第三十八話 天使
「お前ら、本当に行くんだな」
男の声。戻ってくる場所は変わっていませんでした。
「はい」
「気をつけろよ。危ないと思ったら降りてくるんだぞ。命よりも大事なものなんてないんだからな」
「わかっていますよ」
この体に宿る命を雑に扱おうだなんて気はさらさらありません。
「ご心配ありがとうございます。私たちは死にませんので」
「シュワイヒナさん……、闇の紋様が消えてます。何があったんですか?」
「ちょっとね」
「もうあの力使わないんですか」
「うん」
そう答えるとテールイは嬉しそうにほほ笑みました。珍しく尻尾が大きく揺れています。特に大きく態度に出て喜ぶというわけでもありませんでしたが、感情の大きさはその尻尾だけで十分にわかります。
そして、一緒に登ってきた人たちを見送り、
「行くかの」
大賢者が現れました。虚空から現れた老人にテールイもモイメさんも言葉を失い、唖然としています。
「二人とも、行きますよ。頂上に」
「えっ……これから、登るわけじゃ?」
モイメさんが尋ねます。
「いいえ。もうその必要はないんですよ」
「そもそも、この山は人間に登れるものではない。わしが対象を選別して、連れていくのじゃ」
「じゃあ、シュワイヒナさんが対象に選ばれたってことですか?」
「そうじゃ」
「それで紋様が……」
「まあそんな感じだと思ってもらえればいいけど」
「じゃあ、行こうかの。思い出の中に私はある、ワープ」
視界がぐにゃりと歪み、胃の中に入っていたものが逆流してきそうでした。確かに、葦塚桜さんの使っていた能力です。そして、時を戻す力。あれはおそらく闇覚醒した天上翔真さんの能力そのものです。
つまり、大賢者の能力、インフィニティメモリーはおそらく他者の固有スキルを使うという能力でしょう。最強の固有スキル、そう表現されたのも納得がいきます。
景色は正常なものへと元通り――と言いたいところですが、違いました。
「奇麗……」
モイメさんは空を見て、そう呟きました。そのことにもとても納得がいきます。
雲の上でした。太陽が溢れんばかりの輝きを放ち、その存在感をたくましく主張していきます。気温はとても低いものと思われますが、特殊な空間になっているようで、寒いとすら思いません。
頂上はちょっとした平地になっており、広さはおよそ五十×五十の二千五百平方メートルほど。広いということはできませんが、人が住むには十分、と思いきや、ほとんど背景に同化して、白いドラゴンが横たわっていました。
あまりにも巨大。そして、先ほどまで私たちはその存在に気付かなかったというのにその巨体の放つオーラはすさまじく、大賢者の放っていたそれと酷似していました。モイメさんなんてその恐怖にやられ、その場に尻もちをついてしまっています。
テールイはというと、その姿を見て、少しだけ口角が上がっていました。しかも、その数秒後にはもう表情は戻っていますから、ついにはその原因はわかりません。
それから、この平地は垂直な崖の上に存在していて、普通の人間には登れないというのがよくわかります。
「さて、話しをするかの。まず、シュワイヒナ・シュワナ。おぬしが正しい道へと進んだおかげで、この世界に可能性が生まれた。本来なら、転移者どもに力を託そうと思っていたが、使いこなせるかどうかはわからないからの。『天使』の力を扱える人間は『悪魔』の力を扱える人間だけなのじゃ」
「天使と悪魔は表裏一体ってことですか?」
「そもそも、悪魔がいて、天使がいないなどということはあり得んじゃろ。さて、その『天使』の力じゃが、佐倉凛が魔王化を果たせば、彼女に固有スキルは効かぬ。ゆえにネルべ・セイアリアスの能力『エレキショック』を用いて、記憶を削除して闇覚醒を解くなどということはできぬ。つまり、普通は彼女を止めることなど不可能じゃ。したがって、わしらはそれに代わる力が必要になる。それが『天使』の力なのじゃよ」
「天使の力……」
「わしが作った力じゃが、それ相応の人間にしか渡せぬし、なにしろトップシークレットの力じゃからそれも納得がいくというものじゃろう。さて、これからおぬしにはその時が来れば天使の力が発現するようになるのじゃが、とても大事なことが一つある。心して聴くがよい」
