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静寂(シュティル)なギフトは雫となる ―潜秘を持つ者―  作者: 霜夜 薇


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12/16

12.名前

✢¦✢


「ねぇ、朱鈴」

「ん?」

「名前って分かるでしょ?」

「朱鈴!」

「ふふ、そうね。名前って自分を彩らせるっていう作用もあるのよ」

祖母は右の人差し指をピシッと縦に立て、笑顔で言う。

でも何処か真剣な目をする。


「彩らせる?」

「そう。生まれて初めての親からのプレゼントとも言うけどね」

「プレゼント…」

「朱鈴はね…希望の鈴の音を響かせるのよ。きっと、ううん。絶対そうなる!」

「うーん……良く分かんない」

「まぁそうよね。でもね、今は分からなくても大丈夫。――絶対に」

祖母は膝掛けを畳み、立ち上がる。

壁沿いに置かれている棚の中から、箱を持って来る。

何か何かと興味津々に、目を輝かせる朱鈴は前のめりになって見る。

木箱素材の箱の表面の中心に、二文字の漢字が刻まれていた。

「きれいな、もじ。金ピカさんだ」

祖母の丁重な手付きが、箱の蓋をゆっくりと持ち上げた。

最初に見えたのは、これでもかというほど敷き詰められたスポンジだった。

その箱の中には祖母が本来見せたかった物が姿を隠していた。

取り出した祖母から、手渡しで朱鈴に渡される。

「これはね、風鈴っていうの」


受け取った朱鈴は、手首に風鈴の紐を通す。

初めての風鈴に、心が惹かれる。

〝チリンチリン〟と動く赤い絵柄の風鈴。糸が揺れ、ぜつがガラスに当たる。


「ふうりん?赤の絵だ!」

「そう。綺麗でしょう」

「うん!音がリーンってなってる」

「落ち着くのよね――この音。朱鈴は後々自分でも作れるとは思うけど――これは、ふふ」

優しく笑う祖母に朱鈴は違和感を感じ、首を傾げる。

「元々は青っぽい色だったんだけど、あの子のだったから…かな」

「――?」

「朱鈴には、ぴったりね」


✢¦✢


部屋に揺れる鈴の音。

閉ざされていた窓は、いつぶりか分からないほど久々に開けられていた。

部屋のカーテンは窓外から入ってくる風が緩やかに揺らす。

部屋には桜の光が差し、四月の初めを伝える温度が漂っている。

ベッドの壁側に背を預けるように寄り掛かっていた。


「鈴ー、早く行くよ!」

近づいて来る足音に、朱鈴はゆっくりと瞳を開ける。

部屋のドアがバタンと開かれ、紗綴の姿を捉えた。

「なぁに、春を感じてんのよ」

「……春だ」

「ほら急いでいくよ」

朱鈴は紗綴に半分、急かされるように立ち上がる。

「――うん」

紗綴によって喫茶店へ連れて行かれ、後少しという所でだった。

店が見え、二人は揃って足を止めた。


「よし、帰ろう」

朱鈴は足を一歩後ろへ引く。

目の前の光景を逸らすように、百八十度真逆の方向を向く。

しかし、紗綴によってすぐに首根っこを掴まれる。

振り返ると、紗綴も同じ気持ちのように、少し眉をひそめていた。

「私だって、あれは……、まぁ嫌よ。睨まれる的になるようなものだし」

「今日、バイトの調理は」

「二人男の子が入ってる。プラス提供者が二人。よし、一旦買い物に行こう」

「帰るという選択肢は」

「運動不足になるよ。ほら一緒に行くよ。フード被ってていいから」

まじか…。フード被ってて良いって……。

ほとんど癖なんだけどな。

フードあっても人の視線は、ある意味刺さるけど、――多少はマシか。


来た道を引き返す二人はスーパーへ足を進める。

目的のスーパーへ到着し、カゴ二つをカートに乗せ、押して進む。


そういえば、〝あれ〟どうなったんだっけ。

ま、二の次として、……。

スーパーに入ったときから一定距離を開け、付いて来ている後方の人の気配を朱鈴は感じ取っていた。

知り合い?

