第一章2 現実と幻覚
現実と幻覚
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「おねぇちゃん…なんで無視したの?」
背筋も凍るようなその声が、冬の風に乗って漂ってくる。冬の寒さと恐ろしさが累乗して、スグハの足をすくませた。その眼光に色は無く、何を考えているのか分からない。
憎悪か、呪いか、妬みか、それとも全てが混ざっているのか。
スグハの感じるものでは、測ることはできない。
うるさく鼓動は鳴り響き、本能は警鐘を鳴らしている。得体の知れぬものが、己の存在を認識しているという事実だけで、逃げ出したくなるほど、怖い。
「ねぇ…聞いてる?」
コイツとは関わっちゃいけない。
スグハの本能だけは、恐怖に屈することなく本来の働きをしてしまう。
いわゆる、生存本能だ。考えるより先に、足が動いた。
滑ることも考えられず、その場から逃げ出したかったのだ。
その少女はスグハを睨むように目線を追いかける。
「はぁっ……はぁっ…どうだ…?」
左に曲がり、走り続けた。
これなら、家の敷地に入っているはず。
少女の顔を見ないために、俯かせていた顔を上げてみると、
「おねぇちゃん…なんで私を拒むの…?」
その少女が、目の前に居た。左に曲がっても、それは無意味であり、逆に自分を危険に晒すだけの行為だったことに今更気づく。
街灯の下に入り込んでしまった。この道は、無限にループしている。
冷えた存在を前に、体が凍り、息は凍てつくように寒く、思考は固まった。
声も、出す余地がなかった。
「あっ…」
「なんで私を拒絶するの?なんで怖がるの?なんで逃げようとするの?なんで?なんでなの?なんでなんで?なんでなんでなんでなんで?」
少女は壊れたように、疑問の言葉を浮かべる。
スグハは足が震え、本能も使い物にならないほど侵食されていた。
「あぁ、そうなの。別にいいけど。へぇ、なるほど。わかったわかったわかったわかったわかったわかったわかった」
降り落ちる雪が、この少女に共鳴するように、地面につく前に消滅していく。地面を見るしか、できない。
零れ落ちる涙すら、許しがない限り流してはいけないと感じるくらい、
この少女は、歪んでいた。
瞬間、少女はスグハの肩を強引に、離さないように、逃がさないように、掴んだ。肩が軋み、痛みに奥歯に力が入った。
瞬間、体に悪寒が奔る。感じる手の感触は、この体から体温を奪うように冷たかった。
「いや…いやだ…」
その声すら、冷気に変えられてしまう気がした。だって、その言葉の意味は、意味を無くしてしまったから。
拒絶を拒み、恐怖を禁じ、逃げることを許さない。
スグハのこの身は、少女の気分次第で生きるか死ぬか決められるのだと、その冷気は語っている。
「ははっ、ははははははっ、ははははははははははははは。さぁ、さぁさぁさぁさぁさぁさぁ!私といこうよ」
肩から感じる、冷たさとは逆の熱。それに加えて、足から先の感覚が鈍くなってくる。徐々に視界も歪み、震えていた寒さも消えていた。
終わりだ。終わりなんだ。
これが幻覚と信じるには、あまりに難しい。
終焉を迎えるスグハの意識は、氷の様に溶けていく……。
「静かな夜に似合わぬ笑い声だ。お前はここにいるべきではない。フィアー」
意識を手放しかけたその瞬間、低い声が、耳を揺らした。
第一章2 終




