三話
―バシャリ。
「…ッぅ…」
目が覚めた。何かが滴る。どうやら、水をかけられたようだ。
「――!……!」
響く怒声。聞きなれたものだ。
意識を失う直前に味わった地獄の苦痛はどこへやら、むしろ快感すらあった。
身体の中が洗浄されたような。
朝風呂の感覚が一番わかりやすいかもしれない。
思考はクリアになっていた。
この地獄の中で、実に、久方ぶりのことだった。
水をかけた男は、何処へかと歩いて、離れていった。
ずぶ濡れの頭で考えるのは、昨日の影のこと。
人とは、思えなかった。
しかしまた、夢とも思えない。
あの痛みは、それだけは、否定出来ない。
(状況から鑑みて、おれの身体に何らかの外的改造を齎したと見ていいだろうな)
代わり映えしない地獄。
そこに、変化が起こった。
「考えろ…ここが、分岐点だ…」
言葉に出すも、思考はどうどう巡りで、何の結論も得られなかった。
牢の外から怒号が響く。この後、彼らにとって「大事な」何かがあるようだ。
頬を張る音も聞こえる…
(おれにも何か関係があることかもしれない)
怖かった。事実である。
…だが、彼らを蹂躙し、踏みにじり、辱める姿を妄想することで、おれは恐怖を塗りつぶしていた。
否、絶頂すら覚えるほどの快感を得ていた、と言っても過言ではない。
…兎にも角にも、あの「影」と接触を図らなくてはならない。
条件があるのか?
あの時、おれは、何をしていた…?
わからない。わからない。わからない!
「せめてもう一度…!」
痛みに腹立たしさは感じなかった。
ただ、地獄から逃れる法があれば、それで、良かった。
壁に染みが広がる。何かが、浮き出してくる。
[…僕はずっとここに居るんだけどねぇ。]
「…ッ!?」
子供のような輪郭。
改めて見ると、少しばかり異様な形をしている。
高くもなく、低くもなく。無機質な感じのする、どこか冷たい声。
[また明日ね、って言っただろう?]
…確かに、そう言っていた。
―けたけた。
影は、嗤う。
[どうかな?痛みは。もう収まった?]
嘲弄するような笑顔。見覚えがある。
どこか、碌でもないところで。
「…酷い気分だった」
[おやおや、それはそれは…]
「だがよ」
その笑顔に、問う。
「―お前は、おれに何をした?」
[何だと思う?」
暫しの静寂。
おれの脈は早撃っていた。
転機。これを逃せば、次はない。
そう、直覚していた。
簡単なことさ。
影は滑るように歌う。
[僕は君に、力を与えてあげる]
[ここから、逃れる力]
[君が、本当に人を殺せるなら、ね]
納得した。おかしな話だが、そうなることはわかっていた。
薄暗い部屋。少しだけ光って見える、影。
「…何故お前は力を与える?やつらを殺すことが、お前の利益に繋がるのか?」
わからない。そもそも、殺すだとか、殺されるだとか、おれには、その実感すらないのに。
[…何も無いさ。この身は精霊なればね]
「…精霊?」
耳慣れない単語に耳を疑う。
それは、空想上の存在。
反射的に、言葉を紡いだ。
「そんなものが―」
言いかけて、口を噤む。
思い返せば、辻褄が合わない。
西洋風の街並み。
「奴隷」と言う、昨今耳にしない単語。
おれの体の変化。
…そして、この、眼前の超常的な存在。
ああ、いや。この場を以て認めてしまおう。
…ここは、おれの知っている世界では、ない。
心に揺れはなかった。
悲劇的なことには、私、驚く力を失ってしまっていた。
―コツ。コツ、コツ、コツ…
誰かが階段を降りてくる音がする。
この牢の近くには牢はない。
―間違いなく、おれを連れ出すつもりだ。
額に汗が浮かぶ。
[―]
影が何かを言おうとする。
だから、その前に。
「おれに、力を」
ください―いや、違う。
「寄越せ!」
―承った。
影が―、否、精霊が口角を上げる。
瞬間―流れ込む、凄まじい熱量。
痛み、というよりも、耐え難い快楽に襲われる。
足音が止まる音を聞いたのを最後に、おれは意識を手放した。