一話
…ただ炎のみがあった。
痛みを感じて目を閉じると、肉の焼ける匂いが強く感じられた。
快感。
下腹部から伝ってくる熱。
それは、呼吸をするたびに激しく湧き上がってくる。
苦しくもなければ、痛くもなく、熱で体が示す反応は愉悦、快楽、快感と「楽」の感情ばかり。
後数分もしないうちに、おれは、きっと、燃え尽きる。
早く灰になってしまいたかった。
楽になってしまいたかった。
どうせこれは夢だ。
早く目覚めなきゃ。
………
炎の向こうに影がひとつ。
それは、こちらに近づいてきて―
ブウウン…ブウウウン…
「―ッ…」
五時を知らせる大時計の音で目が覚めた。
少し頭が重い。不快な感じがする。
風邪でも引いただろうか。
カーテンを開ける。
晩秋であって、日はまだ登っていない。
「うぅん…」
寝巻きの上に簡素な上着を羽織り、鏡に向かい、髪を整える。
…未だ慣れない。
―けれど、映るのは、当然「私」だ。
「…うん、私、だ」
私の口の動きと同じように、鏡の中の少女も口を動かす。
表情は不安げで、葡萄酒のような紅い瞳は怯えているようだった。
首を振り、意識を切り替える。
視界の端に、銀色の糸がたなびくのを認める。
「水を…」
水を汲みに行かなければならない。
それが、私の仕事だからだ。
同時に、貴重な外出の機会でもある。
「彼」はまだ寝ている。静かに出ていこう。
足音を殺して降り、玄関で靴を履く。
「行ってきます」
彼には、聞こえていないはず。
扉の閉まる音を背に、家を出た。
―パタン。
ドアが閉まる。いや、閉める。
息を吸い込む。冷えているが、寒くはない。
朝の、涼しく、静謐な空間は好きだ。
昼は嫌いだ。
…夜は。月と星があるから、最も好みだ。
「…よし」
水を汲みに向かう。一本道を真っ直ぐ、30分歩かなければならない。
冷たい風と代わり映えのしない風景は、嫌な記憶を蘇らせる。
脳裏にこびり付いた、炎と闇…
―目を開けた。閉じている時と風景が変わらなかったから、おれはそれを、暗闇だと初めて認識した。
頭にもやがかかっていて、どうにも、ぼうっとする…
(水…)
起き上がろうとするが、何かに突っ変えて、起き上がることが出来ない。
手を持ち上げて、感触を確かめる。
板のようであった。
少し力を入れる。
すると、持ち上がったようで、「それ」はギィィ…バタン………という音を立てた。
更に強く、押し上げる。
蓋は、存外に呆気なく持ち上がり、見たことがない白い天井がその姿を現した。
見回す。
天井に限らず、部屋は白かったが、生命の息吹が感じられず、如何にも薄暗い、と言った形容が相応しい。
(…喉が乾いたな…)
見たことがない天井や部屋に、不思議にも、私は違和感を示さなかった。
そして、それがさも当然のごとく、水を飲むために、階段を「上がっていった」のである。
階段は異常と言っていいほどに長かった。が、これも結局、後になって気付いたものだ。
「―?」
階段を登りきった。
外に出た。
すると―
砂漠があった。
本当に、そうとしか形容ができない。
ごく自然に、勝手知ったる我が家を歩くように、階段を上って、そしてあったのは、あたり一面の砂。
「は…?」
頭は明晰を取り戻したが、現実はより混沌としていた。
慌てて、今来た道を振り返る。
奇妙なことには、その階段は、消え失せていた。
空の太陽は中点にあり、空気は乾ききって暑さを主張している。
―理解が追いつかない。
昨日は、確か…
そこまで思い出そうとしたところでおれは愕然とした。
「―あ…」
(そんな馬鹿な)
…おれは、おれがおれ自身でないことを発見したからだ。
理屈ではない。
ただ、直覚。
おれは、当然、思考をしているわけだから、記憶があった。
だが、それは記憶、ではなく、何方かと言えば「記録」なのだ。
昨日のことは知らない。
何故ここにいるのかも知らない。
この、果てが見えない砂漠も、照りつける太陽も!
「知らない…」
…然して、おれは、自分のことを知っていた。
年齢。職業。姓名。住所。
何を好むか。なにを厭うか。
けれど、あくまで、それは他人としてのおれであって、「自分自身」ではないのだ。
…畢竟、「誰か他人の記憶のみを、限りなく詳らかに持っていた」ということである。
例えて言うなら、誰かの「人生」という映画を、画面越しに見たような。
兎に角、その記憶が、自分のもの、と言った感じは、全くもって受けない。
「君は、誰だ?…おれは?」
おれは、それに驚愕し、戦き、狂ったように大声をあげようとした。
した、けれど、出来なかった。
不格好に開かれた口からは吐息が漏れるばかり。
浮遊感を感じた。決して、比喩ではなかった。
映像越しに俳優の演技を見たからと言って同じことが出来るか。
曲芸を見たからと言って、同じ芸を披露できるか。
身体を起こす。
辺りを見回す。
四辺には、寂寞とした砂煙。
持っているものは何も無い。
ここがどこかも分からない。
自分のことすら手がかりはない。
しかし、そこで、途方に暮れたわけではなかった。
「おれ」は、「人を見つけることが出来れば、しようもある」
と考えていたからである。
(なんとかなるさ…ならないはずがない)
きっと、誰かが助けてくれる。
そうだ、電話を借りよう。
警察にでも行けば、おれが誰か、それがわかる。
それに―私が、まだ「おれ」でないと決まったわけでもないのだ。
いや、きっと、そうだ。
少し、ぼんやりして、妄想が思考に取って代わっているに過ぎない…
些か虫が良すぎる話だ。
けれど、仕方がなかった。
「おれ」は、平和な国で暮らした経験しかない。
超常的な体験をしたわけでも、ファンタジーな経歴を持つわけでもない。
一般人だ。
前方を覆っていた砂煙が晴れ始めた。
何も無い、と思っていた場所に、微かではあるが、街が見えた気がする。
―行ってみよう。
不安もある。
蜃気楼、じゃないければいいのだけれど…
そんな映画もあったな、等と考える。
きっと、大丈夫だ。少し気分が晴れた。
その映画の結末は知っている。
ハッピーエンドだ。間違いない。
立ち上がる。
靴を履いていたことにそこで気がついた。
黒の革靴。小さく見えるのは何故だろうか。
不安を誤魔化すかのような高揚感と共に、おれは歩き出すことにした。