「泣いてるじゃん」
知らない。そんなの知らない。
「離して」
「落ち着いて」
命ってなんなんだ。
英雄とは、人を殺すことなのか?
「離してって言ってるじゃん!」
無理矢理モイメさんの手を振り払った。
シュワイヒナならこういうときどうするだろうか。
ああ、彼女ならミチルを有無も言わさず殺すんだろうな。そう言えば、そうだった。シュワイヒナに葛藤はない。自分の信じることをして、自分の愛するものを救う。そう言う人間だった。まっすぐで、それは一種の狂気でもある。私はそこに惹かれて、同時に
「怖い」
そう思ってしまった。私という人格の中にシュワイヒナ・シュワナは平然と入り込んで私の全てを奪っていく。心も、体も何もかも。
彼女は、私を――
「あ……」
私はヒロインじゃなかった。私は主人公の陰に隠れて生きているだけじゃダメだった。私は自分の全てをシュワイヒナに捧げてしまった。それゆえに私はシュワイヒナがいなくなっただけで簡単に信念がぶれてしまう。いや、最初から私に信念なんてなかったのかもしれない。
ただただ、私は目の前で命が消えてしまうところを見たくなかった。ただただ、私は死にたくなかった。ただただ、仲間を殺した祐樹を憎んでいた。ただただ、私はシュワイヒナの注いでくれる愛という麻薬に溺れていたかった。
傲慢で自己中心的なクズ。
それが私だった。
「なんで泣いてるの?」
モイメさんは私の顔を見ようとしてくる。見せるわけにはいかない。今の、私は醜い。おそらくこの世に存在する何よりも。
「何が、怖いの」
思わず口にした私の感情を拾い上げて、モイメさんは尋ねる。
答えられない。
同時に隠していた思いが、外に出してはいけない思いが溢れだす。
私はシュワイヒナが怖い。けれど、それ以上に私はシュワイヒナに依存していた。私の全てはシュワイヒナによって決定づけられ、私と彼女は運命共同体として生きていく。
早く、早くシュワイヒナの愛情に戻りたかった。彼女の与えてくれる身もよじるような快楽の中に全てを忘れて浸っていたい。
シュワイヒナのところに帰らなきゃ。
でも、今シュワイヒナはどこにいるんだ? 聞かなきゃ。リデビュ島に戻って葦塚桜に聞かなくてはならない。もうリデビュなんて忘れよう。忘れてしまえばいい。シュワイヒナのところに桜さんのワープで送ってもらって、山奥に二人でひっそりと暮らすんだ。無限の愛に包まれて……。
「佐倉凛って名乗ったよね。ねえ、何があったの。何をそんなに恐れてるの」
「触らないで!」
行かなきゃ。早く、早く会いたい。彼女と一緒なら私は何も考えなくて済む。私の双肩にのしかかる重荷も忘れられる。
――英雄になれ。
「うるさい!」
「凛さん!」
「シュワイヒナ?」
目の前にシュワイヒナがいる。小柄で美しい銀髪を風になびかせていた。その姿は一面の銀世界にあまりに似合っている。むしろこの雪は彼女のために存在するのかもしれないと思うほどだ。
「シュワイヒナ……シュワイヒナ」
「私は、シュワイヒナじゃない!」
「愛して。狂うくらい愛して。お願い。ねえ、愛して」
「待って!」
「やめてよ。私、私、シュワイヒナのためにいるのに。ねえ、お願い」
「現実を見て!」
「わからないよ。ねえ、シュワイヒナなんでしょ。ほら、いつもしてるみたいにキスして。ねえ、舌絡ませて。お願い」
「やめろ!」
背中に重い衝撃を感じ、次の瞬間には私の意識は深い暗闇の中に落ちていた。
「おはよう」
「…………」
「落ち着いた?」
黙ってうなずく。
木の下だった。融けた雪が下半身に当たって、なおのこと寒く感じる。
「ごめん。あなたがいなきゃ私たちは死んでた。だからって重い役割を任せちゃって」
「…………」
「シュワイヒナって子、恋人なのね。もしかして女の子?」
「……性別は関係ないでしょ」
「まあそんだけイケメンだったら惚れる女の子もいるかもだけど。いや、まあいいや。ねえ、何があったの?」
「…………」
「だんまり。話せば楽になれるかもしれないよ」
「……聞いても、私のこと、死んでほしいって思わない?」
「そんな……思うわけないじゃん」
「ありがとう」
確かに話せば楽になれる気がする。その先に何か具体的な解決策が生まれる気はしないし、言って欲しくはないけれども。
「私はリデビュ島から来た」
「……どこ?」
「海の向こうに浮かぶ島だよ。そこで私たちは戦争をして、負けた。私は英雄になれって言われてここにやってきた」
「ん? なんで英雄って?」
「私は神に選ばれた人間だから。私のために大勢死んだ。一度死んだ私を生き返らせるためにシュワイヒナは大勢殺した。私は何百人という人間の命の上に立ってる」
「…………」
今度はモイメさんがだんまりする番だ。何も言えなくて困っている。その表情から私のことを心配しているようであるのはすぐにわかるが、あくまで狂っている人間に対する心配の表情だった。
私は、狂っているのか?
「そんだけ強いものね、うん。きっと何かあったんでしょ。大丈夫、私は味方になるから」
「……そう」
こんなやり取り無駄だ。時間の浪費に過ぎない。楽になるなんてことはなかったし、ますます私を異常だと思うモイメさんの心を育てている。
モイメさんがリデビュ島を知らないのならば、当然そこへ行く方法も知らないだろう。
使えない。
「…………え」
「どうしたの?」
「いや……」
今、私は何を考えた? 目の前の人間に勝手に価値をつけたのか?
私は、そんな人間だったか?
やっぱり、クズなんだ。
「ねえ、凛ちゃん」
「……なんですか?」
「私たちはあなたに救われたの。それだけは忘れないで」
微笑んで彼女はそう言う。哀れなものを見る時の目だ。
「さっきのお願い変えてもいいですか」
「いいよ」
「シュワイヒナに会ったら、佐倉凛に救われたって言ってください」
「え?」
「お願いします」
剣を持って立ち上がる。私はこの剣を取ったとき、人を守るためにこれを使うと誓った。せめて、自分への約束だけは果たしたい。
私みたいなどうしようもない人間でも、変われると思いたい。
英雄になるつもりはない。確かな信念のある人間になるつもりもない。シュワイヒナ・シュワナという人間から離れるつもりもない。
もう私なんてどうでもいいから、欲望に従って生きる――いや、死のうか。




