3.魔法とは
✢¦✢
ここは居心地が良い。
自分――柊霞にとっては、どこよりも落ち着ける空間だ。
客が多く、騒がしいと感じる時もある。
それでも、居心地はとても良い。
ずっとここにいたいと思える空間でもある。
きっと、自然素材が多く使われているのも理由の一つだろう。
学校の課題をこの喫茶店でしようと提案したとき。その時だけは、少し面倒だった。
紗綴にとっても移動しなくて済むから提案しやすかった。
しかしだ。
碧羽と紗綴は俺の提案に驚き、鬱陶しいくらいからかってきた。
その様子で同意を示したと分かり、即決定とはなった。
仕事のため動き回る紗綴に。出入りの多い常連客や、時々入ってくる女性客。
店員は主に紗綴が担当しているらしい。
時々、数時間だけのバイト店員も入るが、キッチンが中心らしい。
ただ、長年通い詰めている喫茶店で、一つだけ疑問があった。
それは……〝店長という人物に会ったことがない〟ということだ。
単純な疑問だが、紗綴が店長だと思うお客さんも多いと本人から聞いた。
もしかして、あの子が…?
先ほど、ドア前に佇んでいた少女を思い出す。
いや、そんな訳はないか……
柊霞は肘をつき、顔を乗せる。そして課題のノートに描いていた落書きを消しゴムで消す。
それから課題を七割ほど終え、昼の二時を過ぎた頃だった。
客は帰り、店も静かになった。
「ふー、一段落だよ〜」
「お疲れ様」
碧羽は注いだ水を紗綴に差し出す。
「ありがと」
紗綴はグビッと飲み干す。相当喉が渇いていたようだ。
あっと口を開け、反射的に何かを思い出す。
「どうしたの?」
「さっきの少女のこと。君たちがビビらせた子のこと、気になるんでしょ」
「言い方ねぇ。間違ってはいないけど」
パーカーのフードを深く被り、まるで人を拒絶するかのように走って行った。
それに…何だろうか、呼吸も苦しそうだった。
いや――分からなくなっていたのか。
柊霞は紗綴を見て、無自覚に真剣な目で口を開く。
「それは、俺たちに言って良いことなのか」
柊霞の目と合った紗綴の目は見開かれ、碧羽もバッと柊霞を見る。
二人の目は、まるで絶滅危惧種を発見したかのような目で、柊霞に向けられた。
柊霞本人は瞬きを二、三度し、次の瞬間には顔をしかめる。
はぁ、何だその目は。というか、またか。
その珍しいものを見るかのような目……何か変なことを…いや、言ってない。
柊霞は一応、今までの会話を振り返るが、何もそんな目をされるようなことをした覚えはない。
「春だよ、春。ハル、はる〜」
「うん。春だね。ついに春だ」
「キャー、柊霞を好きな子たちは梅雨だろうけど、春だよ」
「嬉しい限りだよ、梅雨でも、春だ」
碧羽と紗綴の二人が興奮気味に話し出す。
さっきから、この二人は何を…阿呆らしい。
柊霞は目を細め、冷たい感情のこもった視線を二人に向ける。
しかし二人の雰囲気は、ぽかぽかと暖かく、妄想の世界を醸し出していた。
もう――どうでもいいや。
そう思った柊霞は大きな欠伸をする。
「そう、聞いてよ!」
そう言って紗綴が出したのは茶葉とクッキー。
テーブルに乗せると、碧羽は茶葉を手に取る。
「これって、茶葉だね。でも…匂いが‥」
手に持っていない柊霞の所にさえ、顔を少し近づけるだけで届く独特な匂い。
緑茶ではなく、火を通したような…微妙な土とバニラの匂い。さらに甘さも混ざっている。
「ダミアナの茶葉に近いな。ただ失敗したのか」
紗綴と碧羽は、柊霞に視線をパッと向ける。
「さっすが、坊っちゃん」
「それと学年上位」
溜め息をつきそうになる柊霞。
それより気になるのは…クッキーだ。
柊霞はクッキーを手に取り、鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。
二、三度嗅いだ後、鼻から離し、手で扇ぐように風を送って匂いを飛ばす。
――分からないけど、中々だな。
独特すぎる…これを作った奴、もう少し練習すべきでは?
