10.幽才様
✢¦✢
バタンと重量感のあるドアが閉まる。
どれだけ気をつけようとも、開閉の度に重さを感じさせる音が鳴る。
玄関で靴を脱ぎ、用意されていたスリッパに足を通した。
すると姿を現したスーツ姿の執事。
「お帰りなさいませ、柊霞さん。皆さんご夕食中でございます」
重圧感を感じさせない、聞き慣れた優しげな声。
その声の主である未澤芯は、この家の執事だ。
「ただいまです。今日、いない人はいますか」
「いえ、皆さんお揃いです」
「そうですか」
毎度のような、日常の会話をした後、柊霞は自室へ向かった。鞄を置くだけ置き、それから行く。
そしてそのまま食事を摂るためダイニングルームへ移動した。
食を取るだけの場所にも、ドアは存在し、煉瓦色の大きなドアがはだかる。
薄く彫刻のような模様が刻まれている。
芯は流れるような動作でドアを開ける。
柊霞は入室し、芯も後に続いて音もなく静かに扉を閉めた。
入ると既に食事が進んでいて、会話がありつつも穏やかな空間が広がっていた。
柊霞の耳には家族間の会話が聞こえてくる。
「お帰りなさい柊霞。どうしたの今日は、遅すぎない?」
「いいじゃないか。たまには寄り道だってしたいだろう」
母親の心配した感情的な質問に父親はそっと宥めるように言う。
そして柊霞は、芯によって引かれた椅子に座った。
置かれているホットの手拭きで手を清潔に拭く。
「――ただいま。…特に理由はないよ」
広々とした空間に大きく長いテーブルが一台。
一人ずつの食事がセットされ、柊霞は出口から二番目に遠い位置に固定されていた。
右手側には兄、左手側には妹と弟がいつも通りに座っている。
正面には両親が座りいつも通りに食事で話をしていた。
「そうよね。ごめんなさい。――ま、それよりも、あと数日で春休みでしょう。どこか行きたい所はある?」
行きたいところ――特に無い…。っていうのが本心なんだよな。
知らない土地に行くことに柊霞は微妙に抵抗があった。
魔法に今は時間を費やしたい気持ちがあった。
考え直した柊霞は、軽く俯いていた顔を上げる。
ナイフとフォークを掴み、手を動かしながら言う。
「どこでもいい、かな」
用意されている目の前の食事に手をつけながら、目的の飼い猫の姿を探す。
視線を色んな方向に動かして部屋を見回す。
――多分寝ているんだろう。
そう分かっていながら、部屋の隅に灰猫の姿を発見した。
案の定、灰猫はダイニングルームの端に置かれている簡易的なベッドで寝ていた。
ここに来てから猫専用の食事を一切しない灰猫。
人間の食事ばかりを一日、四から五回摂取する。
しかし、運動は一切しないという感じが続いていた。
いつ、ブヨブヨ姿になるのか……その未来が柊霞には近くに感じられていた。
「じゃ箱根にしましょうか。どう?」
「いいんじゃないか」
「僕も箱根行きたい!楽しみ」
「ママ、それってお泊りなの?」
「そりゃそうでしょう。楽しみねぇ」
母親の意見に賛同する、父親。そして完全に乗り気な弟と妹。
ドア近くに立っている芯は穏やかな笑みで、ポケットに入れていたスマホを取り出し操作する。
話を進める四人に、柊霞と隣りに座る兄は無言で食べ進める。
特に会話もない二人。
希薄な雰囲気が二人の間だけで流れる。
しかしそんな事を肌で感じさせないほど、四人の雰囲気が入り交じる。
柊霞にとっては慣れた兄との関係。
表面上では、兄への関心は薄まっていた。
「瞬桔は、どうなんだ?」
「――俺は、」
黙々と食べていた長男の瞬桔。大学生という事もあり、予定が合わないことも多い。
父親からの質問に片手でスマホをポケットから取り出す。
手元に置かれたスマホを慣れた手付きで操作し、予定を確認しているようだった。
「行儀の悪い食べ方」と注意を受けることもなく、顔を向けることもしない。
「うーん、まぁ予定はない」
とだけ口頭で伝えた。
「じゃ決定ね」
一瞬だけ瞬桔の姿を柊霞はチラッと視界に映し、すぐに食べ進める。
手に取ったスマホをしまう事はせず、なにか操作をしていた。
別にこの空間が嫌いなわけじゃない。
ただなんとなくだった。
柊霞は頭の中で少女・朱鈴の事が浮かんでいた。
少女は、こんなふうに誰かと――家族と一緒に食事をするのだろうか…。
なんとなくそう考えてしまっていた。
どんな物を好き。
どんな食べ物は嫌い。
