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月光  作者: えっくす
2/8

二話

歩くこと、体感五時間あまり、と言ったところか。

頂点にあった陽が沈みかけているから、その頃合だろう。


おれは、砂煙の向こうに見えた街へ続く道に居た。

道なりであったことは僥倖であった。



道は、曲がりくねった坂である。

田舎、という印象を強く受けた。


視線を上にやれば、門が見える。


街の中まで、あと数分とかからないだろう。


ただ…


(どうにも、おかしい…)


(この風景には、何か間違ったところがある)



例えば、農家。

畑の作物は枯れ果て、家は骸と化している。


道端。

座り込んでいる人を幾人か見かけた。

襤褸切れのような服。

投げ出された手足。


開いた瞳。

目が濁っていて、何やら恐ろしく思われたから、早足で歩いた。


それは、いかにもアメリカのスラム街を彷彿とさせた。


数が数だ。流石に家なしの集団とは考えづらい。

骸と化した農家の家々と何らかの聯関がありそうなものだ。


或いは―


(既に、死んでいる?)


それは、如何にも確からしくあった。

同時に、おれの躰は、中身を冷水に変えたかのように冷えあがった。


(…いや、どうだろう。そも、人は死にながらにして、瞳を開くのか?)


…考えても栓のないことである。



私は、自身の無知を知っている。

知識とは、即ち形而上に現れるものよりも、形而下のそれであるように思う。

知を得る、とは即ち理解を放棄する権利を失うということである。

理解に関する選択の権利。

問題を先送りにすることは、事実として人の心の防衛機能である。



―カァァ…カァァ…

烏の鳴き声である。

街に近づくにつれ、異様に多くなったように思われる。




今、空は青い。

であるのに、空気は曇っているような…そんな感じを受ける。


違和感―それは、身体にもある。

歩幅が狭い。視点が低い。息が切れる。


目が覚めていないのか。


(煙草の一本でもあれば)


ため息をつく。それにすら違和感を感じる。


得体の知れない何か。

気味の悪さは下腹部に貯まる。


それは、「私」が「おれ」でないことを、一層強く主張しているようであった。


「クソッ…」


頭を振る。嫌な考えを振り払おうとする。



どうしようか。この街は、やめておこうか。

そう思うけれど、この先、どこに人がいるかもわからない。

やはり、直感よりも、論理的な思考に頼って、門をくぐったのである。




扇状に広がって、ゆるく海へ傾いた斜面は、三十軒ばかりの木造の家や店に占められ、一本の道路が真直に降りていた。

その正面を限る椰子の木群を透かして海が光った。


それは、どんな感情の色も持たぬ不毛な冷たさでそこに光っていた。


(―いや、待て。砂漠の先に、海があるのか?)

それは異様なように感じられた。


しかし、事実、海はある。

(そういうものか…?)

一人、頷いた。


教会があった。おれは、そこの一本の立木により、目前の風景で動くものを待った。





時間が経った。

全ては依然として静かであった。







カァァ…カァァ…


座りこもうとして、足元に転がる看板―それに書かれた文字―に目がいった。


(覚えのない文字だ…)

日本語ではない。英語でもない。

中国語でも、韓国語でも、恐らく、知らない言語体系だ。



ふと、あたりを見回す。


目に入った、文字という文字は、全て不可解な言語だった。


街中の雰囲気が、やけに西洋風なことにもここで気づいた。

日本が、西洋を模倣した、というより、西洋そのもののような。


そう言えば、先に見た農家も、少し、「おれ」の記憶とは食い違う。



(まさかな)


いや、しかし、冷静になれば十二分に考えられることなのではないか。

そも、目が覚めたら砂漠に寝転がっていた…という事実そのものが非常に不可解この上ない。


―ここが、日本で無い可能性。

想像すると、酷い無力感と脱力に襲われた。

言語が通じなければ、野垂れ死にするかもしれない。

恐ろしくなった。目の前が暗くなるようであった。



風が吹いた。左手の最も近い一軒の家が汚い横側を見せ、屋根が傾き、木の階段に階が欠けていた。

棒が揚戸を支えた窓の内部にも、動くものはなかった。

おれは、その家に駆け寄り、階の欠けた階段を飛び飛びに上がり、踏み込んだ。

ギシリ、ギシリ、と嫌な音が響き渡った。

空であった。


隅に置かれた一つの櫃は蓋が開き、安物の下着類、子供のサンダルなぞが転がっていた。

分銅のついた網の上には煙草―銘柄は不明である―の空箱や、チョコレートの包装紙が載っていた。

―空箱であることを少し残念に思う程度の余裕はあった。


状況の示すところは、この家の住人が急いで出ていったか、略奪されたかである。


道端に座り込む人々―骸となった家々―烏…


略奪された、と考えるべきだろう。


(運が悪い)

尚更、日本とは考えづらい。

頭を振る。ため息をつく。

ここには、頼れるものは無い。

早急に立ち去らねば…


(どこへ向かうか)


地図の一つはあるだろう。それを見て考えるしかない。ここが海に面しているのは幸いである。


引き出しを開ける。閉める。開ける。閉める。

中には殆ど何も残っていない。

手でぐちゃぐちゃに掻き回したように中は荒れていた。


二つ目の部屋―恐らく洗面所―に移る。

そこには、曇りながらも、確かに光を反射する鏡があった。


…ふと、何の気なしに覗き込む…


(……!?)