匂いを嗅ぐだけで何も言わない柊霞の様子を見て、紗綴が言う。
「流石の柊霞でも分からないか」
「……ん」
「やっぱりあの子が凄いのね」
「あの子…?」
「このクッキーは何だっけ、あれ。ムイ、ムイ、ムイムイ、ムイラプ…あれ」
碧羽も一緒に頭を悩ませるが、わからない様子。
ムイラプ…あ。
「ムイラプアマ」
顔を傾け、聞いたことのないハーブの名前に知らない表情をする碧羽。
紗綴は「それ!」と柊霞を指差す。
紗綴のヒントがなければ分からなかった。
それに実際に見るのは初めてだ。まぁ、クッキーにはなっているが。
元々香りが強い分、食べ物に加工する場合は技術が必要なはず。このクッキーも強い香りはあるものの、抑えてある方だろうか。とは言ってもなぁ。
「で、なんかこの茶葉とクッキーを一緒に食べたり飲んだりするのはダメらしくて」
「まぁ、健康を越して毒のような匂いはするけど」
碧羽は未だに持っていた茶葉をテーブルに置き、肘をつく。
「ある意味、毒なのかも」
「ある意味?」
「媚薬になるらしい。あ、でも――」
碧羽はガッと椅子を思いっきり後ろに引き、紗綴の肩に手を置いて言う。
「紗綴、お前。そういう趣味があったのか」
その言葉を理解したとたん、赤くなる紗綴。
「んなわけないでしょ!お客さんから貰っただけだっつーの!変な勘違いすんな!馬鹿碧」
そんな二人をスルーして、柊霞は考えていた。
市販のダミアナはこんなに匂わない…ということは、客が作った自家製か。それに、媚薬よりも健康的な影響のほうが大きいはず。
ダミアナは知っていた…と、してもだ。ムイラプアマまでも。
作ったやつも知識があってのことだろう。
紗綴は何だかんだ、ストーカー気質で常連客をさせる、または寄せ付ける体質を持っている。
だが、それを見抜いた人物も…。
「その媚薬って教えたのって」
「だから媚薬じゃないって!健康被害の方が強いって!!」
「分かってる」
「なら良かった。それはね、君たちが脅かした少女だよ」
「言いがかりが過ぎる!脅かしてはない、結果そうなっただけで」
ハーブ系に詳しい、それとも植物に詳しいだけか?
それか相当察しが良かったり、嗅覚が優れている人物。
いや、嗅覚だけで名まで分かるはずがない。多分、この人物は知識を持っている。
シャーペンを指先に持ち、器用にペン回しをする。
それよりも、この二人の茶番はいつまで……続くのか。
未だに続いている言い合いという名の紗綴と碧羽の茶番劇。
柊霞は横目で見る程度。
それ以上は何もせず、何も言わず、ただ残りの課題をササッと終わらせていく。
✢¦✢
それから十五分後。
先程まで続いていた碧羽と紗綴の茶番劇は、ようやく幕を閉じた。
紗綴は真面目な表情で、近くの椅子を引き寄せて座る。
そして二人に向けて話し始める。
「大前提として、鈴は――視線恐怖症なの。そのせいか、自分から外にはあまり出ようとしないの」
視線恐怖症を治す――というのは容易ではない。
ただ、少しだけでいい。改善してほしい。鈴のために――。
それだけを願っている。
「本当は、ここに来ることさえ…難しいと言うか」
柊霞の手元に開かれていた課題は一時的に閉じられる。
シャーペンも閉じた課題の表紙の上に置かれた。
「そっか。だからあのドアの前で…じゃあ本当にビックリっていうか、既に恐怖を与えていたんだね」
「うん。鈴は、人がいるってことを感じ取って、怖く、――恐怖に襲われたんだと思う」
視線恐怖症というのは、本当に繊細だ。
実際に鈴が近くにいることで分かる。
病気にも波があり、個人差があるように、鈴にも同じように影響が出ることがあるのだ。
「鈴っていうのは、本当の名前か?」
静かに、しかし慎重な声で柊霞が質問する。
碧羽のことも「碧」と呼ぶし、柊霞自身のことも「柊」と呼ぶ。
そのため、素直に聞いたのだろう。
紗綴は首を横に振る。
「ううん。本当は〝朱鈴〟っていうの」
「朱鈴…」
「あまり知られてないと思うけど、《謎解き不思議相談サイト》って分かる?」
紗綴の質問に、二人は少し首を傾げる。
ピンと来ていない様子だ。
確かに、どこにでもあるような名前のサイトだから、分からなくても仕方ない。
それじゃあ、これなら…いや、やっぱりまだ説明は控えたほうがいいかもしれない。
「まぁ、そんなサイトをしててね。朱鈴はそこに依頼される謎を解いているの。それが半分、本業?みたいな感じ」
すると突然だった。
〝ピロリン、ピロリン〟
三人のスマホが同時に大きな音を鳴らす。
「わっ!ビックリした、何の通知かな」
