第一章4 草原の上で
草原の上で
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そよ風によって運ばれた花の香りが、スグハの鼻を通り抜けて、再び彼方へと還っていく。
不穏なものが微塵も混ざっていない純粋なその空気が、あの夜の道路がどれだけ危険だったかを示しているようだった。
そして、フィアーの異質さに共鳴していた空気も、今は静かに舞っている。
「落ち着いたか。ゆっくりでいいから、少し話したい」
スグハの体調を気遣いながら、落ち着いた調子で話す。その低い声には、優しさのみが渦巻いていた。
フィアーに言い放った時の声とは違い、威嚇のような感情は無いように感じる。
そして、その言動の一つ一つに、スグハを気遣う心が映し出されていた。
初めて会った時の印象の『怖い』という印象とは程遠い。
「うん、ありがとう…。私も話したいし、あなたについて知りたい」
お互いのことについて何も知っておらず、ただ、スグハを救った他人にすぎない。
それに、聞いておきたいことも多くある。この草原は一体どこなのか、一体何者なのか。
彼女なら答えてくれそうだ。
スグハがそう言うと、彼女は微笑みをこぼした。
「私の名前はナギサ。昨日の夜、君を助けた者だ」
低い声で、ナギサは答える。そのはずだろうと想像はついていたが、やはり、彼女がスグハを昨夜、助けてくれた本人だった。
何よりの証拠といえば、やはり声だろう。それに、担がれていた時と同じ香りがする。
そんなことを考えているうちに、ナギサは黙ってスグハの目を見ていた。
まだそれほど信頼関係を築いていないためか、それ以上のことは話そうとしない。
ならば、スグハ自身のことも明かさなければ話は進まないだろう。
「…私はスグハ。日夕市の、あれだ…高校生です」
少しぎこちない自己紹介だった。それもそのはずだ。なぜなら、スグハは友人を作ろうともしないし、紹介される機会はそもそもない。
友人と言えるのは、クラスでからかってくるナツキ程度であり、彼女は男女共に評判が良く、スグハのような怖い奴……クールすぎる奴にも話しかけてくれる。
そんなナツキに話しかけられているのだが、人は寄ってこない。
次に出すべき言葉は何か考えてみる。たった一人の友人と培ってきた対話技術を活用する時が来たのだ。
「パセリが好きです…」
間違った。いや、間違ったでは済まない。
完全に変なことを言ってしまった。
どんな顔をされているか想像もしたくないが、ナギサの整った顔面を見てみる。すると、想像とは違った、優しく微笑んだ顔があった。
「あぁ…私もパセリはよく食べる。美味しいよな。それに、私は剣士と魔術師を仕事にしている」
サラッと流された。スグハの突拍子もない好きな食べ物について、それは川のように流された。しかも美味しいと言ってくれるとは、ナギサの気遣いには………。
またもやサラッと、わけの分からないことを聞いた気がする。
「…もう一度いいですか?仕事の内容がちょっと…」
申し訳なさそうにナギサにもう一度聞いてみる。
「……?私もパセリはよく食うと…」
「違う違う。あっ…違います。その次に言ったことです」
「美味しいよなと」
ナギサの理解力の素晴らしさに、スグハは頭を抱えた。
いや、これはナギサのせいではなく、スグハの説明力に問題があるだろう。
言葉を発しただけで理解してくれるという甘い考えを持つスグハの方が悪いのだ。
少しだけ反省しつつ、ため息をこぼす。
「職業について、もう一度聞きたいのです」
「あぁ、それのことか。私は剣士と魔術師を仕事にしている」
ファンタジー小説とか、異世界アニメでしか聞いたことのない単語が混じっていることに、スグハは困惑の表情を隠し切れていない。
あまりに話が飛躍しすぎているから。
しかし、嘘を言っている感じもしない。
「魔術師……」
その言葉をもう一度、自分の口から出してみる。
ナギサが厨二病か、それとも本当にそういうものが存在する世界に入り込んだのか。
恐らく、前者のほうだとスグハは考えるが……。
スグハは強そうな人の、あるいは目上の人の話を間に受けてしまう性格を持っているのだ。
たとえ、嘘であっても、それを本当のことと受け取ってしまう。
「あぁ、魔術師だ。聞いたことはないのか?」
全くもって聞いたことがない。
スグハはそう言える自信が大アリだ。
いや、漫画とかでなら聞いたことはある。でも、それを職業にしてる人なんて聞いたことがなかった。マジシャンと名乗るならまだわかるのだが。
「私は、いろいろな精霊と契約を交わしている。数千体と契約しているはずだ」
「……え?」
突然出てきた契約と精霊。そして、その数の多さ。
もしかして…ナギサは相当ヤバい奴なのではないか。
精霊を、彼女の友人に置き換えるとすれば、千人という恐るべき数の友を持つことになる。
スグハの頭は、情報量の多さにパンクしそうになった。
※
スグハが、フィアーに襲われたその夜。
「あの…娘が帰ってこないのですが?」
スグハの母―スグミが、受話器を右耳に当て、昭和のおかんのように話している。
受話器を持つ手が震えており、その声も共鳴していた。
「既にスグハさんは学校から下校したはずですよ…?もしかして家にまだ帰ってこないんですか?」
スグハの学校の担任が最悪のケースを想像して、スグミに問いかける。
残念ながら、その最悪のケースの通りだった。
スグミの頭に、不安と心配が渦巻き、目の奥が熱くなるのを感じる。
今取り乱したらダメだ。落ち着かないと状況は変わらない。悪くなる一方かもしれない。
唇を強く噛み、暴れそうな心を封じ込める。
「はい…まだ家に来なくて…」
すると、担任は「えっ!?」と大きな声を出した。下校時刻は午後五時。
それに対して、現在時刻は午後八時半。
いつもなら七時前には必ず帰ってくる。
携帯は持たせているため、電車が雪で遅延とか運休している時は電話してくるはずだ。
もしかしたら、電池が切れてて使えないかもしれない。
考えれば考えるほど、立ち込める不安の霧が、さらに濃く襲ってくる。
「まずはお母さん、落ち着きましょう。雪の季節ですし、電車が遅延しているかもしれません。サポートするので、まずは落ち着きましょう」
担任の親切さに、スグミは深呼吸をしながら、溢れ出そうな涙を引っ込めようと努力する。
しかし、なかなか引いてはくれず、些細なことでも泣き出してしまいそうになってしまう。
落ち着かないといけないのに、冷静に対応しないと状況は悪くなってしまうとわかっているのに、心は素直に体に反応させる。こういう素直なところを、今は憎むしかない。
「ありがとうございます…先生…」
震える声で、答える。
沈黙の時間が流れ続け、耐え難い不安を抑え込む。張り詰めた空気の中に、受話器から待機している時の音楽が流れ始めるが、今はその音楽が不気味でならない。
呆然と聞き続けること約十秒。
音楽が止んだ。
「電車は通常通り運転しているみたいですね…」
担任のその言葉に、スグミは言葉を詰まらせる。つまり、スグハが帰ってこないのは電車が理由ではなく、他の要因によるもの。
「なんでだ…なんで…」
言葉が出ないスグミに対して、担任は他の職員と話している。その騒がしい右耳と沈黙の左耳を、不安で固まった体の中を駆け巡るように響く。
愛する娘に不幸なことが起こるなんて、想像したくない。
スグハのことを、もう泣かせたくない。
一人にさせたくない。
父親を失ったあの子に、もう涙を流してほしくないと願うスグミは、溢れ出した涙の味をただただ感じることしかできなかった。
第一章4 終




