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旅立ちの日のうた

刃に、青い月が映りこんだ。


 ふと、少年は我に返り、腕を下ろした。ヴァイキングソードの剣先が、白いスミレの花を散らす。

 稽古の時はいつもこうだった。少年には、自身の心音しか聞こえない。そして、世界で一人きりになって、この中庭から消えてしまえれば楽だろうな、と彼は考える。いつもそこまで考えて、面倒になってやめてしまう。


だが今日は、いつもと違うことがあった。

少し肌寒いと感じた。それから、聞いたことのない小さな歌声が耳に届いた。彼はそれが気になったのだ。

彼はあたりを見回した。中庭に面した回廊には、物々しい鎧がある。エニシダの紋章があしらわれたものだ。それの前に、いつもはないものがあるのに気がついた。

淡い光に照らされた小さな女の子を、彼は食い入るように見つめた。


素敵な夜だね。

フワリと微笑んで、彼女は言った。



旅籠屋に二人の客が座っている。

「オレは騎士になりたかったんだよ」

と、一人が語る。

ゆったりした服を身にまとい、長く美しい青銀髪を、毛先に近い位置で括っている。どこか冷めている目つきをした青年だった。

彼はかつての少年だ。その手に握るものは、いつしか剣ではなく楽器に変わっていた。

「で、ボーズはなんで人形使いなんか?」

「ボーズはやめてってば、ベルナール」

 もう一人の客が抗議した。

 短い栗色の髪の毛に、どんぐり眼。幼い風貌だった。頭にはバンダナを巻いていて、結び目のあたりから、小さな石を連ねたアクセサリーが四本、おさげのように垂れていた。

「ああ、悪いな、ノラ」

ベルナールと呼ばれた彼は、悪びれた様子もなくさらりと言った。


ノラとベルナールは、数時間前にこの町で知り合ったばかりだった。

 町のほぼ中心には、広場がある。人通りが多く、旅芸人たちがよく集まる場所だった。

 そこでノラは奇妙なガイコツのマリオネットを操りながら歌を歌い、一方ベルナールは大きな噴水を挟んだ向こう側で、下手くそな歌を歌いながらマンドーラ(弦楽器の一種)をかき鳴らしていた。

 客は閑古鳥であった。

 普段は買い物帰りの女たちや子供の姿で溢れているのに、この日に限って人っ子一人見当たらない。偶然だったのかあるいは別の理由があったのかはわからないが、兎にも角にもそういう状況だったので、二人がお互いに気付くのに時間は要さなかった。