いや、誰だ――。

隣では気づいていない紗綴は、続々と商品をカゴに入れていた。

その中で朱鈴は対策を考えていた。

――巻く、蹴り倒す。いや…安全策で警察行き……。


「紗綴」

「んー?あ、これも必要」

「媚薬説の件はどうなったの」

「びっ!……鈴!……クッキーと茶葉っていいなさい」

地雷を踏んでしまったらしく、紗綴は真っ赤な顔と般若が混ざっていた。

「――はいはい、で?」

「申し訳ないけど捨てた」

「それもそうか。じゃ、そのお客の現在は」

「普通に」

朱鈴は後ろの人物に気づかれないよう、視線を一瞬だけ素早く向けた。


シンプルなシャツに、パンツ。そして伊達メガネ。

顔を無理に隠しているような服装ではない。

まぁその方が紛れて人の記憶に残りにくいからな。

「二十代後半、垂れ目気味、少し傷んだ黒髪、輪郭は逆三角に近い感じの男」

紗綴だけに聞こえる声量で特徴を伝える。

紗綴は「えっ…?」と立ち止まり、カートだけが前進する。

手を伸ばして止めた朱鈴は、自分からカートを押し出す。

「たぁぶん、その人」

「そか。じゃ早く買い物済ませるよ」


続々と速いスピードで必要な物を整頓して入れた朱鈴は会計場所に足を進めた。

「ちょちょっと鈴!早い、珍しく」

商品数が多く会計と袋入れに十分程かかり、ようやく喫茶店への帰り道を歩いていた。

その間も男は一定の距離を保ち、二人の後ろを付いて来ていた。

お店からバレていないと思っているのか男は堂々と後ろを付けて来ていた。

三十メートル間隔を保つ男に、朱鈴はそろそろ面倒だと思い始めていた。

朱鈴は二個と紗綴が一個、それぞれ袋を手に持っている。


「紗綴、撒くから指示にしたがって」

「撒く?」

紗綴は首を傾げ、朱鈴の小声の指示に耳を澄ます。


✢¦✢


アツミゲシを栽培していた男とは、ネットで知り合った。

ハーブ系の知識を少し持ち合わせていた自分はそれを利用し、媚薬になり得るといわれる物を作った。

それが〝クッキーと茶葉〟だった。


自分にとっては紗綴ちゃんだけだった。

ブラック企業にしか就職が出来ず、いつも疲れ果てていた。

その中でも紗綴ちゃんの声を聞いたり、なんてことない会話をする。

紗綴ちゃんの盛り付けた料理を食べる。

手先のほんの数ミリでも触れ合う。

『最初はそれで良かった』


どんなに働いても収入は変わらず、もっとと労働を強いられる。

その中で紗綴ちゃんだけが癒しだった。

あぁ…この子と〝一緒にいたい〟――そう思った。

しかしその反面、――彼女の乱れた姿を見てみたい――そんな狂気的な考えもあった。

そして自分で作ったクッキーと茶葉をプレゼントした。

本来ならば、その場で食べ、飲んでほしかった。


でも、彼女は――

「仕事中ですからね。終わったら美味しく召し上がりますね!」

満面の笑みで言う彼女に「この場で…」なんて、強要出来るはずもなかった。


あぁ、それじゃダメなんだよ。

見れないじゃないか…――君の〝生〟の姿が。


それから自分は、余計に狂ったと自覚はしていた。

でも止められなかった。

紗綴ちゃんの〝恐怖に怯える姿が見たい〟と思ってしまった。

恐怖の最中、もし自分が助けたら…?

彼女はどうするのか。

助けを求めて、涙を流すのかと想像が止められなかった。


一緒に居たい欲がさらに湧いた。

例え、涙を流さなくとも、それはきっと我慢をしているだけだ。

本来なら、自分と紗綴ちゃんは永遠の糸で繋がっている。

そう――〝そのはずだった〟

男に強盗をさせ、自分が店の掲示板に予告を出した。

事前に、男自身が作っていたアツミゲシ。その種子から抽出した成分を男の体内へ入れていた。


しかし、予想外のことが起こった。

それは男が扉を開けた刹那だった。

まるで倒れたような大きな音がした…。

自分の活躍する場が奪われ、狂気に塗れた感情が吹き出した。


あのフードの奴は、それを…〝めちゃくちゃにした〟

だからこその〝腹いせ〟だ。

フードの奴に復讐し、少しの恐怖を紗綴ちゃんに植え付ける。

それから自分のものにする。

か弱い紗綴ちゃんはきっと、怯えるだろう。

最後はナイフで奴を刺し、その後は紗綴ちゃんを慰める役割がある。

そして一緒の家に帰るんだ。


狂気の感情を漂わせる男は、少し遠い所にいるターゲット二人を目線の先に捉えていた。


「もう少しだね」


✢¦✢


男は朱鈴達が角を曲がったのを確認する。

それから慎重に早足で、同じ道を駆け、角を曲がった。

続く住宅街と、まっさらな道。

人一人として見つからない男は焦る。

荷物を持っていながら逃げることは不可能に近いはずだ。

じゃあ…どこだ。どこに…!

