第5話
あの日以来、わたしは惰性で日々を過ごしていた。
あんなことが起こったら、さぞ毎日ポーッとピンク色で過ごすのだろうと思っていたが、実際はボーッと過ごしていた。
なんだか、心が麻痺している。
思い出すことを拒否しているのだ。
ふとした瞬間に彼の手の大きさや身体の熱を思い出し、駄目だと、頭を振る。
心を無にすることで、思い出すのを防いでいるというのが正しい。
突然、早く誰かと結婚しなければ、と思い立った。
手遅れにならないうちに。
なにが手遅れなのか、と自問するが、すぐに心を空っぽにした。
夕飯の食卓で、良い話がないか父に相談した。
父は難しい顔をしながらも、同時にどこかほっとしていた。
わたしが自分で相手を見つけられないのに、父が探すことを拒否していたので、心配をしていたようだ。
「だからあのとき決めておけば」とぶつぶつ言っていたが「あそこの息子は‥‥いや、年齢的には、こっちのほうが」とやる気を出している。
夕食を終え部屋に戻ると、改めて自分だけ実家に残っていることが寂しくなった。
以前は姉妹4人で使っていて、狭くて仕方ないと思っていた部屋が、やけにがらんとして見える。
この家は、いずれ兄が相続する。
もしこのまま結婚できなければ、兄が結婚してお嫁さんを連れてきても、子どもが生まれても、わたしはここに居候することになる。
家は大きくないので当然部屋は余っていない。
そうなったときに邪魔者扱いされる自分がリアルに想像できて、ぞっとする。
数日後、父が一人の男性の名前を口にした。
ポールという名のその男性は、年齢はわたしの五歳年上で、家族で生活するには困らないだけの土地付きの屋敷を相続する予定なんだとか。
あとは実際に会ってみて、知ればいいと言われた。
近々、彼が出席するパーティーがあるというので、そこで顔合わせをすることになった。
ポールは、取り立てて特徴のない男だった。
目線が合わないし、表情が乏しくて、猫背。だが、逆に言えば気になるのはそれくらいだ。
一般的に考えても悪いわけではない。
モテる男と比べてはいけない。ダヴィド様と比べては。
もっと深く知り合って互いに打ち解ければ、彼の表情も柔らかくなり、魅力的になるかもしれない。
にこやかさを貼り付けた顔の下で、そんなことを考えていた。
お互いの付き添いに紹介を受けたときも、彼はボソボソとなにかしゃべったが、うまく聞き取れなかった。
本当にこの相手で大丈夫なのか、と紹介者の顔をうかがったが、申し訳なさそうな顔をしているという予想を裏切り、ごくごく普通の、にこやかな表情だった。
むしろ、ん?という視線で返され、慌てて正面を見た。
これが一般的な男というものなのだろうか。わたしが贅沢なのか。はたまた恋愛小説の読みすぎか。
気を利かせた付き添いにより、わたしたちはパーティー会場の、柱で少し影になったところで二人で話した。
二人きりになった途端、ポールはジロジロとわたしの上から下までぶしつけに視線を走らせた。
さっき付き添いと一緒にいたときは大人しかったのに、なんだか急に横柄になった。
「きみは、どうして僕と結婚したいと思ったのかなぁ。」
はぁ、とあからさまなため息をつかれた。
「僕は、去年の社交シーズンでうまくいかなかったから、父に頼んだんだけど。恥ずかしいけど、これで二年目‥‥。今年決まらなかったらと思うと、ゾッとするよ。何年も社交界に来る中年がいるけど、ああはなりたくないからなぁ。」
早口でボソボソとしゃべるポール。さっきより若干声が大きいだろうか。
相変わらず覇気はないものの、歪んだ笑いを浮かべている。この顔なら、無表情のほうがマシだ。
しかも、ポールの言っていることは少し違う。
わたしはポールを名指しして結婚したい言ったわけではなく、正確には、ふさわしい相手を紹介して欲しいと言ったのだ。
訂正しようか迷ったが、この話を持ちかけるのに当たって、父がうまく話を作ったのかもしれないので、黙っておいたほうが賢明だ。
「きみは三年目だから、僕よりもっと後がないでしょう?僕が女性に求めるのは、従順で、清潔で、僕のことにあれこれ口を出さなくて、倹約家なこと。もしきみがそうなら、きみに決めてもいいかもしれない。」
僕だって三年目の女を娶るなんて恥ずかしいけど仕方がないよね、と不本意そうにポールは言った。
三年目というのは、ここまで貶められなければならないのか。
どうかわたしに決めてくださいとへりくだらなければ、こんな配慮のない男と結婚することさえできないのか。
わたしは笑顔を保つ努力を放棄した。
無理だ。
断ろう。
でも、無作法にしてはいけない。
それとも、これは怒ってもいい場面だろうか。
「あと、僕の言うことは絶対だからな。今みたいな生意気な態度をとったら許さないから。返事は?」
わたしの表情が、すっと抜け落ち、ぞわぞわと肩に震えが走った。
お腹の前で組んだ手に力を入れ、自制心をかき集めた。
相手に見えないように、左手の親指の爪を右手の手のひらに食い込ませて、意識をそらそうとした。
そうでもしなければ、怒りを拳にのせて叩きつけてしまいそうだ。
平手打ちくらいならしていいような気がする。
いや、駄目だ。
この男のために、自分の評判を落とすことはない。そうだ、きっとこのポールも、自分の好みの女性相手だったら、こんな態度は取らないはずだ。自分の魅力のなさを恨みこそすれ相手を非難してはいけない、と自分に言い聞かせた。
一抹の不安がある。
父がこの男を紹介したということは、他の候補はもっと酷いのかもしれない。
一番マシなのがポールだとしたら、簡単に断っては損をするかもしれない。
もし断るにしても、恨みを買うとあることないこと吹聴される恐れがある。
ここは穏便に済ませて、父に他の候補者の話を聞くべきか。
そう頭の中で計算していたとき、わたしが背にしている柱の反対側から、爽やかな笑い声がした。
「ははっ、面白い。そんな条件を女性に叩きつけられると思ってるとは。どんな男なのかぜひ見てみたいな。」
柱の陰から現れたのは、ダヴィド様だった。