それとも何か食べられない物はあったりするのだろうか。
一つ考えれば、考えるほど疑問が浮かぶ。
そして柊霞は自分が、朱鈴の事を知らないと実感していた。
聞いてみたいことは多いのに、それを本人が拒むんじゃないか。
嫌がるんじゃないか。
柊霞は拒否されるのが怖く、聞けていなかった。
「そうだ。魔法師は付けられるのかな?」
「付けるにしても簡単には無理だと思うぞ。特に上位は」
護衛…か。
父親が会社の社長。
母親も同じ会社の何かの職に付いていると聞いていた柊霞は、小さい頃から一人で出歩くことが少なかった。
警護を職とする人が一緒だったり、最低中位魔法師が就いていたりもあった。
それは柊霞が高校生になるまで続き、今は弟と妹の方にその魔法師は就いていた。
「可能であるのなら上位がいいわよね。安心感」
「頼んではみるが、無理な場合はなし。それか他の位になると思うぞ」
「ママ、パパ!」
「ん?どうしたの」
「僕もね、柊兄と同じ学校行って魔法師なるよ!」
「そんなの無理だよ。魔法師は才能も必要なんだよ」
弟の言葉に、妹は現実的な事をサラッと言う。
「僕出来るもん!絶対できるもん」
「うんうん。最初から否定しないでやってみる!それは何かに繋がるかもだからね」
「ほらねぇ」
母親の言葉に弟は「ほらみた」と言わんばかりの得意げな顔をする。そして隣席の妹を見て、妹はそっぽを向く。
現実思考な妹は〝ふんっ〟と鼻で鳴らして食べ進める。
――魔法師、…か。
それから食事、風呂を済ませた柊霞は、寝るだけにして部屋へ戻る。
自室のドアをいつも通りに開けると、既に室内には明るい空間が広がっていた。
疑問を持つこともなく、ベッドの端にある人物を捉える。
腰掛けている人影は足を組み、片手にはスマホを持っていた。
そして灰猫はその人物の隣で身体を丸めて眠っている。
柊霞は部屋のドアを途中まで閉める。
「あ、帰ってきた」
「何」
柊霞はあしらうようにして、鞄を机に乗せる。教科書を複数冊取り出し、揃えて机に寝かせる。
「いやさ。返信がこないって俺の所に連絡来てるんよ。女の子達からね」
やっぱりこいつか…。
アカウントを許可なく……。
柊霞にとってはこういうのは珍しくはなかった。
毎回ではないものの時々あることだった。
ま、予想はついていたけど。
柊霞はベッドに座っている瞬桔の方を振り返り、無表情でありながら目には毒を含んだ眼差しを向ける。
「俺は許可してない。ID教えて良いかも聞かれていない」
「そりゃね。柊霞どうせ拒否するでしょ」
それを分かっていてするのか。
「ちょっと食事したり、お遊びするだけじゃんか」
「ブロックして、削除したから無理」
不誠実なことを俺はしたくない。
何があっても。
もし過去に戻った時、後悔はしたくない。
それに、こいつの理由も気持ちも一切分からない。
「優秀君は勉強以外でも堅苦しい考えなのか――ま、いいや」
瞬桔は諦めたように立ち上がり、少し開いたドアの前に足を進めた。
完全にドアが閉まる少しの隙間から一度だけ瞬桔は振り返る。
「魔法なんかやっても結局は挫折する。どうせ無意味になるぞ」
バタンと部屋と廊下を隔てるドアが閉まった。
じゃあ魔法を辞めろっていうのか。
周りの魔法の才の差に挫折し、辞めた……。
そんな兄と自分は違うと、柊霞は内に沈め、灰猫を専用のベッドへ移動させた。
その後、椅子に座った柊霞は机の端に置かれているパソコンを起動する。
ある動画を付けて画面をスリープ状態にして閉じた。
教科書やルーズリーフで、勉強を二時間近く続けた。
灰猫の小さな寝息に自然の水の音。それからや春にピッタりな音が流れる。
静かな自然の音に、柊霞の気持ちも落ち着き、集中して解いていく。
そして勉強を終えた柊霞はアラームだけ掛けて眠りに就いた。
✢¦✢
午前四時の未明、最も深い眠りの淵。
ほとんどの人が息を潜めている時間。
突如として耳朶を打ったアラーム。
日常的なタイマー音ののんびりした響きとは異なり、差し迫った危機を告げる音色をしていた。
柊霞は煩い通知音によって起こされる。
寝ぼけ眼の目を擦りながら、スマホを手に取り、暗い部屋を見回す。
少し隙間のあるカーテンからは多くの光が漏れているのが見え、日常ではありえない時間に、近所が光っていた。
「柊霞。その音、うるさいぞ」
「分かってる」
