二話
歩くこと、体感五時間あまり、と言ったところか。
頂点にあった陽が沈みかけているから、その頃合だろう。
おれは、砂煙の向こうに見えた街へ続く道に居た。
道なりであったことは僥倖であった。
道は、曲がりくねった坂である。
田舎、という印象を強く受けた。
視線を上にやれば、門が見える。
街の中まで、あと数分とかからないだろう。
ただ…
(どうにも、おかしい…)
(この風景には、何か間違ったところがある)
例えば、農家。
畑の作物は枯れ果て、家は骸と化している。
道端。
座り込んでいる人を幾人か見かけた。
襤褸切れのような服。
投げ出された手足。
開いた瞳。
目が濁っていて、何やら恐ろしく思われたから、早足で歩いた。
それは、いかにもアメリカのスラム街を彷彿とさせた。
数が数だ。流石に家なしの集団とは考えづらい。
骸と化した農家の家々と何らかの聯関がありそうなものだ。
或いは―
(既に、死んでいる?)
それは、如何にも確からしくあった。
同時に、おれの躰は、中身を冷水に変えたかのように冷えあがった。
(…いや、どうだろう。そも、人は死にながらにして、瞳を開くのか?)
…考えても栓のないことである。
私は、自身の無知を知っている。
知識とは、即ち形而上に現れるものよりも、形而下のそれであるように思う。
知を得る、とは即ち理解を放棄する権利を失うということである。
理解に関する選択の権利。
問題を先送りにすることは、事実として人の心の防衛機能である。
―カァァ…カァァ…
烏の鳴き声である。
街に近づくにつれ、異様に多くなったように思われる。
今、空は青い。
であるのに、空気は曇っているような…そんな感じを受ける。
違和感―それは、身体にもある。
歩幅が狭い。視点が低い。息が切れる。
目が覚めていないのか。
(煙草の一本でもあれば)
ため息をつく。それにすら違和感を感じる。
得体の知れない何か。
気味の悪さは下腹部に貯まる。
それは、「私」が「おれ」でないことを、一層強く主張しているようであった。
「クソッ…」
頭を振る。嫌な考えを振り払おうとする。
どうしようか。この街は、やめておこうか。
そう思うけれど、この先、どこに人がいるかもわからない。
やはり、直感よりも、論理的な思考に頼って、門をくぐったのである。
扇状に広がって、ゆるく海へ傾いた斜面は、三十軒ばかりの木造の家や店に占められ、一本の道路が真直に降りていた。
その正面を限る椰子の木群を透かして海が光った。
それは、どんな感情の色も持たぬ不毛な冷たさでそこに光っていた。
(―いや、待て。砂漠の先に、海があるのか?)
それは異様なように感じられた。
しかし、事実、海はある。
(そういうものか…?)
一人、頷いた。
教会があった。おれは、そこの一本の立木により、目前の風景で動くものを待った。
時間が経った。
全ては依然として静かであった。
カァァ…カァァ…
座りこもうとして、足元に転がる看板―それに書かれた文字―に目がいった。
(覚えのない文字だ…)
日本語ではない。英語でもない。
中国語でも、韓国語でも、恐らく、知らない言語体系だ。
ふと、あたりを見回す。
目に入った、文字という文字は、全て不可解な言語だった。
街中の雰囲気が、やけに西洋風なことにもここで気づいた。
日本が、西洋を模倣した、というより、西洋そのもののような。
そう言えば、先に見た農家も、少し、「おれ」の記憶とは食い違う。
(まさかな)
いや、しかし、冷静になれば十二分に考えられることなのではないか。
そも、目が覚めたら砂漠に寝転がっていた…という事実そのものが非常に不可解この上ない。
―ここが、日本で無い可能性。
想像すると、酷い無力感と脱力に襲われた。
言語が通じなければ、野垂れ死にするかもしれない。
恐ろしくなった。目の前が暗くなるようであった。
風が吹いた。左手の最も近い一軒の家が汚い横側を見せ、屋根が傾き、木の階段に階が欠けていた。
棒が揚戸を支えた窓の内部にも、動くものはなかった。
おれは、その家に駆け寄り、階の欠けた階段を飛び飛びに上がり、踏み込んだ。
ギシリ、ギシリ、と嫌な音が響き渡った。
空であった。
隅に置かれた一つの櫃は蓋が開き、安物の下着類、子供のサンダルなぞが転がっていた。
分銅のついた網の上には煙草―銘柄は不明である―の空箱や、チョコレートの包装紙が載っていた。
―空箱であることを少し残念に思う程度の余裕はあった。
状況の示すところは、この家の住人が急いで出ていったか、略奪されたかである。
道端に座り込む人々―骸となった家々―烏…
略奪された、と考えるべきだろう。
(運が悪い)
尚更、日本とは考えづらい。
頭を振る。ため息をつく。
ここには、頼れるものは無い。
早急に立ち去らねば…
(どこへ向かうか)
地図の一つはあるだろう。それを見て考えるしかない。ここが海に面しているのは幸いである。
引き出しを開ける。閉める。開ける。閉める。
中には殆ど何も残っていない。
手でぐちゃぐちゃに掻き回したように中は荒れていた。
二つ目の部屋―恐らく洗面所―に移る。
そこには、曇りながらも、確かに光を反射する鏡があった。
…ふと、何の気なしに覗き込む…
(……!?)