「センス悪いな、その人形」

 と、先に声をかけたのはベルナールの方だった。話しかけてから、自分のことながら彼は驚いた。人に対して興味が湧くなんて、珍しいこともあるもんだ、と。

「君は、面白い歌だったね」

 ノラも笑顔で返す。「マンドーラも上手だし」

 面白い歌、というのはどうやら皮肉ではなく素直な感想のようだった。褒められて毒気を抜かれたベルナールは、少し困って、

「あー、お前も歌はいいのにその人形じゃあな」

思ったことを率直に述べた。

「そんなに変かなぁ、この人形。ランスくんっていうんだけど」

ランスくんがベルナールに向かって手を振った。動きは自然だったが、妙にリアルでますます気味が悪い。

「かわいいのに」

「そうか?」

「そうだよ」

二人はそうしてしばらく他愛もない話をした。相変わらず、広場には人っ子一人来なかった。

雲が朱色に染まりはじめた頃、二人は宿を取るために、肉屋や果物屋が立ち並ぶ通りを歩いていた。

「ベルナールはずっと一人で旅を?」

少し早歩きしながらノラが尋ねた。

「ああ……いや、芸人の一団と一緒に旅をしてたことがあったな」

ベルナールは嫌なことを思い出したと言わんばかりに眉に思い切りしわをよせた。

「これが表向きは旅芸人だけど、裏では窃盗やら誘拐やらやってる連中で」

「うわあ」

「おかげ様で金には困らなかったけどな。オレも宮廷を追い出されたばっかりで右も左もわからんうちだったし」

「宮廷にいたの?」

ノラは目を丸くした。

「あ、あったぜ」

問いに答える前に、ベルナールが旅籠屋の看板を指した。

二人は重い木の扉を押して中に入った。一階は居酒屋になっていて、宿泊客らしい人と仕事を終えた男たちが数人、ワインを飲んでいた。

「小姓として仕えてた」

一番奥の席に腰を降ろすと、ベルナールがボソボソと呟いた。

「え?」

「オレは騎士になりたかったんだよ」

だからまず小姓として宮廷に仕えなくちゃならなかった、と悔しそうに彼は続けた。

彼らのテーブルにビールが運ばれてきた。ベルナールはそれを一気に飲み干した。

「お前は?歌だけで十分食っていけるんじゃないか」

「ボクは、人形が好きだから」

「ふぅん」

曖昧に笑って答えるノラに、ベルナールは気のない返事をした。

二杯目のビールが運ばれてきた。

今度もそれを一気に流し込むベルナールを見ながら、食事はまだかな、とノラは思った。

「いいねお前は。オレは音楽なんて嫌いだよ」

ベルナールがそう言い終えた瞬間、店のドアが乱暴に開かれた。大きな音がこだまし、何人かが振り返った。

入ってきたのは、一人の屈強そうな男だった。

「強いものを」

低い声で唸るように言うと、彼はノラたちのすぐ隣の席になだれ落ちるように座り深くうなだれた。

筋肉で盛り上がった腕は、何故だか頼りなさげに見える。

旅籠屋の主人は彼にワインを出した後、ベルナールに三杯目のビールを運んできた。

「あの人は?」

ご飯はまだかな、と聞きたかったのだが、急かすのも悪い気がして、ノラは代わりにそう聞いた。

「新米騎士ですよ、領主様のところの」

「へえ、酷い落ち込みようだ。アレが騎士サマねえ」

ベルナールは眉毛をつり上げた。

主人は少し迷惑そうな顔で、どうやら大事な人を亡くしたらしいというようなことを耳打ちすると、そそくさと厨房に戻っていった。

「ふぅん」と呟くと、ベルナールは座り直して泡のなくなったビールをゆっくり飲み下した。

「ベルナールはどうして吟遊詩人になったの?」

ノラは話を戻した。

ちょっと顔をしかめて、「それしか出来なかったからだよ、剣以外に」とベルナールが答えた。

「ん、あと盗みは得意だな。捕まったところから抜け出したり」

「なのに盗賊にならなかったんだ」

クスクスとノラが笑った。

「盗賊はダメだな」

ベルナールが大きくうなづく。

「あんまり派手にやると捕まるし、人殺しは面倒臭い。あ、そうだ」

ベルナールは自分の荷物をゴソゴソと漁った。

「こないだ盗賊からくすねてきたんだ」

と言って、ベルナールは一つのマリオネットをテーブルに置いた。

女の子の人形だった。

白い衣装は所々黄ばんでいたが、刺繍が施された美しいものだ。

「わあ、かわいいねぇ」

「売り払ってもいいんだが、欲しいなら……」

「君、これどこで!?」

騎士が突然大声を出して立ち上がった。

「うわっ」「ひっ」と、ベルナールとノラは同時に驚きの声を上げた。居酒屋は一瞬にして水を湛えたように静まり返った。

