六話
五話までの用語にいくつか修正を加えました。
ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんm(__)m
―これは夢だ。
明確な理由はない。だが、それだけは、わかる。
頭が酷く不鮮明で、口が開けない。
私は布団の上に横たわっている。
寝ているのだ。
枕元には、人型が立っている。
白い、霧のようなものがかかっていて、それが何かを確認することは出来ない。
そして、私の身体は、金縛りにあったかのように動かない。
「―これから君は、数えきれない程の悲しみと、喜びを背負うことになる」
人型が話しかけてくる。
「人の意思は、一つの行動によって、その総意を測り知ることは不可能だ。
聖人が悪事を行うこともあるだろう。悪人が正義を為すこともあるだろう」
不思議な声だった。
決して、心を震わせるような美しさを持つ声ではないが、どこか、人を落ち着かせる響きがある。
「人の心は、一貫して変わらないことは有り得ない。なぜなら、人は過去に学び、時を成長と共に過ごすからだ。
例えば、全てを救うと言った神の子は、死を前にして、ただひとりを救わなかった。
例えば、人種差別による大虐殺を行ったかの悪鬼は、道に倒れる孤児を救ったことがある」
なるほど。確かに、ユダは救われていない。
しかし、「成長」?
慙愧を以て、過去を恥じ、成長するのならわかる。
しかし、何をするでもなく、停滞することも成長と言えるのだろうか?
神の子は、奇跡を齎し、あまねく人を救った。
最後では、ただひとりを救わなかった。
この人型の言うことには、それは成長ということだが、私にはそうは思えない。
或いは―
(負に伸びることも成長と、貴方は言うのか?)
「ああ。負への成長は、悪と呼ばれる。
―しかし、人間の種としての進化は、常に悪と共にあった」
「イヴが果実を齧らなければ、我々はここにいない。心を震わす詩もなかったし、甘い恋の快も、救いの愛もなかったのさ」
それまで冷静だった声が熱を帯び始める。
だけどね、と続ける。
「人間が人間である限り、最後に悪は滅びる。間違いないよ―そうでないと人間は繁栄出来ない」
「悪とは即ち、生命の繁栄における障害だ。それがあっては、その種が生き残れない…けれど、障害がなくして、進化はありえないんだ」
君に馴染み深い言い方なら、そうだな。
定期考査や受験がなければ、君は勉強しないだろう?
そう言って悪戯っぽく笑う。
顔は見えないけれど、声の調子でそれを判別することが出来た。
―しかし、悪によって滅びた善があるのも確かだ。
無辜の人々が、多く亡くなったのも確かだ。
…私たちは、いつでもそうだ。
多数の幸福のために、少数が犠牲になる。
その事に異を唱える人々がいる。
しかし、その人々も、結局は幸福の中にいる。幸福を享受している。
だから―そう、仕方の無いことだ。
ギリシャの詩や彫刻は、多数の奴隷達の労働の上に立って出来た…
(けれど)
(その「少数の犠牲」に、自分を置いた奴は、見たことがない)
「うん。それは本当に、仕方の無いことだ。人が二人いれば、諍いが起きる。百人なら競争が、千人なら対立が…どちらかが敗者になるのは止めようもない」
「…こう言っては酷だけどね。
―気にするな」
「君は、君の生き方をすればいい」
「これから君が背負うもの。それは全て、例え好ましくなくとも、君の成長の証だ」
「…話を戻すよ」
「人は言語で思考する。言語は世界を定義している。これは、世界は成立した事態の総体であり、事態を定義するのは言語であることから、明確だね」
「それで在りながら、言語はその性質上、定義出来ないものを表せない」
だから、人の心は、揺れる。人である以上、不可避のことだ。
「ねぇ、これだけは憶えていてくれよ―決して、絶望するな。他人にも、自分にも」
「過去を否定するな。今を否定するな。それはその時の君を否定することだ」
「君は君だ。それ以外の何者でもない。
記憶がなかろうと。実感がなかろうと、肉体が変わろうと、君がここに在る限り、君は君以外として在り得ない!」
(……………………………、………)
強い光が人型を包み始める。私の意識が現実に絡め取られる。
「…時間みたいだね」
「君が自分を探すことを諦めない限り、また会える、はずだから」
「―その時まで、さよなら」
寂しそうな声が聞こえる。同時に、私の意識が現実へと解放される。
―去り際に、視界の端に白い髪が棚引くのを認めた。
お読み頂きありがとうございますm(__)m