そこに映っていたのは、映るべくもないものだった。
即ち、鏡に「おれ」は映っていなかった。
映ったのは一瞬だった。
故に、細部は記憶にないが、紅い瞳だけが、焦げたように焼き付いていた。
(……あぁ、そうか)
(…夢、だな)
これは夢であった。
それは確かであった。
なるほど、冷静に考えれば、これが現実なはずはなかった。
起きたら砂漠にいる。
持ち物はない。
見知らぬ言語が溢れている。
異様な人々の姿…
(明晰夢、というのだったか)
(夢ならば、しかる時に覚めるだろう。荏苒と過ごすよりは…)
私は、この時、若干の好奇心が首をもたげていたことを認める他にない。
好奇心は猫を殺す―
事実、それは、ある種の死へと誘うことになった。
(…ない、か)
端的に言って、家に地図はなかった。
いや、それどころか、それ以外のものですらなかった。
金。食料。水。
見つかったのは、ただ用を成さぬゴミばかりである。
略奪者の欲の深さ…或いはのっぴきならない状況…が明らかであった。
(どうしたものか…)
家から出ようとする。階段に足をかけようとして、躓く。
その家階段の前の地上にあった数個のものを、「私」がそれまで幾度もそこに目を向けたにも関わらず、ついに認知しなかった理由を考えてみると、この時の私の意識が、いかに外界を映す状態から遠かったかがわかる。
「物」と私は表現したけれど、人によっては、まだ「人間」と呼ぶのかもしれない。
いかにも、それはある意味で人間だったが、しかしもう人間であることをやめた物体―即ち、屍であった。
ことに、彼らは死体であること既に永く、あらゆるその前身の形態を失っていた。
彼らの衣服こそ僅かに彼らの人間たりし頃の残骸であったが、その色は、見事に周囲の土と同化していた、と言える。
ある者は他の者の脚の上に頭を載せ、またある者はその肩を抱いていた。
伏したる者の臀部の服は破れ、骨が現れていた。
今なお、この過去を回想するたびに、私は酷い嘔吐感に襲われる。
しかし、それは私が今「死とは遠い状態にある」生活を送っているからである。
「おれ」がその時感じたのは、「嫌悪感」ただ一つだけであった。
避けて通ろうとした―その時。
足元から声が聞こえた。
何かの意思を持っていた、というよりも、もっと自然な…呻き…のようなものであった。
生きている。
顔が潰れ、腕が逆の方向を向いて、目が飛び出、耳がちぎれ、足首が三つの死骸を経た場所にあっても…
なお、この男は生きている。
それは、如何にも!如何にも、如何にも、恐ろしかった!
おれは、目を瞑り、闇雲に道を駆け出した。何か、叫んでいたかもしれない。
―そして、強い衝撃を感じ、膝から崩れ落ちた。
ここまでは、覚えている。
風が吹き付ける。
酷く、寒く感じられる。
水汲み場までは大分距離があるため、まだ、着きそうにない。
もう、ここからは思い出したくない。
けれど、脳は再生をやめない。
―目を覚ますと、眼前には檻があった。
(……………!?)
立ち上がろうとして、もつれて転ぶ。
足と手に、鎖がついていた。
鎖の先端は壁に杭のように埋め込まれていて、抜けそうにない。
動けない。
鎖の重さが、冷たさが、そして、牢の湿った腐臭が、圧倒的な現実感を伝えてくる。
(これは、夢では…!?)
カツ、カツ…カツッ…
誰かが階段を降ってくる音。
ひやりと冷たい床。
誰でもいい。気づいてくれ。
その一心で鎖をくねらせる。
じゃらり…じゃらり…
足音が近くなる。やがて、男が私の檻の前に立った。
牢に入ってくる。
…おれの、前に立つ。
「―起きたか」
なぁ、あんた。ここはどこだ?
夢じゃないのか?
「…まだ寝てるようなら水でも掛けるところだったが」
おい、質問に答えてくれないか。
どこだ?何の権利があって、おれを…
「ま、恨むなら自分を恨むんだな」
だから…質問に…
「…!ガタガタうるせぇぞ…ガキ!」
「ぁ…ぇ…」
言葉が出ない。
怖い。怖い。怖い。
全身から血の気が引くのを感じる。
手足から力が抜ける。
「…今は、傷つけるな、と言われてるから…やりゃしねぇが…」
「図に乗るなよ、奴隷」
「俺が強者だ。お前は弱者」
「自分のことは、もう人とは思うな」
……?
