2.印象的な英名と上位の魔法師達
✢¦✢
「あと十秒」
屈みスニーカーの靴紐を結び直す朱鈴は周囲の三人を戸惑わせる。
「何が十秒なの?」
「うーん、解決まで?かな」
朱鈴は男子二人が使っているテーブル中心に手をつき、柵に足をかけて思いっきり大きく、大きく…空中でバタつくことなく、ただ身を任せるようにして跳ぶ。
あぁ、全てが楽だ。涼しい、空気を感じられる。
それは丁度開いた扉の――向こうへとめがけて。
✢¦✢
〈一時間前〉
ホームページに入り、送られてきた依頼に目を通す。
この場で解決できそうなものもあるけれど、無理そうなのも多い。
朱鈴は依頼主にチャットで断りの文を打ち込み、送信した。
「……私には、無理だから」
思わず口にしてしまった言葉に、はっとして口を噤む。
このサイトはあくまで趣味。あるいは、自分の身につけた知識を試す場所。
それ以上でも、それ以下でもない。
――そう、ただそれだけ。
一瞬、指が止まり、視界の光が狭まる。
……いや、それだけだ。受けられない依頼だってある。
そもそもサイトの冒頭に注意書きを置いてあるはずだ。
『直接足を運ばなければならない依頼は一切受け付けておりません。それらの依頼は全て削除させて頂きます』
苦手な敬語を、必死に繕って書いた文だ。
それなのに無視して送りつけてくる人もいる。
――そんな相手は気にしなくていい。大丈夫、大丈夫。私はちゃんと書いているんだから。
自分にそう言い聞かせ、朱鈴はスクロールを続けた。
すると、一つの依頼が目に留まる。
これなら簡単に片付けられそうだ。…うん、これにしよう。
「あ、写真も入ってる」
依頼に写真が添えられるのは珍しくない。
けれど今回は何だろう、と心を弾ませて開いてみる。
そこに写っていたのは一種類の植物が複数枚撮られていた。
目にした瞬間、朱鈴の瞳は輝きを増し、自然と笑みが浮かぶ。
『最近気づいたことなのですが、庭の一角に見たことのない花が咲いているのです。前の住人が植えていたのかもしれません。小さい子供もいるため、もし口に入れたら……その可能性を考えると怖くなり、依頼させていただきました』
危険性があるのかどうか教えてほしい――依頼文にはそう綴られていた。
はぁ……やばい。
――笑うな、にやけるな。…でも、三度の食事より幸せなんだけど。
興味津々な笑みを浮かべる朱鈴。
暗い部屋の中、灯っているのは机上の小さな光だけだった。
その闇のような深い空間の中、一生懸命に思い出そうと頭を捻る。
「んー、んん?何だっけな。これ確か英名が印象的で何種類かあった…ような」
複数、枚別角度から送られてきている写真。何度も横にスライドする。興味津々に穴が空くほど見る。
濃い緑色の葉――紅と黒とが滲み合う花弁。
これは、…赤褐色ぽいな…。
それにこの花、傷つけると匂いが強く出る‥だった、はずのはず――。
机に肘をつき、両人差し指を太陽のツボに当てる。
ツボの刺激によって通常時より大きめに開かれた目。
――その目に映る依頼の写真。
「あ、黒花蝋梅だ」
英名では…『カリカンサス ・フロリダス』『スウィートシュラブ』
黒花蝋梅は種子に〝カリカンチン〟を含んでいる。
「これ食べないとは思うけど、子供は予想外のことを平気でする…こともあるからな。もし種子を食べたら……確かに危険だ」
痙攣や血圧の低下辺りかな、引き起こすとしたら。
まぁ辛いだろう…痛いだろう…それに苦しいもあるかな。
ま、そんなことはさておき…。はぅ!本当に存在してくれた!
図鑑で紹介されているだけだったから、
――もう面白い!最高過ぎるよ!
そもそも黒花蝋梅の原産地は北アメリカ東部だったはず。そんな遠くから…よく、ここまで来てくれました!