男は来た道、前方左右を振り返って確認をする。

それでも見つからない中、平温の声が耳に響いた。

「後、付けないでよ。紗綴のストーカーでしょ」


左側の耳を強く刺激した声の方に男はすぐに顔を向ける。

視界にはフードを深々と被った復讐を誓った人物が屋根の上に立っていた。

「お前……あぁ…やっとだ。フード野郎。お前がいるから、紗綴ちゃんと一緒になれないんだ!」

目で射抜くようにしてフードの人物を捉えた男は怒りを込めて叫ぶ。

「そ――。ごめんけど、他人と喋るの苦痛なんだよね」

怒鳴り声に、一切として動揺を示さない正体を隠す人物。

見下す高さの位置関係に、

「そんな事はどうでもいいんだよ!さっさと紗綴ちゃんを――!」

と喉を痛める勢いで喚き散らした。


「紗綴……か。イヤ、般若面とか――」

ブツブツと呟くフードの人物に、男は殺意の籠もった目をただ向ける。

「おい!フード野郎!」

「ま、いっか。――じゃ、ばいばい」

屋根を強く踏み込んで飛び降りたフードの人物。

予想外の事態に、男は一瞬で迫りくる凶器に頭がついていかなくなる。

ただされるがままの状態のように、顔面に足裏をブチつけられた。

全身がふらつく。

特に鼻が刺激され、倒れると頭も地面に打った。

痛みから漏れる声。

視界の端には住宅のブロック壁近くに立つ紗綴の顔が見えた。


――あっ。

傍に駆け寄ってくる足音が近づいて来る。

その音は、近くまで来てすぐに止まった。

「鈴、怪我は?終わったの…これは……」

「私はない。ただこの人は鼻血」

「警察には連絡したから、多分もう少しで――」

「了解。警察来るまで待つか」

カサカサとビニールを手に持っている音が薄い意識の中、聞こえる。

気絶寸前の男は、ぼんやりとしか会話や物の音が聞こえていなかった。

定まらないぼやけに、慣れるまで時間が掛かる。


なんで、こんな――。

俺はただ、紗綴ちゃんと一緒にいたかっただけなのに。

〝僕だけの女神と一緒に!〟

下敷きになっている尻のポケットに手を回し、念のために仕込んでおいた小型ナイフを取り出す。

最後の力を振り絞り、身体を起こした。


正面に腕を伸ばす。

勢いに任せて、ナイフは一直線に目の前の人物へ――。


でも、それは望んでいた相手じゃなかった。

――紗綴ちゃん……。

俺……紗綴ちゃんを刺そうとして……。

あ、無理だ。勢いをつけすぎた。もう――止まれない。


刃は服を越え、皮膚を突き破る感触を伝えてきた。

男は力の抜けたように、そのまま地面へ倒れ伏した。



襲いかかったナイフという脅威は腕に刺さっていた。

厚手の素材の服に刺さり、血が少しずつ滲み出していた。

それは紗綴ではなく、朱鈴だった。

朱鈴はすぐに飛び出し、紗綴を庇っていた。

痛いという感情がありつつも、事が一段落したことにほっとする。


これで、一旦終了かな。

病院には行きたくないけど。

「――朱、鈴。あぁぁ、しゅ、朱鈴」

紗綴の声にもならない叫びに、本人は全身も震えていた。

「まぁまぁ痛いね」

左腕に刺さっていたナイフは勝手に抜け落ちた。

浅くしか皮膚には刺さっていなかったようだ。

