八話
裏手の井戸で水をくんだ。
初めてだ。初めて、日課を破った。
その後は、ずっと部屋に篭って、ぼうっとしていた。
途中、ヴァルが話しかけてきた。
心配してくれているようだったが、私は、それになんと返せば良いかわからなかった。
彼は、やがて部屋から出ていった。
(…熊を殺したこと…恐らく、恨まれていること…あの熊が魔物であること…先生に話さなくちゃならないんだろうけど…)
嫌だ。それを報告するのも面倒だし、私になんの関わりがあるというのだろう。
(もう…死んでもいいなぁ…)
生まれて初めて、心からそう思った。
(誰か。誰か、居ないの?)
疲れている。何もしたくない。
なんの気なしに、椅子に腰掛ける。
引き出しを開けた。
意味は無い。ただ、手を動かしていないと消えてしまいそうで、それでも何もしたくなかったから。
引き出しは、長い間開かれていなかったのか歪な音を立てて空いた。
(…本?)
中には一冊の本のようなものが入っている。
(酷い汚れだ…)
埃と染みで汚れたそれは、しかし、本であることは確からしく思われた。
タイトルは―掠れていて、読めない。
(…なんだ、これは…)
気がつけば手に取っていた。
埃が舞うことは想定していた。
多少、汚れるのも構わなかった。
…それだけの、不思議な魅力が、この本にはあった。
ページをめくる。
―意外にも、中は綺麗なままで、ページの破れも見当たらない。
それは小説、というよりは手続き書、説明書に近いものであった。
しかし―
(なんだ、この文字は?)
奇怪なことに、見たこともないような字体で書かれている。
この世界の文字は、日本語だ。
(これも奇怪と言えば奇怪であるのだが―しかし、言葉が通じる時点である程度わかっていたことでもある)
少なくとも、彼―この家の主のことである―の持つ莫大な蔵書は、その殆どが日本語で書かれている。
最早、それは言語の塊ではないように見える。強いて言うなら―暗号文?
…さらに。
さらに奇怪なことには、私はその本を理解することが出来た、ということだ。
(…「虚ろに身を攀じる者。愛に飢えた、我らが最後の子供にこの闇魔術を捧げる」)
(「こちらにおいて、力とは即ち正義であり、徳である。力なきものは大義を持たない」)
「………………、…」
(…「闇魔術とは、無を表す。
光魔術とは、有を表す。
創造神は最初に言った、「光あれ」と」)
…闇魔術。そして、光は禁断とされている。
…ここで読むのをやめるのが正しいのだろう。
しかし、私は、ページをめくる手を止められない。止まらない。
(…「強大が故にである。
闇は世界を死で覆う。光は世界から死を消し去る。起点は異なれど、行き着く先はどちらも滅びだ」)
(「…それでも。それでも、私は君にこの魔術を捧げよう。あの少年の祈りが、無為とならないように」)
前書きはここまでのようだ。
下段に、名前と日付が書いてある…のだろう。
そこだけは、読むことが出来なかった。
「………あぁ…」
愛に飢える。虚ろ。
その通りだ。
決してそんなことはないはずなのに、ありえないはずなのに、この古本は「まるで私のために書かれているかのよう」なのだ。
(…都合の良い妄想はやめろよ、おれ。結局、お前は主人公にはなれない。わかっているだろう?)
多少、魔術を扱うことは出来る。
しかし、それも凡才の域を出ない。
私は、いつだって平凡なひとりにすぎない。
今送っている日々は、無為なのだ。
何も生み出していない。
ただ、水をくんで、本を読んで寝るだけ。生きていないのとそう変わりない。
(…でも)
(…もし、この力があったなら…)
それは悪しい考えである。
禁ぜられたには、それだけの理由があるはずだ。
それに―この本は、特定の「誰か」に向けて書かれたものだ。
そして、その誰かは、私のことではない。
(でもさ?)
(…ちょっとくらいなら…)
いいんじゃないかな。
いいでしょ。
減るもんでもないし。
そう思ってページを捲った。
「イクリプス」
その文字が見えた刹那―
「い、た、」
(痛い…痛い…痛い…痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い!痛い!?)
凄まじい勢いで流れ込んでくる情報の量。それは、私の頭を犯した。
経験したこともないような痛みに―
私は、意識を手放した。