災厄の悪夢
辺り一面に立ち込める咽かえるような血の匂い、夜闇の中だというのに家々が燃える光を照り返らせる水たまりはワインのように深く緋く、切り刻まれ撒き散らされた腕や足、耳が浮く血の池を煌々と照らしていた――
「フハハハハハハ、アハハハハハ、ようやく…ようやくだ」
私の血で滲む視界の端、燃え盛る家屋の中心に私の友の、母の、父の首を束ね山と積んだ男が笑う姿が見えた。
一振り血の様に緋い杖を振れば立ち向かった男たちの臓物が飛び散り、一目睨めば家屋が燃えた。この悪夢を齎した災厄の男。
男はニヤニヤと笑みを浮かべながら杖を振り町中の命を刈り取っていった。
魔力もなく誰にも迷惑をかけず力がない種族だからこそ支え合い努力によって自分たちだけで一次産業から三次産業まで成り立たせていた小さな都市。今その都市は周囲を獅子や大蛇の魔物で取り囲まれ、都市の中の行けとし生けるものは一人残らず男に命を奪われていった。
辺りには首や腕など部位ごとに積んだ山が、いくつも散見できる。全身のこったまま倒れている死体の山もいくつもある。私の上にも、友達や行きつけのお店の夫婦が胸を貫かれて積まれていた。
「万の命を贄に、種族の終わりを糧に…さぁ古き契約に従い我が前に顕現せよ!!!」
辺りの血なまぐささを巻き込んだ風が男に向け渦を作るように巻き込まれていく。風は空に暗雲を呼び、暗雲からは雷が起こり光る。ポツポツと雨がふりだすと、それはたちまち勢いを増し嵐となった。燃える家屋の炎を鎮めるほどに強く降り注いだことにより辺りは再び夜の暗闇を取り戻していた。
私も喉と心臓こそ逸れたようだが胸を穿たれ穴が開いていた。心臓の拍動にあわせコポコポと溢れる血。味覚も嗅覚も視覚も血に染められ、触覚は冷えていく他人の体と自分の体温が似てきていることを知らせている。もはや動かせる四肢など無いのだ。
「我が願いを叶え、その身を我に捧げよ!!」
男の足元を中心に青白い炎のようなものが生まれると辺りを白く照らし出し明るくなったことで再び視界には悪夢の情景が飛び込む
幸せの絶頂にでもいるかのような嬉しそうな声が耳に響く
まだまともに働き悪夢の声を捉える聴覚を恨めしく思う
――あぁ、もう死ぬなら、早くして
私は、もうみんなの死んでいるところなんてみたくないの
早くこの耳を塞いで
早く思考を奪って
早く荒れ果てる心を消して――
嵐の雨粒にも消えることなく炎は広がり死体の山を線で結んでいった。
私のいるところにも火の手は迫り、ようやく私は終わることが出来るんだと安堵した。
男は尚も叫ぶ
嬉々とした表情で
嬉々とした声色で
――死ねばいいのに、私には何もできないけれど、お前も炎に焼かれて死ねばいいのに――
「大罪の化身!!!セルティネイキアの寵児よ!!!!」
男の目の前に炎の柱が経つ。
私にも炎が到達した…だが熱くも無く、よく見ればこの炎は、どの死体の髪の1本も燃やしている様子は無かった。
――死ねばいいのに、火柱の前で笑ってるお前が、お前だけは焼かれて死んで
瞳を閉じれば地獄を見ずに済むけれど、私はただ強く男の死を願い睨んでいた――
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
地響きとともに火柱が収まると、そこにはクマのようなトナカイのような顔に山羊の角を巨大にしたようなものを生やした『何かが居た』角は鋭く、強靭な筋肉の窺える上半身は人と変わらない見た目だが、指先の爪は猛禽類のように鋭い
――何でもいい…その角で、その爪で…そいつを殺して
