アプリケーション その12
「うわ、ちょっとおじさん、トイレを我慢してたのかい? ヴィンセントさん、力加減を間違えました?」
「その名前では呼ばないでくれないかしら。確かに私は彼の脳みそを再利用はしているけれど、この肉体は本来ミザリーのものよ。だから名前を呼ぶときは、肉体名で呼んで頂戴。それに、私は間違えてなんかいないわよ。貴方こそ、失敗したんじゃあないの?」
諍い始める二人だが、口では喧嘩し合うもののテキパキと協力し合って恭二の服をすべて脱がす。
ズボンも下着も、上着も何もかも。
そうして全身丸裸にした後、ぐったりした肢体を支えて椅子に座らせる。
この間も恭二の意識ははっきり覚醒したままだが、身体をピクリとも動かすことは出来ずにいた。
お前ら何をしやがる! そう言ってやりたいのも山々ではあったのだが、舌もほとんど動かすことが出来なくて、口から出るのはだらだらとした唾液だけの有様だった。
「ま、こんなもんかな。それじゃおじさん、せっかくだから最後に説明をしてあげようか。自分がこれから何をされるのか、よおく聞いておくんだよ」
そして青年は女性と見合わせ頷き合う。
二人はそれぞれ片手を恭二の胸に当てがって、そっと腕に力を込め――ズブリ。
手のひらが恭二の胸に突き刺さる。
否、沈むようにめり込んだ。
「――……ッ!?」
両目いっぱい見開いて、恭二はその様子を眺めた。
明らかにまともじゃあない。
素手が肉体に埋まるなど、まるでそれは――
「完成されたバロウルに、手袋や道具は必要ないの。触れるだけで同調できるのよ。私たちはあのお方の残響から、枝分かれした存在だから」
「ほら、目を逸らさずに。よおく見ててよおじさん。僕らは他人に直接触れることで、今の貴方の状態みたいに身体の神経をマヒさせたり、こうして引きずり出すこともできるんだ」
キラキラとした細い糸のような、網のようなものが青年の手のひらに引っ付いて、胸の中から引きずり出されてしまう。
恐怖が振り切れ思考力が鈍化してしまった恭二の脳みそは、あれが神経の色なのかなあと現実離れした光景に対し間抜けな感想を浮かべてしまう。
否、神経にしてもその色味はおかしかった。
緑色のぱちぱちとしたスパークがうっすらと迸っていて、それが網目の上で循環しているから光っているように見えたのだ。
その光は青年・女性・恭二自身の肉体の間を稲妻のように走り回り、お互いの身体の中を巡り合う。
服で隠れて見えないはずの部分なのに、緑の光が走るのが目に映る。
それと同時に、これは全く不可思議な現象ではあるのだが、恭二の脳裏に引き攣った己の顔の映像が浮かんでいた。
「ふんふん、繋がりはバッチリみたいだね。判るかな? 視覚を僕らと共有していることに。こうやってバロウル連絡線を繋げていって、僕らの五感を共有していくんだ。いや、バロウル連絡線も可視出来るようになる上に、お互いの思考もある程度伝わるようになるんだから、六感とか七感も共有してると言っても差し支えはないかもね」
「視界だけじゃないというのが彼女よりも優れている唯一の点よね。まあ、彼女の方が視界共有の精度、すごく上みたいだけど」
「彼女の規模はちょっと凄すぎてねえ、比べる事さえおこがましいよ。もうほとんど地球を覆いつくしているんじゃあないかな。まあ、僕らが気にしたってしょうがない」
「そうね。私たちはうまく付き合えているもの。彼女の怒りを買わないように心がけておけば後は安泰だわ」
「そういう事」
彼女、彼女としきりに口にする存在が気になりつつも、恭二は次第に浸食されていく己の五感に眩暈を覚えて酩酊する。
つながる視界が多すぎて、聞こえる物音が多すぎて、肌に触れる感触が多すぎて、鼻を衝く刺激が多すぎて、痛みや熱さ、寒さ、痺れるような感覚、色とりどりの世界、世界、世界が広がり脳を埋め尽くす。
それは子供の頃何かに気付いた時の感動にも似ていた。
それは四十度を超えるうだるような暑さにも似ていた。
それは朝目覚めた時に瞳に残る夢の残滓にも似ていた。
しかしそれらのどれともまったく似通っていなくて、恭二は吐き気に襲われる。
胃袋が痙攣する。
目の前に居る女性の口から唾が飛び、恭二のむき出しの腹に降ってかかる。
彼女は腹にうずもれさせていない方の手で口元を拭いつつ、さらに腕を強く押し込んだ。