「…まだわからないか」
「お前はな、たった今から」
―奴隷になったんだよ。
「ど…どれい…?」
怯えた少女の声が口から漏れる。
違う!これはおれじゃない!
「げ、げんだい、にほんに、おいて…は、どれ、い、せ、せいどは…き、きんし…」
声が震える。
言葉を最後まで言い終わることは叶わなかった。
―男の手が、おれの顔を張り飛ばしたからだ。
「…言っただろ?…お前はもう、人ですらない」
言い捨てて男は去っていった。
おれは、頬をさすっていた。
その言葉を理解したのは、僅かに数分後のことだ。
いや―或いは、もっと早く理解していたのだろう。「おれ」が、許容を拒んでいただけだ。
そして、おれは知った。
おれは、私は―
―無力な、少女になっていたということを。
犯され、嬲られ…人間としての尊厳を踏みにじられた。
快感などない。
一日目。痛みに、思考は出来なかった。
二日目。痛みに慣れてきた。現実を受け入れられず、ただ、「彼らの罪はどれほどの罰になるか」を考えていた。
禁固、十余年。
三日目―酷い出血があった。
あわや死ぬかと、死ぬ方が楽か、とも思われたが、気がつけば治っていた。
この体の、異常な生命力に気がついた。
四日目?…指が取れた。
切断面にあてがっていたら、接合していた。
×××日目―彼らが、おれの身体の特異性に気がついたようだ。
切っては、再び生えてくる。
激しい痛み。不快な痛み。浮遊感のある痛み。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。
???日目―最早望みは絶たれた。
助けは来ない。
ならば…いっそ。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。コロして。ころして…
……殺して、ください。
λΔ日目――扉が開く。
投げ捨てられるように粗末な食事が与えられる。
固いパン、一斤。それのみだ。
全身を使って手を伸ばし、やっとで掴んだパンを必死に貪る。
固くて、口内が痛い。
それでも、食べなきゃ。
死にたい。そう思うけれど、目の前にある食事からは、逃れられない。
何故だろう。
…どうでもいいか。
咀嚼し、飲み込む。唾液が無いから息が苦しい。
―そこで、視線に気がついた。
男がいつも入ってくる扉の隣。
そこに、見慣れない影。
人型。
「…誰だ?」
声はかすれて、自分でも聞こえないほどだった。
[苦しいかい?]
低いとも、高いともつかない、不思議な感触のある声。
影は子供のような輪郭をしていた。
あくまで、輪郭。
「…誰だよ」
[辛いかい?]
「…見りゃわかるだろ」
今や薄く、現実味を失いつつある、おれの家を思い出す。
あそこには何も無かったが、安寧はあった。
意識すれば、涙が出てくる。
「…用はなんだ?」
言って、視線をずらす。
幻覚か。人にしては小さ過ぎるし、この場には不釣り合いにも程がある。
鈴の音を鳴らすような、腹の奥まで響くような、擦れて不快な音のような、そんな声で、囁いた言葉…
[彼らを、殺してしまいたい?]
「………………」
「あぁ。そりゃあ、な」
殺してやりたい。それほど憎んでいるのは確かだ。だが、そんな力があるなら、この地獄からとうに抜け出している。
…しかしこの幻覚、妙にリアリティがある。
滑らかに動き、空中に踊る様子は、小馬鹿にしているようでもあった。
[―殺せる力があったなら?]
「…ねぇからこうなってんだろうよ。
いいから消えてくれ」
会話をするのは苦痛であった。
無論、絶叫の連続によって焼け付いた喉、そして、水分不足による痛みもあったが、それより、私が「生きている」ことを意識させられるからである。
[ねぇ、君は、本当に人を殺せるのかい?]
[本当に、憎んでいるのかい?]
「本当に?」
「本当だね」
その時、事実として、おれの頭の中には彼らを物言わぬ骸として辱める私 おれの姿があった。
哄笑を上げ、髪の毛をつかみ、瞼を開き、恐怖に染まった瞳を抉り飛ばす、そんな姿が。
[…ふぅん?なら、やってみせてくれよ?]
その瞬間、身体を何かが駆け巡った。
「グオオオッ!」
「アアアッ!」
「ぁ…ぁ!あぁあぁぁああ!!!」
溶岩が、虫のように身体を這いずり回る感覚。
全身を焼き尽くされるような痛みが襲う。
「あぁっ…あぁああ!」
身体の奥底が冷え上がる。
パキリ。パキリ。パキッ…
全身の骨が折れ始める。
そして、再度接合される。
痛みに狂えず、おれは意識を手放した。
[今日は、ここまで。また明日、ね。]
機嫌の良い、そんな調子の影の声が、意識を失う直前に耳にこびり付いた。