そこに映っていたのは、映るべくもないものだった。

即ち、鏡に「おれ」は映っていなかった。

映ったのは一瞬だった。

故に、細部は記憶にないが、紅い瞳だけが、焦げたように焼き付いていた。


(……あぁ、そうか)

(…夢、だな)


これは夢であった。

それは確かであった。

なるほど、冷静に考えれば、これが現実なはずはなかった。


起きたら砂漠にいる。

持ち物はない。

見知らぬ言語が溢れている。

異様な人々の姿…


(明晰夢、というのだったか)

(夢ならば、しかる時に覚めるだろう。荏苒と過ごすよりは…)

私は、この時、若干の好奇心が首をもたげていたことを認める他にない。


好奇心は猫を殺す―


事実、それは、ある種の死へと誘うことになった。








(…ない、か)

端的に言って、家に地図はなかった。

いや、それどころか、それ以外のものですらなかった。

金。食料。水。


見つかったのは、ただ用を成さぬゴミばかりである。


略奪者の欲の深さ…或いはのっぴきならない状況…が明らかであった。


(どうしたものか…)


家から出ようとする。階段に足をかけようとして、躓く。


その家階段の前の地上にあった数個のものを、「私」がそれまで幾度もそこに目を向けたにも関わらず、ついに認知しなかった理由を考えてみると、この時の私の意識が、いかに外界を映す状態から遠かったかがわかる。



「物」と私は表現したけれど、人によっては、まだ「人間」と呼ぶのかもしれない。

いかにも、それはある意味で人間だったが、しかしもう人間であることをやめた物体―即ち、屍であった。



ことに、彼らは死体であること既に永く、あらゆるその前身の形態を失っていた。

彼らの衣服こそ僅かに彼らの人間たりし頃の残骸であったが、その色は、見事に周囲の土と同化していた、と言える。

ある者は他の者の脚の上に頭を載せ、またある者はその肩を抱いていた。

伏したる者の臀部の服は破れ、骨が現れていた。



今なお、この過去を回想するたびに、私は酷い嘔吐感に襲われる。


しかし、それは私が今「死とは遠い状態にある」生活を送っているからである。

「おれ」がその時感じたのは、「嫌悪感」ただ一つだけであった。



避けて通ろうとした―その時。

足元から声が聞こえた。

何かの意思を持っていた、というよりも、もっと自然な…呻き…のようなものであった。


生きている。

顔が潰れ、腕が逆の方向を向いて、目が飛び出、耳がちぎれ、足首が三つの死骸を経た場所にあっても…


なお、この男は生きている。




それは、如何にも!如何にも、如何にも、恐ろしかった!



おれは、目を瞑り、闇雲に道を駆け出した。何か、叫んでいたかもしれない。


―そして、強い衝撃を感じ、膝から崩れ落ちた。

ここまでは、覚えている。









風が吹き付ける。

酷く、寒く感じられる。

水汲み場までは大分距離があるため、まだ、着きそうにない。


もう、ここからは思い出したくない。

けれど、脳は再生をやめない。










―目を覚ますと、眼前には檻があった。


(……………!?)




立ち上がろうとして、もつれて転ぶ。

足と手に、鎖がついていた。


鎖の先端は壁に杭のように埋め込まれていて、抜けそうにない。


動けない。


鎖の重さが、冷たさが、そして、牢の湿った腐臭が、圧倒的な現実感を伝えてくる。


(これは、夢では…!?)



カツ、カツ…カツッ…


誰かが階段を降ってくる音。

ひやりと冷たい床。

誰でもいい。気づいてくれ。


その一心で鎖をくねらせる。

じゃらり…じゃらり…


足音が近くなる。やがて、男が私の檻の前に立った。

牢に入ってくる。


…おれの、前に立つ。


「―起きたか」


なぁ、あんた。ここはどこだ?

夢じゃないのか?


「…まだ寝てるようなら水でも掛けるところだったが」


おい、質問に答えてくれないか。

どこだ?何の権利があって、おれを…


「ま、恨むなら自分を恨むんだな」


だから…質問に…


「…!ガタガタうるせぇぞ…ガキ!」



「ぁ…ぇ…」


言葉が出ない。

怖い。怖い。怖い。

全身から血の気が引くのを感じる。

手足から力が抜ける。


「…今は、傷つけるな、と言われてるから…やりゃしねぇが…」


「図に乗るなよ、奴隷」


「俺が強者だ。お前は弱者」


「自分のことは、もう人とは思うな」


……?