瞬間、脳裏に紫の雨雲がスパークする。
違った。それは天井を超え空を超え、大気を取り巻く紫の巨大ないばらの塊だった。
痛みや嫌悪に首を振る。
首を振る度視線の先が壁を透過し、様々な人たちの身体の一部からその蔦先が絡みついていることを認識する。
あれが彼女だ。あれが彼女のネットワークであると恭二の本能が告げる。
「馬鹿な……俺は今、何を見て……?」
青年の口を衝いて、恭二の言葉が呻き出る。
マヒしたままの身体の変わりに、青年の唇を借りて言葉を紡ぐ。
そんな自分の異能の力に恭二は戸惑い理解する。
もはや自分が自分でない事に。
何かと混じり合っている事に。
「やめろ、よしてくれ、お願いだ! なんでもする、なんだってする! 謝るから、俺が悪かったから、どうかこれをやめてくれ!」
今度は女性の口を借りて恭二は懇願を続けるが、二人は作業をやめる様子はない。
恭二は絶叫する。
恭二は絶叫する。
恭二は――絶叫する――
しかし助けを呼ぶ声をあげることが出来ない。
恭二はのどからただただヒュー、ヒューとした荒い呼吸音を吐き出すだけ。
それでもなんとか必死の抵抗をと全身をのけ反らせ、髪を振り乱しながら首を伸ばして逃げようと試みる。
そんな恭二の視界に映る、頭の先の向こうから歩いてくる緑色の異形。
ぺたぺたぺた。
人とは思えない動きでのたうちながら歩くそれは、次第に恭二に向かって近づいてくる。
「受け入れる時が来たよ」
「受け入れる時が来たわね」
口々に祝福の言葉を唱える二人とは対照的に、恭二はふと昔こっぴどく振ってしまった彼女との思い出が脳裏によぎっていた。
取材費ばかりがかさんで大した儲けにならないから定職についてとせがまれた事。
取材旅行の一環で、共に泊った温泉宿で食べた料理の事。
犬を飼いたかった彼女と、猫を飼いたかった自分とで喧嘩になってしまった事。
そして、妊娠を機に結婚を迫られた時、ついぞ面倒になって逃げだしてしまった事。
そういえば、あの時の視線。
恭二はおぼろげになっていく意識の中、別れの際にヴィンセントが向けてきた視線を思い出す。
思い起こせばあの視線、彼女を振ってアパートから追い出したときに向けられた、あの時の顔に似ていたなと今更ながらに後悔して、消えた。
――そして新たに彼が産まれた。
緑色の怪物を取り込んで、新しい意識が芽生えてしまう。
「おめでとう、自分の名前は言えるかな?」
「おめでとう、自力で立ち上がれるかしら?」
祝福の言葉を告げる二人の声には応えずに、彼はむくりと起き上がり、まじまじと自分の手のひらを眺めながら独り言ちる。
「寒いな。下半身が寒い」
「それはおじさんがお漏らしをしたのが原因だよ。着替えある?」
「無いな。よくよく考えれば着替えの類はレオンの車に積んだままだった」
「やれやれ、しょうがないなあ。お財布貸して、適当に買ってきてあげるから」
「頼む」
二人はまるで何事も無かったかのように、恭二も今までの恐怖と混乱が嘘だったかのように、平然としながら受け答えする。
濡れたズボンから勝手に財布を抜き取って、さっと表面の湿り気をシーツで拭いとると、青年は鍵兼任の携帯端末を片手に宿の外へと出ていった。
彼はそれを見送りながら、肌寒さを和らげるためにシーツをまくり上げて、ぐるぐる全身を包み込む。
彼女もそれを手伝いつつも、機能が万全であるかを身体に触れて調べていた。
「採取していた神経網が不足しているかもと思ったけど、なんとか足りたみたいね。予定外の急な同調だったから、ネットワークとの接続に不具合が出る可能性もあったのよ」
「それは仕方が無いな。ネットワークの管理者である彼女の怒りを買ったのだから。……いや、うん、待った。俺たちのオリジナルは今も俺の体内に居座っている。パーソナリティの再構築に不足していた分を、オリジナル自体が有していた神経網で補ったらしい」
「あら、大変。早く何とかして貴方の身体から出してあげないと。オリジナルの変わりに私たちで神経網をかき集めなくちゃいけないのね」
彼の身体に重なって、緑色の発光体が蠢いているのを彼女は霊視し、困ったわねえと首を傾げた。
けれども彼の方はさほど問題だと捉えてはいない様で、ベッドから立ち上がりながらこともなげにこう言った。