灰猫は目を擦りながら、柊霞のベッドに歩いてきて飛び乗る。
そしてスマホの明かりだけを付けて一緒に覗き見る。
「地図を開け」
「あぁ」
寝起きで素早く頭が動かない柊霞は灰猫の言うままに音を消す。
指示されたまま、地図を開く。
目に付くのは赤と紫の色。そして無色の三色で表された地図が画面全体に表示される。
赤と紫と白…。
大まかに理解した柊霞は、地図の右下に目線を動かした。
そこには色の意味を説明した項目がそれぞれ書かれている。
柊霞は目で追ってサラッと読み、「これって…」と受け入れ難い現実を突きつけられる。
「魔獣と魔物。両方が複数箇所で出現している」
灰猫の平坦な声が響くや否や、柊霞の眠気は完全に吹き飛んだ。
冴えわたる頭で即座に状況判断をする。
すると、廊下の向こうから、焦燥に駆られた足音が近づいてきた。
その響きはあまりにも鮮明で、一直線に柊霞の部屋を目指しているのが分かった。
ノックもなしにドアが勢いよく開かれ、母親が入ってくる。
後ろには芯の姿もあった。
「柊霞!灰猫ちゃんも。急いで服を着替えて避難するよ」
「…避難」
「そう、急いで着替えてね。他の子供達も起こさないと」
母親は早口で言い放ち、ドアも閉めず、駆け足で出て行った。
開け放たれたドアから流れ込んでくる静寂。
そして息を詰めて焦る、張り詰めたような空気感だった。
冷静な執事の芯はいつも通りのような表情で柊霞に歩み寄る。
「柊霞さん」
「芯さん、避難って…そんな大事になっているんですか」
「はい。複数同時発生はとても珍しいのです。そのため、この地域だけでなく、色んな所に避難が呼びかけられております」
避難って…そんなになのか。
「複数箇所同時発生は過去二回しかないのです」
――二回も…あるのか。実際に。
柊霞は灰猫の時の事を思い出す。
魔獣を目の前にした経験があるからこそ理解できる恐怖感。
『魔獣化』という言葉こそニュースで聞き慣れていた。
しかし実際に、数日前までその姿を見たことはなかった。
その全てが今、画面という薄い隔たりを越え、現実の重みとして柊霞にのしかかる。
「対処自体は済んでおりますが、魔法師は少なく、魔獣の強さも増しているのが現状です。ですので……念のための〝保険〟としての避難でございます」
「…分かりました」
芯と目を合わせて答えた柊霞はベッドから降りる。
芯も一礼をして出て行った。
「我は別に避難所なんかいかんぞ。我には必要ない」
「面倒ではあるけど行くぞ」
「はっ!なんだと!嫌じゃ、我はここに居るぞ」
柊霞は着替えながら騒ぐ灰猫をスルーし、この場所に残る気だった灰猫を脇に抱え上げる。
「降ろせ!おい、柊霞!」とグチグチ言われながら着替え終えた柊霞は外へと出る。
家を出て車に乗った柊霞は、右端の席に座り、助手席には執事が乗っている。
避難所へと向かっている黒塗りの車。
その道中には非日常が広がっていた。
時間帯に合わないほどに多くの光が灯り、道には車が混み合っていた。
外は焦りや騒ぎが起きていても、柊霞は乱れに乗じていなかった。
ただ冷静に窓の外の様子を見ていた。
家では煩かった灰猫も静かに柊霞の膝で眠っていた。すると妹の身体が揺れ動き、車の振動で横に倒れる。
「――オッゴっ!」
猫とは思えない野太い悲鳴が発せられる。
まだ眠たくて当然か…。
倒れてきた妹の下敷きにされた灰猫は怒りを我慢し、再び寝始めた。柊霞は妹を自分の膝にそのまま寝かせ、軽い世話を焼く。
そして左端には瞬桔の姿もあり、その肩に弟が寄り掛かっていた。
朝早いし、状況が理解できないのも仕方ないか…。
ま、昨日みたく騒がれるよりいいか。
小さい二人は眠り、正面には見合わせるように両親が座っていた。
すると赤信号で停車した。
同じような外の景色を見ている間、人影を柊霞は捉え、目を細めた。
たったの一瞬。
その一瞬だけ柊霞の視界には見えていた。
――人…か。でも動いてはいたから人ではあるか。
でもあれは多分、ローブ……。
数百メートル彼方。その光景を捉えられたのは、一秒にも満たない刹那だった。
停車していた車は発進し、信号は青に変わったと認識する。
改めて視線を向けた時、そこはもう、既に見えなかった。
「こんな時に幽才様が存在されれば…」
小声で願うようにして願望のように吐く声。
その声の主は助手席に座る芯だった。
