第16話
この手袋は、知ってる。
姉さんたちが持っているのと同じで、姉たちは社交界にデビューするときのためにと与えられていた。
もちろん、こうした特別なおみやげとしてではなく、必要だからという理由で。
この花も、クレドルー平原に自生しているのを見たことがある。
わざわざ摘んできてくれたものだと思えば嬉しかったけど、複雑だった。
望みのものが思いつかなかったとはいえ、はしゃぐ姉たちを見てうらやましくないわけじゃない。
そんな気持ちが外に出ていたのか、父さんが『こんなものしか思い浮かばなくてな。』とすまなそうに言うので、わたしは父を悲しませないように『ううん、嬉しい。』と精一杯の笑顔を作った。
『見て見て!このスカーフ、この水色のドレスにとっても似合うと思わない?さすがカリドゥだわ!』
『本当ね。帽子に結んでもかわいいんじゃないかしら?うん、やっぱり。ねぇ、今度わたしの持ってるスカーフと交換して使いましょうよ。』
『えー、その帽子を貸してくれたらね。』
花は、母に頼んで食卓に生けてもらったけれど、一週間ほどで枯れてしまった。
手袋は衣装箱の隅の、目につかない場所にしまっておいた。
後になってうじうじ言うくらいなら、欲しいものを言えばよかったのだ。
あの時言わなかった自分が悪い。
こんなことはしょっちゅうで。
わたしの遠慮や我慢は両親には伝わらない。
両親から見て分かりやすく要望を伝える姉たちとは違い、わたしはなにを考えてるのか分からない、難しい娘だったんだと思う。
無邪気に頼りにしてくれる娘の方が、父だってかわいいに決まってる。
両親に対して遠慮するほうがおかしいって、分かっているのに。
分かったような振りをして、でも心の中はもやもやで。
姉たちみたいに、欲しいものを欲しいと言えるのがうらやましかった。
そうは思っても、うまく甘えられない。
これはもう性格だから、変えられないのかもしれない。
自分から壁を作って、距離を置いた。
どうせ、理解してくれないから。
どうせ、わたしはかわいくないから。
そんな劣等感の反動で、逆に姉たちを見下していた。
なにも分かってないくせに。
そう心の中で呟いて。
それなのに、結局最後まで親のすねをかじるのは姉たちではなくわたしのほうだった。
クレドルーを追い出されて両親が困っている時、それでも住む場所を提供できた姉とは違い、わたしはなにもできなかった。
そんなもどかしさまで含めて兄にぶつけてしまった自覚があるだけに、申し訳なさがつきまとう。
ガラガラガラガラ。
ふっ、と頬を風が撫でていく。
クレドルーの草原の匂いがする。
『敬語はいらないと言っただろう。』
ダヴィド様はどういうつもりで、あんなことを言ったんだろう。
まっすぐで、行動力があって。
停滞した空気をするっとほどいてくれる、風のような人。
『なにをするだって!?お前はあの男の慰み者になりたかっていうのか!』
パルクスの部屋から強引に連れだしてくれたこと、本当は嬉しかった。
ああでもしなければ、わたしは意地を張ってしまって、後に引けなかった。
ダヴィド様。
わたしが周囲に張り巡らせた壁を壊して、内側に入って来てくれる人。
わたしを叱ってくれる人。
そんな人には、これまで出会ったことがなかった。
ガラガラガラガラ。
グラッ、と大きく頭が揺れた。
視界がぼやけて、うまく像を結ばない。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなったが、ガラガラと鳴る車輪の音に、徐々に身体の強張りをほどいた。
頭を元通り安定する位置に戻して、ふう、と満足して再び目を閉じた。
視界を閉ざしながら、まだぼんやりした頭で、どうやら眠ってしまっていたみたいだ、と考えた。
揺れが心地よくて、風もさわやかだ。
どれくらい時間が経っているか分からない。
ふと、まぶたにかかる前髪を左手でよけようとして、腕に当たっているなにかに気が付いた。
そういえば、さっき薄目で見た時に、ダヴィド様がいただろうか。
眠る前まで、正面の席に座っていたはずなのに。
意識が段々と覚醒してきた。
それと同時に、左腕に触れるあたたかいなにかが、じわじわと存在感を増していく。
自分がいま頭を置いているものがなんなのか、ものすごく気になる。
しかし、見るのが怖い。
まぶたをゆっくりと上げて、そろり、と瞳だけ動かして隣を見上げた。
すると、思った通り、隣にダヴィド様が座っていた。
眠る前までは正面に座っていたのに、どうして隣にいるのだろう。
それに、距離がものすごく近い。
左側の腰から上がぴったりとダヴィド様に触れていて、もたれかかるような形になっている。
ダヴィド様のまぶたは閉じられ、眠っているように見える。
光に透けるまつ毛が、男性に対して使う言葉としてはおかしいのかもしれないけど、綺麗で見とれた。
頭を動かさないようにしながら観察していると、ぴく、とダヴィド様の身体が動いた。
わたしは急いで目を閉じた。
自分でもなぜかよく分からないが、とっさに眠ったふりをしてしまったのだ。
ダヴィド様はわたしが起きていることに気付いていないようだった。
「んん。」と伸びをするような、小さな声が耳に届く。
車輪の音と鳥のさえずりだけが聞こえる、静かな空間。
のどかさとは裏腹に、だんだんと緊張が増していった。
これは、一体どのタイミングで目を覚ませばいいんだろう。
ダヴィド様の肩にもたれかかるわたしの頭が重くないかどうかも気になる。
そのぎこちなさをどう思ったのか、ダヴィド様の腕の筋肉が、ぐ、と動いたのが、触れている部分を通じて伝わってきて、次の瞬間わたしの頭は右側から押されてダヴィド様の肩に押し付けられた。
ダヴィド様が、わたしと接しているほうとは反対側の手を伸ばして、わたしの頭を自分の肩に寄りかからせたのだ。
そして、ぽんぽん、とまるで幼い子をあやすかのように軽く頭を叩かれた。
しかも、それで終わりではなかった。
彼は、すり、とわたしの頭に自身の頬を擦り付けたのだ。
一気に体温が上がった。
ドッドッドッ、と心臓が強く脈打っている。
いまさら、実は目が覚めてましただなんて、間違っても言えなくなってしまった。
恥ずかしすぎて。
同時に、くすぐったいような、じっとしていられないような、甘い充足感が胸に広がっていった。
クスクスと笑いだしそうになって、ムズムズする口元を、なんとか引き締める。
さっきまで自分自身をさいなんでいた悪いものが霧散していた。
たったこれだけのことで、なんて簡単な。
自分を嘲笑う声が心の内から響いてきたが、いつもの空虚さはなく、その声すら甘さを含んでいた。
確かに、舞い上がっている。
こんこんと湧き上がる幸福感に酔っていて、頭ではなにも考えられないというのが正しいのかもしれない。
これまで、直感や感覚的なものを信じず、分析的に考えるように自分を律してきたつもりだ。
美しく装うばかりが女の価値じゃない。
頭で考えられることが、わたしの強みだもの。
きっと、こんなわたしを必要としてくれる人がいるはず。
そんなふうにぐるぐると考えていたことも、築き上げたプライドも、この幸福感の前では無力だった。
まるで。
ここにいていいんだ、と。
お前の居場所はここだと言われているようで。
その後。
起きるタイミングを完全に逸してしまったわたしは、その後馬車が止まるまで、不自然ではない「いま起きた」の演技をずっと考えていた。
働かない頭で、考えていたのだった。




