第15話
軍の外に出ると、来るときに乗った馬車が外で待っていた。
再びダヴィド様に手を支えられて、馬車に乗り込む。
ダヴィド様が御者に行き先を伝えると、馬車が走り出す。
ひとまず、ダヴィド様のお屋敷へ。
一度お屋敷に寄って、わたしの馬に乗り換えなければ。
とにかく早く帰りたい。
昨日からめまぐるしくいろいろなことが起こって、頭が整理できない。
まぶたを閉じると、目がしょぼしょぼと染みてくる。
ダヴィド様に感謝をすればいいのか、それとも責めればいいのか。
わたしのことなのに、知らないことが多すぎて、勝手に話が進んでいってしまうのが怖い。
でも少なくとも、ダヴィド様が助けてくれなければ、今頃わたしはパルクスの餌食になっていた。
わたしを魔の手から救い出して、会えないと思っていた兄に会わせてくれた。
たとえそれが彼自身の目的のためだったとしても、感謝するべきだ。
「ありがとう。」という言葉を発したいのに、まぶたを上げる力さえ湧いてこない。
馬車の心地よい振動が身体に伝わってくる。
身体が重くて動かない。
やっぱり、このまま家に送り届けてもらおうか。
わたしの馬をひとまず預かってもらって、後で取りに行けばいい。
ああ、でも、そんな訳にはいかない。
ダヴィド様と一緒に帰宅したら、大騒ぎになってしまう。
近くで降ろしてもらって徒歩で‥‥今度は馬をどうしたんだという話になるか。
適当な言い訳をして一泊したのに、さらなる言い訳なんて思いつきもしない。
もしダヴィド様が現れたら、姉夫婦はきっとすごく慌てるだろうな。
くす、と笑いがこみ上げてくる。
どうぞどうぞとダヴィド様を歓待して、根掘り葉掘りいきさつを聞きたがる様子が目に浮かぶ。
偉そうな姉の夫がへこへこする姿を見れば、さぞ胸がすくことだろう。
姉の屋敷での待遇も少しは改善するかもしれない。
でも‥‥。
一瞬膨らみかけた気持ちが、しゅんとしぼむ。
まるでダヴィド様と親しいかのように振る舞おうとするだなんて、恥ずかしい行為だ。
事実とは違うのに、そう見せかけようとするだなんて。
たとえセザール様のためとはいえ、わたしを助けようとしてくれているダヴィド様を、利用することになる。
そんな浅ましい気持ちをもし見透かされてしまったら、もう二度とダヴィド様の前に立てない。
ダヴィド様のことを紹介して家族を驚かせてやりたいという誘惑が、心のどこかで捨てきれない。
でも、その後のことを考えると紹介しないほうが賢い。
後々まで家族の会話にダヴィド様の名前が出てくることになれば――例えばダヴィド様とマリーが結婚してからも――苦しむのはわたしだ。
ダヴィド様とのことは、わたしの胸の内に秘めておけばいい。
でも、とまた反対の声が頭の中から上がってくる。
家族に紹介すれば、わたしとダヴィド様の繋がりは、より深くなる。
家族ぐるみのお付き合いになれば、そう簡単に縁が切れたりしない。
ダヴィド様とわたしをつなぐ糸は、多ければ多いほどいい。
それに、ダヴィド様が同席してくれれば、パルクスのことを父に相談できるかもしれない。
‥‥そう説得すれば、ダヴィド様はわたしの両親に会ってくれるかしら。
ガラガラガラガラ。
あざとい、かな。
あざといよね。
ダヴィド様に、結婚を狙っていると警戒されてしまうかな。
拒絶されるかも。
でも、兄には会ってくれたし、自ら関わろうとしてくれている。
だから、もしかしたら。
思考がバラバラと散らばってゆく。
ああ、どうしよう‥‥。
なにも考えられない。
ガラガラガラガラ。
『なにこれ。なんのとりえもない普通の女が?御曹司に愛される?はっ、そんなの現実にあるわけないじゃない。』
わたしの恋愛小説を部屋に置いてあるのを目ざとく発見した姉は、それをパラパラとめくって鼻で笑った。
ああ、これは姉が結婚する前のことだ。