〝カランカラン〟と抜け落ち、パーカーは便利だと改めて実感した。


朱鈴は、いつもと変わらぬ冷静さで滲み出す血を観察していた。

その背に、ずしりと体重がのしかかる。

「――ちょっ…紗綴〜」

飛びついてきた紗綴が、そのまま強く抱きついてくる。

泣きながら力加減も忘れて抱きしめる紗綴に、朱鈴の表情筋がかすかに動いた。

朱鈴は、怪我のない右手で紗綴の頭をそっと撫でる。


「ごめん、ごめんねぇ!」

「大丈夫だよ。少し刺さっただけだし」

「ごめん、本当にごめん!」

「……って聞いてる?」

「死なないで! 死なんでぇぇ――!」

喚くように泣き続ける紗綴に、朱鈴は少しだけ諦め気味になる。

――だめだ、多分届いてない。

でも……紗綴らしい。

「死って。この傷では多分無理だと思うよ。ちょっと痛いけど」

静かに眉が下がり、目が少し細くなった。

「大丈夫」

「……うん」

「大丈夫だからね――」


それから到着した警察によって男は連行された。

鼻にティッシュを詰められ、抱え上げられていた。

そして紗綴の涙は止まらず、抱きつかれた体勢で病院へ行った。

ただ、そこまでは良かった。

朱鈴の一番の難関はここからだった。

医師に「縫う」と言われた瞬間。

朱鈴の顔色が一瞬で褪せた。

縫われることではなく、麻酔の注射をすることに精一杯、抵抗する。


「私、自然治癒でいいや。治療は不必要」

とハッキリ伝える。

しかし紗綴からは「いいから、やってもらいなさい」と、きっぱり言い切られ、背を強く押された。

それから数人の看護師に押さえつけられた朱鈴に、以降の記憶はなかった。

軽めの気絶を経験し、一時間程度で病院を後にした。


やっと喫茶店へ向かう道を歩き、影の落ちる細い道へ入る。

そこから見える光景に、朱鈴はひどく嫌気が差していた。

午前よりもわずかに増えている人の列。

そしてお金……――二つの思いが胸の中で交差する。


「紗綴、私やっぱ帰る。あの中に入りたくない」

「私だっていやだ。でも荷物を置かないと」

二人の目と鼻の先には現在進行系で、列ができていた。

そこには男性客の姿は一人として見当たらない。


朱鈴は片手に持っている荷物を紗綴の足元に静かに置いた。

「えっ…?……鈴?」

向き合う形になった朱鈴は、両手を紗綴の肩に乗せた。

そして身長差から少しだけ背伸びをした。

「紗綴」

「えっと、ん?」

「後は頼んだ。荷物は腕のお詫びってことでお願いね」

紗綴にどう言われようが、これは譲れない。

人の視線だけは浴びたくない。

――静かに、陰ながらでいたい。


朱鈴は影の通りを抜ける。

右に曲がり、列の続く反対歩行者側の道路にランランとした足取りで進んでいた。

「ちょ、…あ、鈴そっちは」

紗綴の声が耳を掠めるも、気配を消すように歩く。

開放感から表情は綻び、自然と笑顔が浮かんでいた。

「ふっふーん──っぶ、痛ったい」

フードを深々と被り、勢いよく歩いていた朱鈴。

前を見ていなかった朱鈴は何か固いものにぶつかった。

調子に乗りすぎたかな、と今さら小さく反省する。


いったぁ……フード深すぎた?

というか……これ、壁じゃない…?