「未澤さん、幽才様って?」
柊霞は左後ろを振り向くようにして執事の背の方を見る。
少し緊張感のある車内には芯の穏やかな声が全体に渡る。
「異名なのです」
異名…。
「過去二度。その内の一回。複数発生時に対処された方の異名が〝幽才〟様と呼ばれていたのです。一人で対処され、扱われる魔法は圧倒的とも言われるほどでした」
「過去形ですか?」
「はい。今では消息不明で、どこにも所属はされておらず、本当に謎の多い方なのです」
異名…か。
異名はロマンや神秘性を生み出し、存在に神話感を増す。
異名がただの「説」に留まるなら幻想や神話程度。
しかし、「魔法は圧倒的」と言われる具体的で極端な評価が加わる程までになると――。
それだけで一気に信憑性を強める。
魔法師達にとっては〝伝説の人物〟、語り継がれる人物となるだろう。
だが、時間が経てば経つほど勝手に存在さえも失われていく。
本当に存在はしているのに、表舞台に出なくなれば、その異名だけが独り歩きする。
やがて『説』という言葉さえ生み出され、架空の人物とされ、人が勝手にそうしていく。
これこそが、人間界における〝神話のルーツ〟なのかもしれない。
「あの、その方の正式な異名は幽才っていうんですか」
「いえ。正式には〝魔法の幽才〟と言われておられます」
✢¦✢
「ここだね。バランス感覚っと…。中心はここか」
深い紫を帯びた黒のローブが、華奢な身体を覆い隠していた。
裾は地に触れることなく、数センチ浮かんで漂う。
そして帆が風を受けては揺れ、その度に赤い裏地がひらめいた。
フードは深く垂れ、顔に影を沈め、目元すら覗かせない。
存在そのものが、この世のものではないような神秘的な雰囲気を漂わせる。
山奥にそびえる電波塔。その最頂に立つ影が、顔の周囲に帯のような陣を描き出す。
「ここまで散ってるのは⋯二度目、かな」
袖の奥から覗く腕は細く、白く細い指先が浮かび上がる。
肩から流れる布地の左肩近くの袖。
金糸で縫い込まれた『風鈴の文様』が淡く光を返した。
ローブの人物は両の人差し指を立て、帯の陣に指を触れさせて指し示す。
瞬間、帯は円へと変じ、細かな陣が幾重にも刻まれていく。
「二、四、…六箇所か。――そろそろ通知が行った頃かな」
正面に指を突き立てる。
右腕が掲げられた瞬間。陣から放たれる光が形を変え、巨大な針と化した。
数多の光の針が、各地の魔獣化した獣の中心点を正確に貫く。
「さっさと、終わらせよう」
ローブが風に揺れ、股関節から分かれた裾がはためく。
その隙間から覗く裏地の赤が、焔のように鮮烈に閃いた。
「二、一、ゼロ」
〝リン〟――。
風鈴の音が耳の鼓膜を美しく振動させる。
直後、各地で大地を揺るがす轟音は一瞬で消える。
連続して、幾つもの魔獣という巨影が、静かに魔を祓われる。
真っ黒の闇が煙になって消える。
通常の姿に戻り崩れ落ちていった。
「――これだけで、十分かな」
虚空に円環が現れ、そこから赤い柄の風鈴が取り出される。
右手首に紐を通し、顔の前へ掲げる。
フードの奥から赤い瞳がわずかに覗く。風鈴越しに正面を射抜く。
次の瞬間、四つの光球が襲いかかる。
赤〈炎〉青〈氷水〉黄〈雷〉白〈雪崩〉――破滅のごとき属性が一点に殺到する。
動揺もしないローブの人物の、間合い一メートルに入った瞬間。
〝リン〟
手首を揺らし、風鈴をわずかに鳴らす。
すると光球は爆風も閃光も残さず、霧のように掻き消えた。
ローブの人物は静かに左腕を向かってきた正面に伸ばし、指先を向ける。
その先端には、先ほどよりも巨大。
そして鋭い光の針が顕現する。
触れるや否や、光速で大気を裂き飛び去る。
ローブ全体が光速の烈風によって揺れる。
それは深いフードまでもが揺らぐ。
影の奥で、赤い瞳が一瞬だけ燃え上がるようにして、フードの隙間から顕になる。
さらに右腕を天に掲げ、人差し指で下方を指し示した。
それは光の塊を呼び寄せた。
先程の四つの光球すら凌駕する規模のものを、真っ向から放った。
大地が震えるよりも速く、結果は決していた。
やがて風鈴は、ふっと存在を消す。
赤い瞳もフードの闇に沈む。
懐からスマホを取り出し、片手で軽やかに操作する。
すぐに電波塔から音もなく跳躍した。
夜が明ける闇。
仄かで、か細い美しい朝日の光とともに、溶けるようにして消えて行った。
✢¦✢