しかしそんなことはお構いなしに、騎士がベルナールににじり寄る。

「どこで手に入れたんだい、え?」

「二、三日前に盗賊からくすねたんだよっ」

思わず身を引いたベルナールの胸倉を、騎士はがっちりと掴みあげる。今にも泣き出しそうに歪んだ彼の表情は、まるで助けを求める子犬のようだった。

その時、様子を呆気にとられて見ていたノラの腹の虫が、唐突に鳴った。

ノラはカーッと赤面した。どこからか笑いが漏れる。

「あっ、あの……ごめんなさい」

騎士はぽかんと口を開けてノラを見ていた。

ベルナールはその隙に騎士の手を服から引き剥がし、彼を思い切り睨みつけた。

店にざわめきが戻り、主人が食事をようやく運びはじめる。

「す、すいません、こちらこそ」

落ち着きを取り戻した騎士も、申し訳なさそうに頭を掻く。

「ほんとにな」

ベルナールがムッとしたまま噛み付くように言った。そして肉を頬張ると、手で騎士を追い払う。騎士が目に涙を浮かべるので、ノラは気の毒になった。

「ベルナール、この人の話、聞いてあげようよぉ」

ノラが言った途端、騎士の顔が明るくなったのを目敏く発見したベルナールは、ノラにパンの載った皿を押し付けた。黙って食え、と言いたいらしい。

またノラの胃が空腹を訴えた。仕方がないので、ノラはパンを頬張りつつ騎士に目配せしながら、片手で椅子を指差した。まあ座って、と言いたいらしい。

涙を拭い、騎士はノラの隣におずおずと腰掛けた。

「あんあんら」

「ほおひたお?」

食べ物を含んだまま二人が口をきいた。

「この人形、盗賊から盗んだって言ってましたよね?」

騎士が潤んだ瞳をベルナールに向ける。さっき答えたはずだと思いながら、ベルナールはうざったそうに首を縦に振った。

「これを、いただけませんか」

不安そうだった、しかし一片の光がその声にはこもっている。

わざと咀嚼を長引かせ、ゆっくり肉を飲み込んで、意地悪くベルナールが答えた。

「ごめんだね」

「どうしてこの人形が欲しいの?」

再度ベルナールに掴みかかろうとする騎士を押しとどめるようにして、ノラが急いで聞いた。

「私の恋人のものなんです」

騎士はうつむいた。

「彼女は領主様のお抱え楽士でした。歌がとても上手だった……その頃まだ見習い騎士だった私は、彼女に憧れていました」

二人の馴れ初めをベルナールはものすごくつまらなそうに聞いていたが、騎士は気付いていないようだった。独り言のように、彼は先を続けた。

「ある月が綺麗な夜に、彼女が一人で歌っていたんです。?あの噴水の上に幽霊があらわれたのよ!?って。私は思わず?本当ですか??と聞きました。彼女はびっくりして歌をやめ、私たちは見つめあいました。それから」

「もーいい、要点だけ言え」

話にうんざりしたベルナールが遮った。

騎士はキョトンして「これからが素敵なのに」と唇を尖らせた。

「で?」

「私たちは恋に落ちました。数年して私は正式に騎士になり、彼女との結婚も約束していたんです。でも……」

騎士はそこで言葉を切り、嗚咽をもらした。

パタパタと落ちるしずくが、木のテーブルに染みを作っては消えていった。

「数ヶ月前、領主様の宮廷を、盗賊が襲った」

「それで、どうなったの?」

ノラが先を促す。

「領主様は無事でした……でも、彼女は」

騎士は首を横に振った。どうなったか、言うのも憚られるという様子だった。

ノラもベルナールもおし黙った。

息を落ち着けると、騎士は話を続けた。

「その時、彼女が大事にしていたその人形も持ち去られたようでした。彼女は、死に別れた恋人にもらったというそれを、とても大事にしていました」

「形見に欲しいんだな、この人形が」

ベルナールが聞くと、騎士は涙を拭きながら小さくうなづいた。

「いいのか?昔の男にもらったもんだぜ」

「構いません」

騎士は毅然として言った。

「不甲斐ない私には、それでも十分過ぎるくらいです」

テーブルに突っ伏して騎士は低く呟いた。

「騎士になったって、大事な人一人守れやしない……こんな私には!」

彼はそのままおんおんと泣き出して、そのうちに眠ってしまった。


「なんでオレがこんなこと」

ベルナールが忌々しそうに舌打ちした。

寝入ってしまった騎士を放っておくわけにもいかないので、ベルナールは彼を担いで二階に上がった。空室のベッドに彼を乱暴に転がすと、ベルナールは大袈裟に肩を回した。後ろからついてきたノラが騎士に近付き、布団を掛けてやる。