布の感触。服……? どこかで見たような……。

前開きのジップパーカー。

――誰かの胸元あたりに、ぶつかったらしい。

朱鈴は少しの痛みを伴った鼻を手で抑え、緩和させる。


「あ、柊じゃん。碧羽は?というか何でここに」

顔を上げようとした時、追いかけて来たらしい紗綴の声が聞こえた。

朱鈴は紗綴を振り返り、両手には重い荷物を持っていた。

「碧羽は接客中。押し付けてきた。あまりにも帰ってこないから」

「あ、それはごめん。碧羽にも感謝だね」

朱鈴を越して紗綴へ歩み寄った柊霞は袋を二つ、軽々と持った。


「あ、ありがとう。それと鈴。帰るのは良いけど服は変えよう。〝血〟付いてるから」

「血、?」

紗綴の言葉に柊霞は即座に反応を示した。


しかし朱鈴は、段々とそれどころでは無くなっていた。

人の列が近くにできている場所に三人でいる。それは人の注目を誘うようなものだった。

女性の声がザワザワとし、視線がトゲのように刺さる。


朱鈴はふらつき出す身体に、両手を強く握って拳を作る。

拳を胸に何度も何度も当てる。

紗綴が何か言っていても聞こえにくくなりだす。

呼吸は徐々に浅くなり、眉間にシワが寄る。

意識を保つために大きく瞼を動かすも、瞳孔の面積が狭まる。

――はぁ……はぁ…はぁ…これ…まずいかも。


額には汗が滲み、視界までも可笑しくなりだす。

あ、これ……無理――。

身体の力が抜け、同じ色が目の前に迫る。

でも、不思議と覚悟していた痛さはなく、地面が程よい柔らかさだった。

そんな事を感じながら倒れた朱鈴は静かに眠りに就いた。


それから目を覚ました時、朱鈴はベッドの上に横になっていた。

暖かさを感じたのは布団の中だったと認識する。

部屋には誰の気配も感じられない。

ただ足元には窓からの陽が照り、夕方だと分かった。

「朱鷺、私って」

『一時間ちょっと、寝ていたぞ』

「そう…なんだ…。ここにはどうやって」

『黒髪の柊霞と呼ばれている男がギリギリで支えたんだよ。良かったな。怪我増えなくて』

「怪我はどうでもいいけど、お礼言わないとだね」


少し不安定な足取りで部屋を出た朱鈴は、慎重にドアを閉めた。

廊下に出ると、裏の入口から高音の声が多く聞こえる。

目的の自室へたどり着いた朱鈴はパーカーを脱ぐ。

一度、半袖姿になった朱鈴はパーカーを探すも、中々見つからない。

やっと見つけたと思ったら、それは数日前のジャケットだった。

洗濯はしたけどフードないからな…。

――うーん……。

背に腹は代えられない!――よしっ…、似たようなものだ。


椅子に掛けてあるジャケットを着る。

血痕のついたパーカーを裏の洗濯機に投げ入れた。

そして客の声が流れる裏入口の前に屈んだ。

顔を出さない限り、客の顔は一切見えない設計。そして、物の配置になっていた。

ギリギリのところで客の雰囲気を観察していた丁度だった。

飲み物を運ぶ人物の姿――柊霞がキッチンから出てきた。


ナイスタイミングだけど気づくかな…。

流石に難しい……あっ。


ボヤける視界の中だった。

ドリンクを客のテーブルに置いた柊霞の顔を、朱鈴の視界に捉えた。

二人の視線が合っているような気分になる。

しかし、ハッキリとは分からない。

朱鈴は「まさか」という偶然から一瞬だけ目を丸くした。


邪魔にならないように――と、人差し指を唇に当てる。

朱鈴は目をそっと閉じて微笑んだ。

そして、目を柔らかに開けて指を下ろし、『あ・り・が・と・う』と口パクで伝える。

それから、そそくさと裏のドア前へ移動した朱鈴は少しの安堵を抱えていた。


「朱鷺」

『…』

「朱鷺、どうしたの」

ドアノブに手を掛け、押し出そうとした時だった。

朱鈴の手ではない温度の高い手が、甲に重ねられた。

「……えっ…と…?」

包み込むようにして重ねられた手。

その手を辿るようにして首が動き、自然と上を向いた。

そして重ねた人物の手の震えが沈む。

長い息を吐いた音が消え、手が離れる。


えっと…どゆ状況?

なにか、まず、やらかした?――それとも用……?

理由も分からないまま、少しの戸惑いからドアノブを離した。

すると朱鈴は、前に聞き忘れたことを思い出した。

「あのさ、今聞くべきか合ってないかもだけど……名前って…」

朱鈴の前の人物は目を丸くした。

照れくさそうにすぐに逸らすも、熱のある目を朱鈴に何度も送る。


紅紳くしん柊霞」

「――柊、霞……。この場合は〝君〟〝さん〟付けたほうが良い?」

顎を引き、手を顎の下に乗せて考える。


「呼びやすいと思うのでいい。でも、さん付けは、嫌だ…」

「んー……じゃあ、柊霞くん――よい?」

「……うん」

「私は、えっと。えーっとね…んー」

どう言えば良いのだろう。

私の苗字はあっても、ないようなもの。

そもそもこの苗字は――私が名乗るべきではないのかも……。

朱鈴は永遠に払拭できない感情を持ち、気持ちが少し沈みかけていた。

その瞬間だった。


「朱鈴。そう呼んでいいか」

靄がかった沈黙の中、凛とした救いの声が朱鈴の耳に響いた。

暗かった顔を上げた朱鈴は純粋無垢な笑みを浮かべた。

「うん!」

息を呑みそうになった柊霞も、朱鈴の表情に流されるように薄く微笑んだ。


一瞬覗いた柊霞の瞳に、朱鈴はただ――綺麗な目…だなと思った。


✢¦✢

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