第七話
「――――」
乾きで目が覚めた。喉の乾きである。
(…また…来てしまったか…)
窓の外に目をやる。暗い。とても、暗い。
確信を持って時計を見る…二時、半。
(…これで、三度目)
心臓が強く脈打つ。快感にも似た、拍動の激しさ。
最近になって気がついたことだが、この体は夜に強く、昼に弱い。
より厳密に言うのなら、陽の光に弱い。
その原因は、私の肌色にあるだろう。
病的に白い肌。赤い目。
恐らく、この身体は、メラニンの分泌量が絶対的に足りていない。
肌の色は言うべきにもあらず、目に関しては、虹彩の色素欠乏により毛細血管が透けて見えているのだろう。
色素がない―と言っては誤りだろう。
アルビノ、その中でも、OCA1Aでなく、OCA1B型と言うべきだ。
しかし、であるならば―視野や眼球の動き、何より、陽光を浴びた時の異常がなかったのはおかしい。
(わからないことだらけだ)
ため息をついた。
少女の声であるのに、いやに重々しく聞こえた。苦笑を浮かべる。
カーテンを開ける。月が見える。
青い、月。
鼓動は激しくなる。疼きが止まらない。
今までの経験からわかっていた。
こうなってしまったら、もう、「アレ」をするまでは止まれない。
(…何故、こんなことになったのだろう。おれは、ただの―ああ!渇く!渇く!)
(…喉が…喉が…喉が………………)
渇きを我慢できない。ままよ、と足音を忍ばせて―それをするだけの理性は残っていた―ドアを開ける。
星空が目に入った。満天の星空―皆見知った星座ばかりであった。
そして、月光。
「…………、…………、は………」
思わずして、声が漏れる。
それほど迄に美しい満月の光である。
月はくまなきをのみ見るものではない、とある歌人は語ったが、然して、私はやはり、満月に惹かれる。
何故だろうか―?
(………ぐッ……)
喉の渇きが、痛みへと形を変えて全身を襲う。
ああ、苦しい。ただ一滴でいい。
それをわけてはくれないか。
足の赴くままに走り出す。最早理性は本能に組み伏せられた。走る。走る。
―やがて、立ち止まる。
「…ハァッ、ハァッ、ハァッ、ハァッ…!」
息が荒くなっているのは、疲れだけではない。異常な興奮のせいだ。
辿り着いた先は祠であった。
人が立ち入るのを禁ぜられている祠。
深い、森の中…
―ヒュウウ…ヒュ…
(風が強いな…、…?)
(なんだ、あれは?)
祠の傍ら。夜の帳の中でも、判然と威圧感を放つ―
そこには巨体な"モノ"が居た。
言い表すには、私の語彙では、所詮、写実にすら足りえない、が…強いて言うなら、熊だろう。
―最も、私の知るところの熊は、体毛が赤く発光しているものはいないし、口から紫の息を放っている訳でもないが。
頻りに手を左右に動かしている。
何かを撫でさすっているようにも見える。雑巾のような、何か―既視感がある。…あれは、何だ。
服が擦れて、ほんの小さな音を立てた。
と、赤い瞳があたりを睥睨する。
慌てて、身を茂みに隠す。
本能的な行動であった。先までの異常な興奮はなりを潜め、組み伏せられた理性が顔を覗かせた。
(―怖い!)
熊―仮にそう呼ぼう―は、気配を感じたのか、しばらくの間、辺りを嗅ぎ回っていたが、やがてそれをやめ、元の行動に立ち返っていった。
(…どうやら、やり過ごせたみたいだ)
(…これが、魔物、か…)
魔物。なんだかファンタジックな名前で、月並みさ故に笑ってしまいそうだが、事実として、存在もしているし、そして、この世界の害でもある。
魔物とは、指向性のある意思を持つ、人外の動物のことである。
彼らは一般的に、獣よりは高いが、人よりは低い知性を有している。
魔物には二種類ある。獣に魔が宿ったものと、後天的に魔物にされたものだ。
前者はわかる。だが、後者は―?
…つまり、人間も魔物になり得るのだ。
自らの欲望に理性が敗北した時。
或いは、強過ぎる無念を抱えて死ぬ時。
どちらも、蓋然性によるものだ。
だから、人から魔物になるものは極めて稀な例である―しかし、それらの魔物は、皆例外なく、恐ろしく強力な力を有している。
だいぶ傾いた月から、光が美しく降り注いでいる。熊は横たわろうとしている。
私の渇きは、恐怖によって抑制されていた。
(もうじき、月が落ちる。頃合だ。逃げよう。なに、今までも、朝になれば渇きは治っていたのだし…)
私の懸念は、最早熊に捕食されることではなかった。渇きが続くことであった。
(…よし。ゆっくり、立ち上がって…忍び歩きで…)
―パキリ…
(………あ…………)
枝を踏みつけてしまった。
あたりの雰囲気が変わる。
熊が起き上がる。赤く光る眼光は、完全にこちらを捉えていた。
暫くのあいだ睨み合う。
均衡を崩したのは熊の方であった。
―ガウ!
