異世界!!
「じ……じごく?」
僕はゴクリと唾をのみ、思わず反芻する。
「違うわわたけ! 仁国だ! 」
「ああ、そういう国の名前なのね。」
訂正されて僕はようやく理解した。僕の中のここが地獄だという固定概念が強すぎてそう聞こえてしまったみたいだ。
「まったく……。ぬしの命はわたしに救われたというのにな。」
それからハヤテはこの世界について僕に様々なことを教えてくれた。
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①この仁国は3つの陸地によって国土が形成されているということ。
②海の向こうにはバンバンジー? (ハヤテが舌足らずなためによく聞こえなかった)が統治する国があるということ。
③仁国の統治者はショーグンと呼ばれていること。
④仁国にはヒト種や鬼種以外にもヨーカイの血筋を引くものが数多暮らしているとのこと。
⑤その多くは友好的で表立って種族間の争いなどはないこと。
⑥電気やガス、鉄道といった近代化はなされていないということ。
⑦この世界の人間(人外も含む)は、僕の世界と同様、赤子として生まれて、そして死にゆくこと。
⑧ハヤテは小園と呼ばれる小領土の主であり、幼い身でありながら両親に先立たれたためにノノのサポートのもと職務を全うしていること。
⑨ハヤテ、ノノ、赤鬼の知見では、僕のように別世界から来た者を他には知らないということ。
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結果的に、ハヤテの話から導き出される今必要な結論というのは、僕は穴を通じて仁国という異世界国家に飛ばされてしまったということだ。
また、僕の身体的な機能は今まで相違なく、元の世界と同様に怪我をすれば痛いし、致命的な病気になれば死ぬということ。
とりわけ、江戸時代の日本と変わらない文明度であろう仁国に抗菌薬などあるはずもなく、重篤な感染症の罹患は即ち死に直結することが容易に推察される。
まじで気を付けよう……、僕が一人で戦々恐々しているところ、不意にノノが口を開いた。
「ところで、総一郎殿に帰るあてもなく困ってらっしゃるのは理解しているのですが、ただ飯食らいをずっとここに置いておくわけにはいきませんよ。」
穏やかな口調で言っているものの目が笑っていない。こわい。
これにはハヤテも伏し目がちに苦笑して言った。
「さっきも言ったように、父上と母上に先立たれてからノノと二人でやってきていてな。恥ずかしい話、楽な生活ではなくての……。」
そういえば、他の部屋に張られた障子にも、穴を塞いだような痕があったり、先ほどノノが用意してくれた食事も比較的質素なものだった。
「ああ、なんておいたわしい……。オラたち民がハヤテ様を支えねばならねぇども、おかしくなった仲間たちは消えてゆくし、ついにオラも気づいたらハヤテ様にご迷惑おかけしてるし、本当に申し訳ねぇだ。」
赤鬼は目に涙を浮かべ、こぶしを握り締めている。どうやらおかしくなったのは赤鬼だけではなく、その仲間や家族にまで及ぶらしい。
「……ん。案ずるな赤鬼。これはわたしが先代に及ばぬゆえのこと。領主たるもの民の安寧を保てず、何が主か。迷惑をかけたな。」
「もったいないお言葉でございます。」
赤鬼は頭を垂れる。
弱音を吐きかけた儚げな少女の表情から一転、ハヤテの表情は鋭い眼光を携えた領主のものとなっていた。そして、「ん~~。」と大きく伸びをして立ち上がると僕に向かってこう言った。
「というわけでな総一郎。ぬしをここに置くのは、領主たるわたしの勤めでもあるのだが、ぬしに何かできることはないのか?」
「できること……ねぇ。」
僕は思案する。基本的に怠惰な学生生活を送ってきた僕にできることなど多いはずもなく。それでも僕ができることというと、ギリギリ単位を落とさない程度の医学知識と、塾講師のバイト経験で磨いた子供とのコミュ力(謎)、それと趣味の魚釣りといったアウトドアくらいだ。
「うーん、ちょっと考えさせて。ただできるだけ迷惑にはならないようにはするから。ごめんな。」
「ま、時間はいくらでもあるからの。仮にでも領主が傍に置くのだ。良い働きを期待するぞ。」
「当たりまえです……。」
ノノが不満そうに膨れ顔をしている。
「ハヤテ様の楽しそうなお姿、久々ですね……。」
そして、蚊の鳴くような小さい声で呟くのが聞こえた。
「さ、今日はもう遅いからの。ノノも総一郎も赤鬼も慣れないことが続いて疲れたろうに。今日は休んでまた明日よの。」
障子の外は月明かりが差して薄暗くなっている。リンリンと鈴虫鳴く声がした。
「ああ、僕も正直かなり疲れたよ。何をしたというわけじゃないんだけどさ。」
「そうだ総一郎、明日はお前の住んでいた世界の話を聞かせておくれ! わたしのまつりごとの参考になるやもしれないからな、フハハ。」
ハヤテはえらく快活に独り言を言いつつ館の奥に消えていった。
その後赤鬼は、自分の集落のところに帰された。彼曰く、ハヤテとノノが考えている以上に鬼の集落での失踪者数は増えているとのことで、今後は彼が屋敷に定例報告をするという約束になった。
僕の方は「ここを使ってください。あといるだけでも汚いのにこれ以上穢したらシバきますからね。」
というノノの呪詛とともに寝室に案内された。
「何か、考えておかなくちゃな。」
布団にもぐり思案する。
「どうなってしまうのやら。」
あれやこれやと思い浮かべるうち、僕の意識は鈴虫の音色に溶け、そのまま消えていった。
◇
「痛い……。」
森で打った頭の傷が寝返りするたびに響く。枕には微かな血の跡がこびりついていた。
「うっ……ひぐっ……。」
暗闇に少女の隠しきれない嗚咽が響く。本当は怖かったし、苦しかった。息もできなかった。
今も息をするだけで左の肋骨がじんじんと痛む。
「ととさま……かかさま……。」
狂った鬼と対峙しようとするヒト種なんて普通いない。熟練の侍ならいざ知らず、少女であってはなおさらのこと。これはこの世界で当たり前のことだった。
「……こわいよお。」
「助けて……。」
少女の涙は板戸の隙間から漏れた満月の光で煌めいて、誰にも気づかれないその嗚咽は、虫の音色にかき消されていった。
【コラム】「抗菌薬とその歴史」
いわゆる現代でいう抗菌薬が初めて実用化されたのは、1943年、第二次世界大戦の頃でした。この時、開発されたペニシリンGは大戦で負傷した兵士の感染に対して絶大な威力を発揮しました。現在では、多くの種類の抗菌薬が開発され様々な菌種に対して効果的な抗菌薬を選択して治療を行っています。
当然ですが江戸時代の日本には抗菌薬はありませんでしたから、細菌感染が重症化した敗血症(感染に対して宿主生体反応の統御不全により臓器機能不全を呈している状態)にいかに無力であったかは容易に想像できます。
ちなみに抗菌薬は、細菌にしか効果がありません。いわゆる、「風邪」はウイルスの感染症なので抗菌薬に直接的な効果はないと言われています。ウイルスと細菌は全くの別物だと覚えておくと良いでしょう。