頼むから通知はいきなり鳴らさないでほしい。
こっちの心臓が……あぁ、寿命が縮む。
「どこから来てた?同じなら私が開くよ」
「俺、学校だった」
「ん…同じく」
画面に出ている、どこから来たかの通知だけを確認し、紗綴はメッセージを開く。
机の中央に置き、スクロールしながら見ていく。
『連絡
今日から春休み期間中は魔法の授業を全て中止とします。
授業の再開は、進級後・新学年に入ってからとなります。
ゾンネ・ルーナ学院 事務』
「わ、魔法の授業終了のお知らせだね」
「いや、一時的だからね」
紗綴は一瞬、柊霞の様子を視線で追う。
あぁ、やっぱりそうなるよね……。
柊霞の表情は少し曇り、三人の雰囲気も紗綴と碧羽で作っているような現状。
二人は互いに目を合わせ、どうしようもない笑いを浮かべる。
柊霞にとって魔法の授業は、才能や限界を直に知る場だったのは理解していた。
どれほど魔法が自身に影響を与えていたのか。
育った環境は悪くなくても、肩書と外見は付きまとってしまう。
魔法と言えば職業のイメージが強いかもしれないが、柊霞にとっては癒しや趣味だったのかもしれない。
柊霞は友達だ。
だからいつも通りの柊霞に戻って欲しい――けれど。
…あ、そうだ。一人、教えられる人がいるかも。
いや…でもな、視線恐怖症で、ましてや初対面で最悪だった人と――うーん。
すると、一階の調理場からカタカタと何かを取る音が聞こえてきた。
✢¦✢
「ふぁ、ちょっと飲み物取りに行くか」
朱鈴は座っていた椅子から下り、部屋のドアを開けたまま表へ出た。
多分、二階のテーブルのどこかは使われているんだろうな。一応、一階は……無事かな。
今日に限って部屋に補充されていたペットボトルは全部なくなっていたし、ついてない。
朱鈴はフードを被り、音をなるべく立てないよう最大限の注意を払って歩き進める。
調理場に到着し、音を控えめに冷蔵庫を開け、そっとペットボトルを二本取り出す。
「後は……何かいるかな。いや、大丈夫だね。よし、帰る」
朱鈴は屈み、チヨチヨ足で移動する。
ほぼ無音で調理場から出ようとした時だった。
「しゅーぅりーんちゃん、なーにしてるの」
真正面に立つ人物は今の朱鈴にとっては巨大な壁に――朱鈴はチヨチヨ足でその壁に背を向ける。
「水を取りに来て、巨大な壁に阻まれてる。出口…なくなった」
「――何を言ってるの、はぁ、ちょっと。お願いがあるんだけど」
「お願い?――あ、私は謎を解くというお願いしか聞けないです。できたら植物毒が私は好きかな。さっきもさ――」
紗綴は、背を向けている朱鈴の正面に移動し、一緒に屈む。
「毒の話は一旦忘れて――魔法なの」
紗綴はまっすぐ朱鈴を見る。先ほどの声色とは打って変わり、少し低い声になる。
「紗綴ちゃんは、と・とても、喫茶店の、服、装、お、お似合い、でしひゅ、ね」
喫茶店の制服を着用している紗綴。
「鈴――緩和魔法が無理ない程度に効いてる時間だけでいいの」
朱鈴は見計らいながら、時々目を合わせる。
魔法ってなると完全に一対一じゃんか。それにその間は毒が、謎が解けないってことでしょ。うぅ――。
「ごめん、人はまだ……怖い――」
「そ、そうだよね。ごめん、無理言っちゃってたね」
人は誰しもこうだ!とは一概には言えない。
それでも大抵の人は、目を見て話したがる、会話をしたがる。
〝目が合わないように避ける〟
私にとっての最善の方法だったのに。
それは時に、印象を不快にさせる。
時に相手から勝手に感じ悪く思われ、時には勝手に悪い噂を流されることもある。
『視線恐怖症?大丈夫だって。そんなちょっと目を合わせただけじゃ死なないって』
『私、朱鈴ちゃんに嫌われてるかも。全く目を見て話してくれない』
『視線が怖いの?目が怖いの?――私も怖い時あるよ。ほら、面白いこと言ったけど、スベっちゃったとかね。視線が刺さるよね(笑)』
それから理解した。
〝あぁ、この人達に言っても無駄だ〟
どうせ何も分かってくれない。そもそも分かってもらおうとすることさえ無駄だ。その時間はただの無駄な時間だ。
それでも、少し小さい頃から一緒だった紗綴。
紗綴は一番に分かってくれた。
極力目を合わせないように話してくれたし、時には壁にもなってくれた。人と話さざるを得ない時は、紗綴が率先してくれた。
パーカーの紐をぎゅっと掴む朱鈴。
「紗綴、下向いててもいいなら会うよ。一旦。能力に合わせて私が教えられるか見るから」
下を向いている朱鈴のその言葉に、紗綴はそっと顔を綻ばせた。
「ありがとう」
✢¦✢