朱鈴は感心する。
そして依頼の返信をサササッと、キーボードで入力する。
『それは黒花蝋梅といい、もしペットを飼ってる場合も注意。
種子にアルカロイドの一種であるカリカンチンという毒を持ち、葉や枝を傷付けることで、甘い匂いも。そして誤って食べることで危険を招く可能性もあります。これが、今回の依頼結果です』
最後に送信ボタンをダブルクリック。
朱鈴は数ヶ月前のことを思い出す。
――そう言えば、あんな事もあったけ。
それはある一件の依頼に、返信を送ろうとしている時だった。
『それは有毒、病院行きになりたくなければ食べないこと』
返信しようとクリック。
それさえすればメッセージの返答が完了されるという時だった。
しかしそれを紗綴にバレた。
案の定メッセージを読まれ、それから改善するように強く言われた。
「無機質すぎる、もう少し詳しく書きなさい」と。
それからは自分なりに改善したつもりだ。私なりに配慮した私の書き方。
紗綴に言われてからの返信は、まぁ、ちょこちょこ…出来る限りは頑張っている、かな…。
まぁ自分なりに…だけど。
すると床にいつの間にか置いたのか、落ちていたのか。
スマホから着信が入る。
朱鈴はスマホを持ち上げ画面をスライド。
そして左耳に当てる。
「もしもし、兄さん。――はいはい兄さん。――あーただいま休業中です。――ん、分かったよ。じゃあその時になったら連絡ね――はーいじゃあね〜」
朱鈴はスマホを机に置き、何もない天井を体育座りの体勢で見上げる。天井には少しの光だけが映し出されている。
「親が、我が子のために……か」
机の棚には、A4サイズのアルバムが七冊並んでいた。
右端に一冊だけ、ほかより少し厚いアルバム。
朱鈴の視線は、自然とその一冊に吸い寄せられる。
けれど手を伸ばすことはしない。ただ目に映すだけ。
パソコンの青白い光と、部屋の闇。
その対照が、朱鈴の瞳の奥に揺らいでいた。
『――朱鈴、地位や名誉に囚われなくていい。貴方らしく生きなさい』
そう言い残して逝った祖母。
あの時、何を思い、何を考えて――その言葉を口にしたのだろう。
聞きたくても、もう聞けない。
存在しない人には、二度と届かない問いに、私は…。
――いや、考えたところで仕方ない。
何にもならない。
……なににも、ならないんだよ。
覚えていなくていい。むしろ、覚えているほうが辛いんだ。
だからもう、忘れよう。忘れていいんだ。
祖母との記憶は、時の中で薄れてゆく記憶。
そして今は――掠れて消えゆく記憶だ。
✢¦✢
広大な天井は、見上げても果てが見えない。
それほどに高く、百人はゆうに収まりそうな広間。
にも関わらず、ここにいるのは――わずか五人の人影だけ。
その不釣り合いが、かえって彼らの力を際立たせていた。
壁には、さりげなくも精緻な金の装飾が施されている。
柔らかな輝きが空間を満たし、太陽と月を象った紋様が静かに浮かび上がる。
置かれている調度品も一見シンプルだが、明らかに高級感を漂わせていた。
華美すぎず、派手すぎない――上質な佇まい。
中央には円を描くようにテーブルが据えられている。
重厚でありながら洗練され、ひと目で上質と分かる品格を備えていた。
「このところ、魔獣化の発生が増加傾向にあります。先月だけでも総件数は百二十件」
淡々と事実を告げる声が響く。
マジア・アソシエーションに所属する〈司会者〉
――住良木霜華。
黒く美しい髪を、背でシンプルに三つ編みにしている女性だ。
「ですが、これはあくまで報告された件数に過ぎません。実際の数は、未だに不明です」
報告を受けるのは、東西南北の位置に座した四人の人物たち。
一言も発せず、霜華の声だけが静かな空間に響き渡る。
その声は、女性らしさと真剣さを兼ね備えた響きだった。
「そしてもう一つ。魔獣化を進行させている要因は――人間、あるいは族。
いずれにせよ、その存在によって進行速度は加速し、力の底上げが行われていると思われます」
「――へぇ、それはどんな族なのでしょうね。――可愛らしい女の子も族しているのかしら」
手を自分の輪郭に沿わせるように撫でる人物――
〈西方角〉に座る、エピカリス・ラクロウ。
色気を漂わせ、内側の一部分だけを編んだ金髪が目を引く。
服装は、重すぎず軽やかなワンピースのような服に、長すぎないローブを身にまとっていた。
「疲れた、帰りたいじゃ。老人には無理な話じゃよ。我抜きでやってくれ」
木刀を杖代わりに、椅子に立て掛ける老人――
〈東方角〉に座る、龍玄寿。
長大なローブに包まれ、足は宙に浮いたまま。
灰色の髪は豊かに乱れ、寝癖がその無造作さを際立たせていた。
「玄寿様、もう少しお付き合いください。最終的にどうするか結論さえくだされば…すぐにでも」
「は、は、はよぉしておくれ」
「結論――とは言われても、吾々ではもう手が足りない。それは分かっていることだろう」
「はい、ですのでこのような協議の場を設けて降ります」
「一匹ずつか、または――核を叩くかだろうな」
当たり前に難しいことを言い放つのは人物は――
〈北方角〉に座る、エルピス・ディ二タース。
黒スーツを着用し、髪をセンターパートで整え、切れ長の目は誰もが威厳を感じる。
「叩くって酷いわ。女の子だったら愛でないと」
個性溢れる会話。未だに口を開かない――無言で南に座る人物。
服の上からでも分かる程よい筋肉。
フードのない薄手の長いローブに、胸元で揺れる小さな飾り。
「リビードー様はいかがでしょうか」
「え、ぁ…まぁ、――どうにかなるでしょう」
その場の空気が一瞬で無音の空間となる。
〈西方角〉からは吹き出された小さな笑い。〈北方角〉からは強い視線を浴びる人物は――
〈南方角〉に座る、リビードー・ランプロス。
あ、なんか、変なこと言ったか…?