騎士の頬には涙のあとが残っていた。ノラは慈しむように、それを指で拭った。

ベルナールはノラを一瞥してから踵を返し、部屋から出ようとした。

「ベルナールは、守りたい人はいた……?」

穏やかな声だった。

「騎士になって、守りたかった人がいたの?」

ノラがまっすぐにベルナールを見た。ベルナールはドアノブに手をかけたまま止まった。

「別に」

振り向かずにベルナールが返事をする。

「生き延びるために強くなりたかったってだけのことさ」

ベルナールが答えても、ノラは何も言わなかった。

「騎士になったって誰も守れないって言うけど、音楽や人形劇なんてそれこそ何も守れやしないんだぜ?」

振り返ったベルナールがノラを見つめ返した。

部屋は沈黙に閉ざされた。


ベルナールには、それがとても長い時間に感じられた。

「……そうだね」

柔らかい表情で、ノラが囁くように言う。

「でも」

「救うことは出来る」

その声は決然としていた。


借りた部屋に戻ると、ノラは女の子の人形を手に取った。よく見ると、人形の背中に小さく文字が彫られている。少し削れていたが、


アルチュールより、愛しいリュシーへ


そう読むことが出来た。

「あの騎士さんの恋人は、リュシーって言うんだね」

ノラが文字を指でなぞりながら呟く。

その手がわずかに震えているようだった。ベルナールは不審に思った。

「どうした」

「え?」

ノラは顔をあげた。表情が強張っている。

ノラはベルナールの問いには答えず、ベッドに座り込んで人形を寝かせた。

「おいって」

「なに?」

「なにじゃなくて、一体何があったんだ、急に。顔青いぞ」

「これからちょっと怖いことをするから」

ノラはぎこちなく笑ってみせた。

「もしかして、あいつを救うためにか?」

ベルナールが聞くと、ノラは小さく首を動かして肯定した。

ベルナールは困惑したように長い前髪をかきあげた。こんな小さい子供が怖い思いをしてまで、あの騎士を救わなきゃいけないものか。

「あいつは赤の他人だろ。それにいい大人だ」

「大人だって苦しい時はあるでしょう。助けてあげなきゃ」

「子供のお前が苦しんでまでか?」

ノラが目を大きく見開いた。そしてほんの数秒考えてから、こう言った。

「ボクはもう十二歳だし、それにベルナールにとってはボクだって赤の他人でしょう。ボクの心配はするのに、騎士さんの心配をするのはダメなの?」

返す言葉に詰まったベルナールに、ノラは微笑みかけた。

「ありがとう、ベルナール。でも、大丈夫だから。そのかわり、ちょっと協力して欲しいんだ」

ベルナールは、何も言わずにうなづく。すると、これから見るものを誰にも言わないでほしい、とノラが頼んだ。

「わかった」

ベルナールがもう一度うなづくと、ノラは安心したように「ありがとう」と言った。

ノラは横たわった人形と向き合った。瞼を閉じ、深呼吸をする。

やがて意を決したように目を見開き、人形の体にそっと指を乗せた。

途端にノラの指先がぼうっと光りはじめた。光は、指から人形の体へと広がっていく。人形がすっかり光に包まれると、ノラは再び目を閉じて、何かを呟いた。

どこの国の言葉か、ベルナールにはわからなかった。その呪文めいたものはまるで歌のようで、不思議に心地が良かった。

まもなく?歌?は終わった。

「さあ起きて、リュシーのお人形さん」

ノラがそう声をかけると、人形がぴくりと動いた。ベルナールは見間違いかと思って目を瞬いたが、人形は二、三度ぴくぴくしたかと思うと、ゆっくりと起き上がってこう言った。