“男よ…貴様が我輩を呼び出した者か――”
頭の中に直接響く低い虎が唸るような声
刻一刻と迫る死を前にした私の頭を割ろうとするかのように痛みを伴い響く
「そうだ!!貴様は呼べば叡智を、力を、望むものを与えるのだろう!?全てだ、叡智も力も富も!!全てを寄越せ!!このワタシを神に近しき者としろ!!!」
“ふ…ふははははは、欲深き者よ。種族の根絶やしと万の命を贄にするという条件を超え我輩を喚んだだけはある。よかろう、我が力を汝に授けよう…好きにするがよい”
『何か』は男に手を翳すと溶けるように消えて行った。
「フフ…フフフ…フハ…フハハハハハ沸き上がる、これが、これが『力』か、この湧き上がる充足感、使い果たせぬほどの魔力…ははははははワタシはワタシは、神に、神に近づいたのだ!!!」
――死ね
そのまま死ね
息を止め死ね
心臓を止め死ね
響く声に頭を割られて死ね
雨に跳ねる血の毒に侵されて死ね
私の恨みに身を焦がして魂まで消し飛んで死ね
何か知らんが願い果たせず後悔とともに死ね
死ね、ただ死ね、後も死ね、先もなく死ね
恨みに怯えて震えて死ね
男はフワリと体を浮かすと満面の笑みを浮かべ杖を握る
3階建ての屋根の更に上、倍ほど高く空へ浮かぶ、青白い光に照らされ
雷鳴を背に手にした杖を横なぎに、ゆっくりと振るう
瞬間、爆音が辺りをつつんだ
鼓膜を劈くような激しい空気の波
視界が捉えるのは吹き飛ぶ建物と、吹き飛んだ後に荒野になった大地だった。
「あはははははは、素晴らしい…素晴らしいじゃないか…国に帰りまず戦火を、直に次代の王に…そしてゆくゆくは世界を我が手に!!…ふは…フハハハハハハハ、私は生ける神となるのだ!!フハハハハハ」
――死ね
吹き飛ぶ瓦礫に臓腑を穿たれ苦しんで死ね
立ち上る土ぼこりで肺を病んで死ね
手に持つ杖を喉に刺さされて死ね
これから死ぬ私より先に死ね
空から降りる前に死ね
意味もなく死ね
落ちて死ね
すぐ死ね
今死ね
死ね
男は天に向かって杖を掲げると、そのまま空の彼方へと飛び去って行った。
私の願いは叶うことなく、私の祈りは届くことなく、男は生きて彼方へ消えた。
男は消えたが青白い炎は消えなかった。
煌々と死と血と瓦礫を映し出していた。
もう私には瞳を閉じる力もなかった。
青白い炎は男が立っていた場所に向け集まっていった。
火柱を立てると辺り一面が先ほどの何倍も明るく真昼の様に輝いていた。
火柱の中から人影が見える。
「クスクス…莫迦よねぇ、あんな悪のシンボルみたいな美しくない者に叡智なんてあるとでも思うのかしら」
火柱が収まると、そこには一人の女性が立っていた。
煌々と輝く光を吸い込むように深い緋色の長髪を靡かせ、美しいスタイルを見せつけるような格好に髪の色より暗い限りなく黒に近い緋い外套を肩から掛け、辺りを見回していた。
「叡智を求めるに相応しくないの。儀式と言う手順を踏めば望む結果が得られる?フフ莫迦にしているのかしら」
女性は口元に指をあてる。その仕草からは妖艶さが漂っていた。
「深淵を覗いた時から私たちにも覗かれているのよ?手順なんて私たちの庭に入ったに過ぎないの、生贄や儀式の難易度は、面倒な願いをもって庭先から喚ばれないようにする私たちの工夫と、この世を慮った神々の配慮なのに」
全身を残したままの死体の山に腰かけると女性は続けた。
「手順を踏めばオシマイなんて莫迦の話、私聞きたくないのよ」
目線が合った。
「聞いてるんでしょ貴女」
ただ目を合わせたままだったが私の心臓は、もう止まる。
体から溢れる血液が暖かく感じ、喉を通る血液を冷たく感じる。