それよりも、俺に視線を向けられてもな…。
――どうしようもないっていうか。
「あらら、凍っちゃいましたね」
「ホッホッホ。お主はやっぱり面白い精神をしておる。老人のワシでさえ呆れるほどじゃ」
「はぁー…。打開策として俺たち以外も、誰か…と言っても、上位はこの四人しかいない、か」
「そうですわねぇ。幼生は増えても――下・中にすら上がれない。そのまま消えていく…そんな子たちが大半ですから」
消えていく……か。
確かに八、九割は魔法を諦めて別の道へ進む。
それはよくある話。
しかし残りは――任務、あるいは油断による若い『死』だ。
それから打開策など浮かばぬまま、ただ時だけが過ぎていく。
そのときだった。
進行を務めていた霜華が小さく手を上げた。
「あの…少々、口を挟ませていただきます。一説の噂か、神話に出てくる人物の異名なのか…はっきりは分かりませんが、ちょっと耳にしたことがありまして」
さきほどまでの調子と打って変わり、自信なさげな声。
「人の異名か……?何だそれは」
「そうじゃのう。初耳じゃ」
「――年齢も性別も、ほんのわずかな個人情報さえ不明の人物。
私が聞いたその異名は――《魔法の幽才》というものでした」
初めて聞く異名に、その場の二人以外が考え込む。
一人は説明した司会者の霜華。そしてもう一人は、南に座るリビードー・ランプロスだった。
真正面からリビードーの様子が見えていた北のエルピス・ディニタースは、眉を寄せた表情で見つめる。
「リビードーは、その人物を知っておるのか」
「まぁ、知らなくはないですね」
「え、じゃあ本当にいて!あ、すみません」
興奮か、嬉しさのあまりか。
司会者はついタメ口になってしまったが、すぐに表情を元の真面目な仕事顔に戻す。
「其奴は、強いのか」
玄寿の言葉に、その場の全員が真面目な顔をした。そして視線がリビードーに集中して刺さる。
「強い…か、ですか。それぞれ分野とかありますからね。一概には言えないですが…」
リビードーは真剣な顔で続けた。
「俺が〝師であり〟〝師を優に越しています〟」
この部屋にいる全員が目を丸くした。
その言葉にどんな意味が込められているのか――それを知るのはリビードー以外の全員だ。
「そう言えば、納得してもらえるでしょうか。ま、本人の実力を見る機会があったら、いいですねー」
真面目だった表情とは一瞬で変わり、肘をつき顎に手を添えて顔をかしげるリビードー。
最後は挑発するような言葉で、締めくくった。
それぞれの方角に座っている自分を含めた四人。
その中で誰が一番強いのか。そんな順位付けには一ミリも興味がない。
まぁどうにでもなってくれ、ぐらいにしか思えない。
ただ、――事実をただ述べたまでだ。
それに、あいつは……。
――あいつは、過去の経験という名の『代償』と引き換えに…だったようなものだ。
それはきっと、今も続いている。
その証拠が、あいつの性格だ。
――ほとんど〝代償〟のようなもの。
実力は持ちながらも、人前には出ない。
ただ異名だけが独り歩きする。それが良いのか悪いのかは分からない。
それでも〝魔法の幽才〟と言われるほどに上り詰めた。
「では、その御方にこちらに来てもらうことは可能なのでしょうか」
「それは無理でしょうね。依頼だけ。そして夜だけ。その二つの条件が合致している場合なら受けるかもです」
「分かりました。ではリビードー様にご連絡をお願いいたします。
それでは議論は終了とさせていただきます。忙しい中、誠にありがとうございました」
終了の合図かのように、鐘が外から大きく鳴り響いた。
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