大賢者は常に笑っていたかのように思われましたが、その時、彼の表情はまっすぐとした真剣なまなざしへと変貌しました。
「天使の力は悪魔と表裏一体。つまり、悪魔の力を消すには天使の力を消す必要もある。すなわち、その力は一回のみしか使えぬ」
「……」
「仮におぬしが闇覚醒を起こして苦しんでいる人間を見かけたとしても、そやつを救う方法は殺すほかにない。その力は佐倉凛のためにあるのじゃから」
昔の私なら凛さんのための力というだけで気分が高揚して、そのような力でも受け入れていたはずですが、今は違いました。
どんなに苦しんでいる人を見ても助ける力があるというのに助けることはできない。
それがどんなにつらく苦しいことかは想像に難くありません。
私は悪魔たる自分が人を傷つけることは当然なんだと解釈して、たくさんの人を殺しました。
もちろん、あの世界線から切り替わったこちらの世界で人を助けることがそのことの贖罪になるとは思っていません。失われた命はもう二度と元には戻りませんから。そして、その大前提すらも崩してしまった力も今は私の元にはありません。
それでも、私は人を助けなければなりません。なぜなら、それが力あるものの使命だからです。天から与えられた悪魔の力を操る才能も、マジックポイントを自由自在に扱う才能も、私個人のためではなく、人を助けるための才能なのです。
だから、この手から一つの命も取りこぼしたくない。
黙りこくってしまった私に大賢者は刺すように続けます。
「ただの人間一人を救うよりも、世界を救うほうが良い。そんなことわかっているじゃろう」
凛さんなら間違いなくこう言うでしょう。
私を救うくらいなら、他の人を救え。
けれど、
「わかっています。絶対にこの力は凛さんのために使います」
そう言うことが、私にとっての覚悟でした。
「お話は終わりですか?」
モイメさんの言葉はどこかに冷たさがありました。そして、彼女の目にはぎらぎらと燃え上がる何かがあります。
「何する気ですか?」
テールイはモイメさんの前に立ちはだかり、言います。
「何する気って……なんだと思うの?」
「言っときますけど、ゼロ距離でも私はあなたを止められます。あなたが考えているようにうまくは行きませんよ」
「……あ、そう」
剣を抜き、モイメさんは構えました。
「本当にできるか確かめてみる? 斬るよ」
「本能覚醒」
二人がぶつかる。止めなければいけない。と、大賢者が口を開きました。
「人間というのはその人生に意味を見出そうとする。わしとてその例外じゃないからの、わしもこの人生に意味があることを祈るばかりなのじゃが、そうじゃ、わしは死ぬことがわしの人生に与えられた使命なのじゃった。忘れておったよ、わしが死なねば全ては始まらぬ。モイメと名乗る少女よ。おぬしに与えられた人生の意味はそこにあるのじゃろうな。そして、おぬしに与えられた使命は大きい」
「何を言い出して……」
「わかっているんですね。私はあなたを殺す。あなたがいなければ、私の両親はどこかに行ってしまったりしなかった。あなたがいなければ、私は不幸にならずに済んだ!」
モイメさんははっきりと言い切りました。
狂っている。そう言わざるをえません。そんなのただの逆恨みじゃないですか。しかも、たったそれだけのことではるばるここまでやってきたというのですか。
私には全くわからぬ感情に突き動かされて、モイメさんは剣を握っていたのです。
「大賢者様は殺させません。あなたに人の命を奪わせません」
テールイは依然としてモイメさんの前に立ちはだかっていました。人を守るために。
「あ、そう。なら、あなたを殺して、そっちに行くわ」
本当にやる気でした。止めなきゃ。
その時でした。
「シュワイヒナ・シュワナ! 一年半後の七月二日、リンバルト王国にて佐倉凛は魔王化する!」
「は……?」
突如として放たれた大賢者の言葉に驚き、思わず私はモイメさんとテールイから目を話してしまいました。
その瞬間、二人はぶつかりました。力量差は残酷なまでにはっきりしており、前に伸ばされたモイメさんの腕は既にテールイの手によって掴まれ、固定され、動かなくなっていました。
「だから、無理ですよ。一センチメートルたりとも私はあなたを進ませません」
「なら、一センチメートルたりとも進まなければいいんじゃない」
