五話
風が轟、と吹く。
意識が現在に立ち返ってくる。
どうやら、随分と長く考え込んでいたようで、陽が登り始めていた。
井戸までもう少し。
視線を感じ、顔を上げると、声を掛けられた。
「…良かった、平気そうだね。声を掛けても返事がないから心配してたんだよ」
「…なんだ。来ていたのか」
声をかけてきたのは人間ではない。
体長約50cm程の、浮遊する蜥蜴だ。
自らを精霊、と称している。
「いつも一緒に出てきているじゃないか。起こしてくれないだなんて、君も人が悪い」
「…寝起きだったから。それに、君も、気持ち良さそうに寝ていた」
彼はため息をついた。
「ともあれ、元気ならいいよ。さ、早く帰ろう。まったく、寒くてかなわない」
「…そんなに寒い?」
水を汲みながら聞く。
「今はね。慣れるまでが大変なんだ」
「…ふぅん」
気のない返事を返す。
一つ。二つ。三つ。四つ。
桶に水が満たされていく。
(よ…っと…)
それらを宙に浮かす。
「じゃあ、帰ろう」
精霊―ヴェルと連れ立って歩き出す。
最も、彼は浮いているので、歩く、という表現に些か誤謬はあるが。
ヒュゥゥ…
今日は風が強い。確かに、これは、寒いかもしれない。
「おぉぉ…寒い、寒い…」
ブルブルと体を震わせて、彼が独りごちる。
「中に入る?」
上着を広げる。
脇腹あたりにくるまれば、少しは寒さを凌げるだろう。
「…君は何を言っているんだ…」
呆れたように首を振るヴェル。
「もう少し自覚を持て…これだから…」
…何を言っているか聞き取れないが、流石にそれはやり過ぎか。見目も悪い。
悪くない提案だと思ったけれど。
お互い無言で歩き続ける。
風の音、靴の音、動物の鳴き声、私の息…
「ねぇ」
「…うん?」
唐突にヴェルが口を開いた。
「君は毎朝、ここまで来て水を汲んでいる」
「うん」
「三十分。三十分も掛けてだよ」
「…先生にそう言われたから。それに、それ以外に私の仕事はない」
「…なぁ、君さ、気づいてるだろ?井戸なら家の裏手にもある。そっちに行けばいいじゃないか」
「…ごめん。迷惑をかける」
「いや、別に僕は構わないよ。…ただ、うん、純粋な疑問」
「…先生は、水を汲む井戸として、ここしか紹介しなかった。それにはきっと意味がある」
「それに、何度も言うけど、仕事はこれしかない。いい運動にもなる」
「こんなに寒いのに?」
「…それはヴェルが寒がりなだけだと思う」
ま、君がいいならいいんだけどさ。
そう言って、ヴェルは会話を切る。
また無言が続く。
私は地面を見て歩いている。
視線を感じた。
目で、何か用?と、問う。
「いやさ。君と初めて会った時のことを思い出したんだ」
「…あぁ…」
あの時。私が、はじめて人を殺したあの時。
目を閉じたあと、やはり、恐怖から、何度も目を開けてしまった。
―その何回目かに見えた、炎の奥の人影。
それが、私の救い主であった。
私は彼を「先生」と呼んでいる。
「いや、懐かしい。寝た振りをした君が、僕を見て奇声を上げたところとか、今思い出しても面白い」
くくくっ、と笑っている。悪かったな。
「…知らない天井、謎の老爺、布団の上…目覚める直前の出来事も出来事だから、仕方ない」
「や、や、冗談だって」
少し不機嫌を装って返すと、慌てて前足を振って否定するヴェル。
短い前足が揺れるのがなんとも滑稽で、笑いが零れる。
「驚いたよ。朝起きたら、隣に女の子が寝ているんだからね。アフェクションのやつ、ついに誘拐に手をつけたのかと思ったよ」
驚いたのは私の方だ。…御伽噺の中にしか出てこない存在が目の前に居るのだから。
そうだ。ここは非科学的なもので溢れている。
…あの夜、私が人殺しに使ったのもそのひとつだ。
即ち、超能力。
それは、魔術という名で呼ばれている―この世に住む人達の、生命線。
ヴェルの言うことには、脳の奥にある「松果体」という機構が、イメージによって形作られた像を、生体エネルギーを以て現実に投影することによって発生するだとかなんとか―
「…名前は?まだ思い出せない?」
いつもより幾らか饒舌である。
寒さが、彼をそうさせているのだろう。
「…うん」
名前が思い出せない。嘘だ。
私は、おれの名前を知っている。
…けれど、元とは似ても似つかぬ少女の姿になり、さらには、人を殺めてしまった「私」は、果たして、おれのままなのだろうか…
それに何より―この身は既に…
…ああ。以前であれば、考えられないことだ。
流石に、それを「変化」だと言える程、私の精神は強靭ではない。
カァァ…ピィィ…
鳥の鳴き声が聞こえる。
少しの沈黙。
「よし、着いたね。お疲れ様」
「ただいま」
「おかえり」
家の扉を開けると、声が返ってきた。
リビングに向かうと、紅茶を飲みながら本を読んでいる先生の姿があった。
白い髪。白い髭。温和そうな顔立ち。如何にも、近所の優しいお爺さん、という体だが、少しばかり近寄り難さを感じる。
―恐らく、その理由は彼の目付きにあるだろう。
鋭く、充血した瞳は、常に何かと戦っているようだ。
「あの…」
「…いつも済まないね。助かるよ」
そう言った切り、本に目を落としてしまった。
階段を登り、私の部屋に上がる。
「なんだかね。…自分で攫ってきておいて、君には関心が薄いように見える」
「…昔は、あんな目はしてなかったんだけど、ねぇ…」
…私は、ヴェルにも、先生にも、あの夜のことを話していない。
…もちろん、「おれ」の記憶も。
しかし、ヴェルはともかく、先生はそれを知っている可能性がある。
あの場所にいたのだから。
(…ヤバい)
意識すると、身体の震えが止まらなくなった。
動悸が激しくなるのを感じる。
(彼が私に無関心なのは、私が人殺しだと知っているからでは…家においているのは、そのうち、保安警察にでも突き出すつもりだからではなかろうか―)
(そう言えば、彼の態度は、妙だ。自然体ではない、何か装っているように見える―)
(…また、あの地獄に戻るのか?)
(嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ…)
私の悪い癖だ。思考の悪循環。
深みに嵌って行く。
「…おい?おい!大丈夫か?」
「…ん…うん」
「なぁ、やっぱり体調が良くないんじゃないのか?今日は休んでもいいんだよ?」
「…いや、大丈夫。考えごとをしていただけ、だから」
こいつは、良い奴だ。
三ヶ月にも満たない時しか付き合っていないけれど、それは確からしく感じられる。
こちらの世界の知識を、嫌な顔ひとつせず、一から教えてくれたのも、対価もなく魔術の指導を付けてくれているのも、本来敬われるべき精霊と立場でありながら、常態で話すのを許してくれていることも、それの表れだ。
だから―だからこそ、失いたくないと思う。
(なぁ。君は、離れないで、いてくれるか?)
…言葉には、できなかった。