「まあ、あなたは誰?」

「ボクはノラだよ。こっちはベルナール」

 呆けているベルナールをよそに、ノラは人間と話すのとなにも変わらないといった様子で人形と会話している。

「あなたが私を動けるようにしてくれたのね。すてきよ、最高の気分。お礼をいうわ。ありがとう、ノラ」

 人形は小首を傾げた。多分、微笑んだつもりなのだろう。

 あまりのことに声も出なかったベルナールが、

「すごいな」

 やっとそれだけ言った。

「あんまり驚いてないみたいだね」

「いやめちゃめちゃ驚いてる」

 ベルナールが事態を素直に受け入れていたので、ノラは内心で安堵した。この力を見た人間は、手品か何かだと疑うか、異端扱いしてノラを嫌うかだった。

「昔からできちゃうんだ、こういうの」

と、ノラは自分の手に視線を落とした。

ああそれでか、とベルナールは納得した。知られるのが怖かったんだ、と。

「それでね、人形さん。お願いがあるんだけど」

「あら、私もよ」

うふふと人形が笑った。しかし、表情は変わらないのが少々不気味だった。手足は動くのに何故顔だけ動かないのか、ベルナールは疑問に思ったが口には出さなかった。きっとそういうものなのだろう。

「私、歌が歌いたいのよ。でも一人では歌えないの。お手伝いしてくださらないかしら?ベルナール」

「オレが?」

名前を呼ばれ、彼の眉がわずかにつりあがった。

「ええ、そうよ。あなた、楽器が弾けるのでしょう」

「お願い、ベルナール。手伝ってあげて」

と、ノラが立ち上がって言った。協力すると約束した手前、今更嫌だとは言えなかった。ベルナールがしぶしぶ、わかったよ、と返事をすると、ノラはにっこりして今度は人形に言った。

「ボクからもひとつお願い。人形さん、あの騎士さんを救ってあげて。出来ると思う、君とベルナールなら」

 すると人形はうつむいて黙った。表情はやはり読めない。

「ていうか、オレが救うって?あいつを?そんなこと出来るわけが……」

「そうね」

 人形の明るい声がベルナールを遮った。

「いつまでもクヨクヨして、本当にしょうがない人なんだから。目を覚ましてやらなくっちゃ。安心して、ノラ」

「というわけだから、よろしくね、ベルナール」

ノラの満面の笑みを見て、ベルナールははあとため息をついた。


 あたりは沈黙に閉ざされ

 夜は深く、暗く

 噴水の水面は

陰鬱な月の青白い光を映していたわ


「リュシー……?」

騎士はふと目が覚めた。

歌が聞こえた気がした。

重い体を窓の方に向ける。外はまだ真っ暗だ。

こんな時間に、歌なんて誰が歌うだろう。きっと夢を見ていたんだ、と騎士は覚醒しきっていない頭でぼんやりと考えた。


そのとき、深く沈んだうめき声が

風に乗って聞こえてきたの

すると

あの噴水の上に幽霊があらわれたのよ!