ジクジクと胸が痛む。
御都合主義の恋愛小説。
現実がそんなに甘くないことくらい、分かってる。
『わたしだって、そんなことくらい分かってるわよ。こんなの‥‥ただの物語よ。』
小説を姉の手からさっと奪い、背に隠した。
姉はすぐに興味を失い『どうでもいいけど』と鏡で帽子を合わせながら言った。
『早く現実を見なさいよ。あんたみたいな子が、大きな望みを持つもんじゃないの。』
『別に、わたしは‥‥。』
『素敵な人がいたとして、その人を好きになるのは勝手だわ。でも、恋愛と結婚は別。なんだかんだ、父さんが選んだ普通のかたと結婚するのが一番いいのよ。だって、わたしたちは生活していかなきゃいけないもの。恋愛で腹は膨れないわ。』
わたしは顎をツンと上げて姉に言い返した。
『姉さんが人のことを言えるわけ?』
いい男がいないと散々ボヤいていたくせに。
口答えするわたしに、姉はいつものように目を釣り上げたりせず、振り返って唇の端を上げた。
『言えるわよ?だって、結婚するもの。父の選んだ、普通のかたとね。』
『結婚‥‥決まったの?』
夢を見るのはもうやめ。
大人になったの。
姉はそう言った。
あの頃はただ嫌なことを言われたとしか感じなかったけど、今になって思えば、姉は恋に破れたのかもしれない。
この時のわたしは、分からないなりに焦燥に似た息苦しさを感じて、鎖骨のあたりを手で押さえたのを覚えている。
大丈夫。
わたしだけじゃない。
きっと姉だって、恋の痛みを味わっていた。
もしかしたら、ほとんどの女性も同じで。
金髪が脳裏にチラつく。
でも、きっと彼女は例外ね。
金髪マリー、あなたは完璧だわ。
ガラガラガラガラ。
『娘たち、おみやげはなにがいい?なんでも買ってやろう。』
今度は、もっと昔、姉が社交界にデビューする前の記憶だ。
一年に一度、父は領地の田舎を離れて都会に滞在する。
一カ月近く家に家族を残していくので、代わりとばかりに大盤振る舞いする。
『都にしかない帽子屋があるの!』
『わたし、カリドゥのスカーフがいいわ!』
ここぞとばかりに口々に望みのものを口にする姉たち。
『父さん。』と妹が父の注意を引き、控えめな上目遣いで『わたしね、スカートの広がったドレスが欲しいの。姉さんたちのおさがりだと、流行遅れで‥‥こんなにしぼんだスカートを着ているのなんて、わたしくらいだわ。』と訴えた。
それを見た姉たちが『ずるい!』と言いだして『だったらわたしも』とドレスをねだる。
『おいおい、破産してしまうぞ。』と言いながらも、父は笑顔だった。
結局母が口を挟んで、姉たちは帽子とスカーフ、妹はスカートを膨らませるためにスカートの下に履く流行の下着に決まった。
『モニークはなにがいい?』
残りはわたしだけだった。
「‥‥わたしは、特に。」
かわいいドレスや帽子は好きだけど、姉妹ほどの興味は持っていない。
姉たちの言うブランド名も分からないくらいだ。
価値が分からないのに高いものを買ってもらってももったいない。
姉たちは知らないかもしれないが、我が家にそれほど余裕があるわけじゃない。
なにかと外出する姉妹たちとは違い、家にいることの多いわたしは、自然と両親の会話が耳に入ってくる。
だから父に対して、母が「お金を使い過ぎよ!」と釘を刺しているのを知っている。
そんな状況のなかで、無理に買ってもらうほどのものはなにもない。
逆に、値段も考えずにおねだりする姉たちにイライラする。
少しは遠慮すればいいのに。
父は困ったような表情で『そうか。なにかお前にいいものがあったら買ってきてやろう。』と言って、都市へと旅立った。
帰ってきた父から帽子やスカーフを受け取る姉たち。
少し離れたところから見つめていたら、父がわたしを手招きした。
『モニークには、これを。』
渡されたのは手袋と花だった。