モイメさんは笑って言いました。
誰も気づいていませんでした。しかし、モイメさんのその一言と、生ぬるい液体がかかった感触により全てを理解しました。
「う……そ」
モイメさんの手には何も握られていませんでした。すなわち、最初からテールイのことを倒そうだなんておもってはおらず、さらには大賢者が防御の姿勢をとるなどという考えがなかったのです。
剣は大賢者の喉に深く突き刺さっていました。モイメさんはテールイに手を掴まれた瞬間、風魔法を無詠唱で使用し、剣を吹き飛ばしていたのです。
大賢者はそのすべてが読めていただろうに。
即死していました。この辺りを覆っていた特殊な空間は消え、冷気が急速に入ってきます。その影響で大賢者の喉から噴き出していた血が凍り、不思議な光景を生み出していました。
圧倒的寒さよりも、一瞬であの大賢者が死んでしまったという状況が飲み込めず、頭が真っ白になって、何かを喋ることも考えることもできませんでした。
轟音。
その正体はドラゴンでした。ドラゴンがまるでその死を悲しむかのように、また何か恐ろしいことが起こってしまう前兆を感じているかのように鳴きました。
ドサッという音が聞こえ、見るとテールイが力が抜けてモイメさんの手を離したようで、モイメさんはそのまま支えを失い、その場に倒れています。そして、
「ハハ、ハハッ、ハハ、ハハハ!」
高く、狂ったように笑いました。風が吹き、モイメさんの体に雪が降りかかりました。それでも、モイメさんはずっとずっと笑っていました。
ドラゴンが動き始めます。そして、私たちのすぐ傍へと来ると、
「ぐるあああーーーー!」
長い、長い咆哮の後、モイメさんのいる場所へと首を突っ込みました。
ぐしゃり、ぐしゃりと肉の千切れる音、頭蓋骨の砕ける音が聞こえ、思わず耳を塞ぎたくなります。
「シュワイヒナさん!」
動けなくなっていた私の傍でテールイが叫んだかと思うと、
「降りますよ!」
そう言って、彼女は私の腕をつかみ、走り始めました。そして、二つの死体から目を背け、底の見えない闇の中へと飛び出します。次の瞬間には冷え切った体に熱くおかしくなってしまいそうなほどの激痛が走り、どんどん加速していく視界の中でついに私は意識を手放してしまいました。
激しい混乱。自分の見た景色が信じられません。モイメさんが突然大賢者を殺そうとし、さらには大賢者すらも意味の分からないことを言った挙句、抵抗もせずに死んでしまいました。そんなこと、簡単に起こって言い訳がありません。
目の前で命を二つ失ってしまったという結果よりも、なんでそうなってしまったのかという原因のほうが理解不能で、悲しみよりも動揺のほうが強く起こっていました。
人が死ぬところなんて見たくありません。ましてや誰かが誰かを殺すところなんて見たくありません。
しかし、今の私に残された力は凛さんを救うための「天使」の力のみ。
あまりに無力。
それでも、私はもうあの頃には戻りたくありません。
だからこそ、私は手の届く範囲でもいいから、人を救い続けたい。
「シュワイヒナさん! シュワイヒナさん!」
少女の声。私を大切に思ってくれる人の声。
「テールイ」
「もう……死んじゃったかと思いましたよ……」
私の体をぎゅっと抱きしめて、テールイは泣きました。小さな体でした。
「……モイメさんも、大賢者も……」
「シュワイヒナさん、大丈夫です。大丈夫ですから。私が悪いんです。私が止められなかったから」
「そんなの……」
「いいえ。そうなんです」
自分のせいにして、私の負担を減らそうとしてくれるテールイ。
テールイはずっと、ずっと優しい人でした。それを見ていなかったのは私でした。
「だから、もう次は失わせません。命は二度とは帰りませんから、だから、だから、私がこの力で全部救います」
本能覚醒。
その力がどんなものなのかすら私は知りません。テールイはそれを使うことで苦しんでいてもきっと言わないでしょう。
こんな人が、私と一緒にいてくれるなんてどれだけ私は幸運なんでしょうか。
「全部テールイが背負い込まなくてもいいから。私も戦うから」
「でも、もうあの力は……」
「大丈夫、もうあの力は絶対に使わない」
いつしかついた嘘の約束。
今度こそは本当だと固く誓えます。