夢じゃない。

騎士はガバッと起き上がった。

そういえばいつの間にかベッドで寝ていたが、そんなことはどうでも良かった。

確かに、騎士の耳には聞こえる。

マンドーラの響きと、澄んだ歌声が。

「この歌は……」

 頭が酷く痛んだが、それどころではない。

彼は転がり落ちるようにしてベッドから出て、窓に駆け寄った。下を覗き込む。人影が二つ見えた。

 階段を騒々しく駆け下りて、騎士は扉を開け表に飛び出した。

 そこには誰もいなかった。

 おかしい、と騎士は焦った。確かに人がいたはずだ。それに、まだ音楽は続いている。

 音を頼りにして、騎士は走った。果物屋をすぎ、肉屋の隣も走り抜けた。まだだ。音楽は彼から逃げるようにして移動を続けているのだ。

 突然、騎士の目の前が開けた。

 高いところに青い月が浮かんでいた。

 彼の正面に噴水があった。広場まで出てきたことを、彼は理解した。

 噴水の前で、リュシーの人形がくるくると踊っている。


 まるで誰かに語りかけるかのように

その唇が動いたわ

そして死んだような手で

私に手招きをしたの


違う。

歌っているのは、ノラだ。

人形も、ノラが操っているのだ。


――そうだ、あの人は、リュシーは死んだんだ。

騎士はそう思った。


マンドーラを弾いているのは、ノラの斜め後ろにいるベルナールだった。

「どうして、あの二人がこの曲を……」

 初めて言葉を交わした日に、リュシーが歌っていた曲だった。

 彼女はこの曲が大のお気に入りで、綺麗な月夜には必ず歌ってくれた。あの頃は、彼女が自分で伴奏を弾いていたのだと、騎士は思い起こした。

 ベルナールの奏でるマンドーラは大雑把でぶっきらぼうで、リュシーの優美で繊細な音色とかけ離れてはいたものの、不快ではなかった。

 ノラの声もそうだ。リュシーより幼く、似ているわけではないのに、彼には懐かしく感じられたのだ。

 リュシーと過ごした日々が、彼の目にありありと浮かんだ。

 一緒に歌を歌った。

ケンカをして泣いたこともあった。

リュシーの声も、二人で見た月も、一番最後に見せた優しい顔も。

 全てが幸せで、暖かだった。


 あの人は私の人生の光

 そして私の苦しみのなぐさめ

 あの人が心からの言葉で

 私に永遠の愛を誓うとき

 私は苦悩を忘れ

 涙さえ喜びに変わるの


 騎士は、一言も逃すまいとして耳を集中させていた。

 本当は、この続きは聞きたくなかった。

 彼女はいつもここで歌をやめた。だが彼は一度だけ聞いたことがあった。

気丈だった彼女が必死に涙を堪えながら、死に別れた恋人のアルチュールの名を歌い上げていたのを。

たとえそれでも良かった。騎士は、リュシーの歌をいつまででも聞いていたいと思った。


 あの方の優しい声が

 私の心に響いたわ!


ノラが高らかに歌った。

騎士は、自分に自信がなかった。リュシーが昔の恋人のことを忘れられないのがわかった時、激しく動揺した。

彼女に頼ってもらいたかった。自分が強くなったら、彼女を守ってあげられる、彼女の支えになれるはずだ、と騎士は思っていたのだ。

でも、結局彼女を守れなかった。

この歌を聞けば、きっとまた罪悪感と嫉妬が騎士を責め続けるだろう。

その方が楽なのかも知れないとすら、彼は思っていた。


ああ、あの声が

私の心の中に降りてきたの!


死に際に、リュシーは

「大丈夫だから、泣かないで」

 そう言った。

 支えられてばかりだった。

彼女には何もしてあげられなかった。

それなのに。


 エドガール!


 騎士は驚いた。

リュシーは、アルチュールと歌っていたはずだ。

それだけではない。

「名前、教えてないのに……」

 ノラは歌い続けた。


 エドガール、祭壇よ

まあ、薔薇で飾られているわ!

聞こえない?

あれは婚礼の歌!

私たちの婚礼の準備をしているのよ

ああ、幸せな私!

とうとう私はあなたのもの、あなたは私のもの!

どんな喜びよりも幸せな喜びを

私はあなたと分かち合うの!


「守れなかったのに」

 エドガールが呟いた。

「君を守れなかったのに、君は私を愛してくれていたのかい」


 ああ、幸せな私!