「なあに、俺の身体から離れられない程度には弱弱しくなっているけど、手足を引き出して他人に腕を突っ込むくらいのことは出来るだろうさ。電車やバスに乗って、何人か適当な乗客をつまみ食いすればすぐさ」
「それもそうね。けれど、万が一にも警察に疑われるようなヘマはしでかさないでよね」
「判ってる。それより、小便の臭いが気になって仕方が無いからシャワーを浴びてくる。ミザリーはそこに転がっている、汚れた下着と服をコインランドリーで洗ってきてくれないか」
「判ったわ」
適当なかごに衣服を入れ、彼女が出ていく気配を感じながら、彼は浴室のシャワーのアーチハンドルを引く。
給湯器の質の問題なのか、緩やかにしか温度が上昇しないぬるま湯を浴びながら、彼はまるで誰かに話しかける様に疑問を口にする。
「フムン。システムへの接続体は、俺を含めて四十五体か。だがここ一ヶ月ほどで急激に増やし始めたな? 理由を説明してくれ」
その質問に対する回答は、彼自身の口をついて放出された。
「なあに、簡単な事だよおじさん。バロウルの濫用によって霊的なチャンネルに繋がる人々が増えて来ちゃってね。管理者もだけど僕らもある程度の自衛と対策のために頭数を増やしておきたかったんだ」
「はん、超常能力の覚醒か。オリヤが言っていたことが実現するっていう訳か。……そういえばあいつ、性別はどっちなんだ? 俺は記憶を操られていたから判らないんだが、年齢すら覚えてないんだ」
「どれどれ……ふうん、なるほど。記憶を探ってみた感じ、オリヤちゃんは十七歳の女子高生みたいね。人の心を惑わせて、自分の姿を記憶させないように頑張っているなんて、涙ぐましくて可愛いわね」
まるでスピーカーのように彼の口から別人の口調が飛び交って会話を続ける。
あたかも気が狂ったかのようにしか思えないのだが、その喋り方はつい先ほどまで部屋の中に居た二人の口調そのままだった。
完璧な一人演技と見まごうばかりの様相だったがそれは違う。
彼の口から迸る言葉はすべて、彼と接続している存在たちとの会話であった。
「女子高生とは驚いた。あいつ、そんなに若かったのか」
「歳も近いからかな、彼女の瞳の力に感性を引きずられたんだろうね。若者ってやつは大抵無鉄砲なところがあるからね。僕の前任者も幽体離脱を繰り返してそこらじゅうをうろつき回っていたデバガメ野郎さ」
「ああ、中身が抜けたタイミングを見計らってその身体を乗っ取ったって、俺の中に居るオリジナルが囁いているな。そういう経緯で今のお前が産まれたのか」
返事の代わりに玄関が開く音がする。
近場のストアで青年が替えの服を購入して戻ってきた。
その事を五感全てで感じ取り、彼はシャワーを止め浴室を出てバスローブに身を包む。
部屋では青年が服のラベルをはがしている最中で、彼はそれを一瞥もせずにベッドに座り身体についた水気を拭う。
青年はそんな態度に文句ひとつ零さない。
彼らは同じシステムで動いている同一個体の端末である以上、そこに優劣も無ければ上下関係も存在しない、全く異なる同一の私という認識があるからだ。
バロウル連絡線ネットワークの上を彷徨い歩く、オリジナルの為だけに存在する枝の一つに過ぎないのだから。
「そういえば、俺たちのオリジナルは何者なんだ?」
渡された服に袖を通しながら彼はつぶやくように言った。
青年は汚れたシーツで床を拭いながらこともなげに言い放つ。
「開祖ブラウ男爵の神経網」
「……そいつは、驚いたな」
さして驚いたと呼ぶほどでもない冷めきった顔で彼は感想を述べた。
「もっとも、何が目的でそれを生み出したのかは僕らにも判らないし、オリジナルにも記憶が無いみたいなんだ。というか、オリジナルには本能じみた衝動しか備わっていないからね、ブラウ男爵が何の為に生み出したのか、全然覚えちゃくれちゃいないんだよね」
「勿体ない話だ。オリジナルの更にオリジナルの知恵と知識が存在すれば、こんなみみっちい肉体泥棒なんてせずに済んだだろうに」
「無いものはしょうがないよ。なべて世はこともなし、ってやつだね」
青年が口にする詩の一節に彼も同意の意を示す。
「その通りだ。現実を受け入れよう。これが世界の正しい姿なのだから」
「そうだね、僕らの世界の形は今の姿が正常なんだ」
二人は全く同じ表情を浮かべ、全く同時に頷いた。