口から飛び出す赤い炎―火属性魔術、ファイアボールだ。
魔術―属性―なんとも、ファンタジックな単語である。
しかし、目の前の命の危険は現実で。
「…逃げ、ないと…!」
踵を返して走る、走る。
息を吸い込むたびに喉がヒュウ、ヒュウと音を立てる。
渇きを主張している―が、構っている暇はない。
(どこか…隠れる場所!)
体長3mにも及ぶか、という熊と、まだ成熟しきっていない、か弱い少女。
彼我の差は暴力的とも言え、鬼ごっこはじきに終わろうとしている。
「…ヒュウ……ヒュッ………か……ぜ、…よ!」
僅かな鉄の匂い。血と共に、言葉―詠唱を放つ。脳内から現実へと投影された「風」は、捕食者とのあいだに大きな障壁を作り上げた。
…ガウ…グルル…
(…よしッ…これで…)
助かった。安堵した刹那。
(な…あ…っ!?)
(嘘だろ…飛び越えてきやがった)
高さ5mはあろうかという壁。
着地した熊は、流石に無理が祟ったと見え、足から血を流しているが―
ふらつきながら、立ち上がろうとしている。そこまでして追って―一体、何が彼、ないし彼女を突き動かしているのか。
立ち上がるための時間は一瞬。しかし、こちらが周りを確認する時間には、充分。
岩肌に穴を見つけた。私が入れるくらいの、それでいて、熊の巨大では入ることが叶わないくらいの―
走り出す。
(間に合え…ッ!)
走る。走る。足は既に冷たい。
一歩、また一歩と、後ろの巨体との距離が詰まるのを感じる。
吐息さえ感じる。後一歩!
―だが。
間に合った。
穴の中に滑り降りる。
腿を酷く擦った感触があったが、それはさして重要ではない。
痛みをこらえて振り返る。
予想通り!
熊は入り口でつっかえて、中には入ってこれなかった。
(…勝った…な…)
思わず笑みが零れる。
しばらくのあいだ、熊は執拗く岩肌を殴りつけていたが、やがて、こちらを酷く睨みつけて、踵を返した。
ため息をつく。陽が、既に登ろうとしている。早く帰らなければならない。
(しかし…)
(あの熊はなぜ執拗に私を追ってきたんだろう?)
(それと、あの布…何か既視感がある…)
私の足は動かぬままであった。
不思議な、嫌な感触が身体中を満たしていた。不安だった。
陽が、顔を出す。
汗と恐怖で強張り、寒気を感じていた身体は、陽によって照らされ、少しばかり温かみを取り戻してきていた。
なのに、何故だろう。
常であれば心地良さ、美しさを感じるはずの日の出は、どこか恐ろしく、母のような……、…………。
…そこで、思い出した。
(…ああ…)
(あのぼろ布は…)
今から二月ほど前。
はじめて、あの恐慌に陥った私は、渇きに耐えきれなくなって、小熊を殺した。そして、血を啜った。
可哀想だとは思わなかった。
子供とはいえ、熊を殺すのも、怖いとは思わなかった。
…野生の動物の生き血を啜る、ということを、汚いとも思わなかった。
あの夜。忘れていた。忘れようと、していたのだ。
足をもがれ(私はその時、迷うことなくそれをした)身体中から血を流し、怯えた「ような」目付きで私を見る小熊の姿……。
胸に手を突き刺し、心臓を差し貫いた時の、ぐにゃり、とした感触。
鳴き声。
思い出す度に―嘆かわしいことに―
(―快感を、覚えてしまう)
私は人間だ。私は、人間だ!
別に、人間至上主義なわけではない。
醜さも、愚かさも知っている。
でも、それでも、私は人間だ。
断じて、生物を殺しその生き血を啜り悦びを覚える異形などではない。
ない、はずなのに…
―この世界に来る前のことはよく覚えている。私は善良な一市民であったし、家族も、言ってしまえば恋人も居た。
谷もなければ山もない。そんな人生が続くと思っていた。ときにはスリルを求めたことはあったが、現状に満足していた。それが、何の因果で。
…向こうに残してきた人々を想うと涙が溢れてくる。
それは多分、彼らへの思いではなく、私の存在を肯定、保証してくれるものがなくなってしまった恐怖なのだと思う。
きっと、そうだろう。
(血も涙もあったものじゃない)
私は、もう既に、自分自身の善性を信じることが出来なくなっていた。
ピィ…ピィィ…
どこかで鳥のなく声が聞こえる。
帰らなくては。彼らが目を覚ます、その前に。
遅い足取りを無理に急かして帰路を急いだ。
宙ぶらりんの恐怖は、決して薄れることは無かった。
更新が大幅に遅れましたことをお詫びします。
リアルの都合、というやつでした…
今後は週に一度のペースを目指して更新する予定でありますので、改めてよろしくお願い申し上げますm(__)m