 言葉に尽くせないこの喜び!

 人生は 私たち二人にとって

 神聖な祝福となるのね!


歌が終わった。

人形はぺこりとお辞儀をした。



 そして夜が明けた。

「やるよ」

 エドガールの手に、人形が渡された。

「いいんですか?」

「別に」

 ベルナールはあくびをしながらぶっきらぼうに答える。

「どうせ売ってもたいした値段はつかなさそうだしな。それに、オレやノラにはあんまり必要ないだろ」

「ありがとう」

 と礼を述べて、エドガールはベルナールと握手した。

「はは、君の手って意外とゴツいんですね」

「本当に旅に出るの?」

 ノラが少し心配そうに尋ねた。

ええ、とエドガールはうなづき、ノラにも握手を求めた。

「宮廷楽士になる前、リュシーは旅をしていたそうですから。彼女が見た世界を、私も見てみたくなったんです」

 彼女の歌を口ずさみながらね、と言って、彼は少し寂しそうに微笑んだ。

 ノラは手を強く握り返して、

「そっか」

 それだけ言った。

「守れはしなかったけど、私も少しは彼女を幸せにできたのかなって。あの歌を聞いて、そう思いました。二人とも、ありがとう。本当に」

 エドガールは何も詳しいことを聞こうとはしなかった。

「うん」「じゃあな」

またどこかで会えるかも知れませんね、と言ってから、二人に背を向けて騎士は町を出て行った。

彼が振り返ることはなかった。

二人は彼が遠ざかるのをしばらく見送った。

「さあ、オレたちもそろそろ行くか」

 ベルナールが大きく伸びをする。

「そうだね」

 楽しそうにノラが答える。

「そういえば、あの人形の声、あいつには聞こえたのか?」

 マンドーラをいつもより慎重に背負いながらベルナールが聞くと、ノラは首を振った。

「わかんない。でもボクも手伝ったし、ベルナールも協力してくれたから、想いは伝わってるよ。たとえ直接声は聞けなくても」

 ベルナールは、少し悩んでから、ためらいがちに呟いた。

「音楽もたまには役に立つかもな」

「うん」

 ボクもね、とノラは続ける。

「誰かの役に立つなら、こんな力でも持って生まれてきて良かったかなって、そう思うんだ」

 ノラは自嘲気味に笑った。

「そうか」

「うん」

 二人は静かに言葉を交わして、歩き出した。


 

青い月が出ていた。

草むらに二人は座っている。

二人の間には焚き火があった。時々火の粉がパチパチと音を立てて弾けた。

「野宿だねえ」

 ノラがのんびりと言った。

「野宿だな」

 ベルナールが答えた。

 ノラはランスくんを持ち上げると、静かに歌を口ずさんだ。

「?起こす?のか?」

「うん、ランスくんは面白い子なんだよ」

 無邪気に返事をして、ノラはまた歌を再開した。

 ベルナールはふと、気になっていたことを聞いた。

「なあ」

 ノラが歌をやめて、ベルナールの方を見た。

「なに?」

「あの時、なんでオレの前であの力を使ったんだ?本当は誰かに知られるのが怖かったんじゃなかったのか?」

「うん、そうだねえ」

 相変わらずのんびりと、ノラが言う。

「でもベルナールなら、教えても大丈夫かなって、思ったんだ」

 ノラが夜空を仰いだ。ベルナールもそれにつられて上を見上げる。

「なんでだよ?」

「綺麗な音だったから」

ノラはフワリと微笑んだ。

「マンドーラがね、すごく綺麗だった。こんな音を持ってるんだから、悪い人なわけがないって思ったんだ」

言われて、ベルナールは呆気にとられた。

「なんだそりゃ」

なんだかむず痒くなってしまって、ベルナールはマンドーラを弾き始めた。


「素敵な夜だね」

ノラは気持ち良さそうにそう言って、目を細めた。


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