「…まだわからないか」

「お前はな、たった今から」


―奴隷になったんだよ。



「ど…どれい…?」

怯えた少女の声が口から漏れる。

違う!これはおれじゃない!


「げ、げんだい、にほんに、おいて…は、どれ、い、せ、せいどは…き、きんし…」


声が震える。

言葉を最後まで言い終わることは叶わなかった。


―男の手が、おれの顔を張り飛ばしたからだ。


「…言っただろ?…お前はもう、人ですらない」


言い捨てて男は去っていった。

おれは、頬をさすっていた。


その言葉を理解したのは、僅かに数分後のことだ。

いや―或いは、もっと早く理解していたのだろう。「おれ」が、許容を拒んでいただけだ。


そして、おれは知った。


おれは、私は―



―無力な、少女になっていたということを。




犯され、嬲られ…人間としての尊厳を踏みにじられた。

快感などない。


一日目。痛みに、思考は出来なかった。


二日目。痛みに慣れてきた。現実を受け入れられず、ただ、「彼らの罪はどれほどの罰になるか」を考えていた。

禁固、十余年。


三日目―酷い出血があった。

あわや死ぬかと、死ぬ方が楽か、とも思われたが、気がつけば治っていた。

この体の、異常な生命力に気がついた。

四日目?…指が取れた。

切断面にあてがっていたら、接合していた。


×××日目―彼らが、おれの身体の特異性に気がついたようだ。

切っては、再び生えてくる。


激しい痛み。不快な痛み。浮遊感のある痛み。

痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。



???日目―最早望みは絶たれた。

助けは来ない。

ならば…いっそ。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。殺して。コロして。ころして…




……殺して、ください。






λΔ日目――扉が開く。


投げ捨てられるように粗末な食事が与えられる。

固いパン、一斤。それのみだ。

全身を使って手を伸ばし、やっとで掴んだパンを必死に貪る。

固くて、口内が痛い。


それでも、食べなきゃ。

死にたい。そう思うけれど、目の前にある食事からは、逃れられない。

何故だろう。


…どうでもいいか。


咀嚼し、飲み込む。唾液が無いから息が苦しい。


―そこで、視線に気がついた。


男がいつも入ってくる扉の隣。

そこに、見慣れない影。

人型。


「…誰だ?」

声はかすれて、自分でも聞こえないほどだった。


[苦しいかい?]


低いとも、高いともつかない、不思議な感触のある声。

影は子供のような輪郭をしていた。

あくまで、輪郭。


「…誰だよ」


[辛いかい?]



「…見りゃわかるだろ」

今や薄く、現実味を失いつつある、おれの家を思い出す。

あそこには何も無かったが、安寧はあった。


意識すれば、涙が出てくる。


「…用はなんだ?」


言って、視線をずらす。


幻覚か。人にしては小さ過ぎるし、この場には不釣り合いにも程がある。


鈴の音を鳴らすような、腹の奥まで響くような、擦れて不快な音のような、そんな声で、囁いた言葉…


[彼らを、殺してしまいたい?]


「………………」


「あぁ。そりゃあ、な」


殺してやりたい。それほど憎んでいるのは確かだ。だが、そんな力があるなら、この地獄からとうに抜け出している。


…しかしこの幻覚、妙にリアリティがある。

滑らかに動き、空中に踊る様子は、小馬鹿にしているようでもあった。


[―殺せる力があったなら?]


「…ねぇからこうなってんだろうよ。

いいから消えてくれ」


会話をするのは苦痛であった。

無論、絶叫の連続によって焼け付いた喉、そして、水分不足による痛みもあったが、それより、私が「生きている」ことを意識させられるからである。


[ねぇ、君は、本当に人を殺せるのかい?]

[本当に、憎んでいるのかい?]


「本当に?」


「本当だね」


その時、事実として、おれの頭の中には彼らを物言わぬ骸として辱める私 おれの姿があった。

哄笑を上げ、髪の毛をつかみ、瞼を開き、恐怖に染まった瞳を抉り飛ばす、そんな姿が。


[…ふぅん?なら、やってみせてくれよ?]


その瞬間、身体を何かが駆け巡った。


「グオオオッ!」

「アアアッ!」

「ぁ…ぁ!あぁあぁぁああ!!!」


溶岩が、虫のように身体を這いずり回る感覚。

全身を焼き尽くされるような痛みが襲う。

「あぁっ…あぁああ!」


身体の奥底が冷え上がる。

パキリ。パキリ。パキッ…

全身の骨が折れ始める。

そして、再度接合される。


痛みに狂えず、おれは意識を手放した。


[今日は、ここまで。また明日、ね。]


機嫌の良い、そんな調子の影の声が、意識を失う直前に耳にこびり付いた。

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