アナザヘヴン その1
神様、神様。どうか俺をお救いください。
或いは罰をお与えになるとしても、今と異なる罰をお与えください。
毎夜毎朝、俺はベッドの上で祈りを捧げ続けている。
だけれど誰も答えてはくれない。
罪であろうと無かろうと、罰であろうと無かろうと、誰も言葉を掛けてくれない。
俺の名前は、ヴィンセント。
決して、マークスなどという名前では無い。
「おはよう、マー……ヴィンセント」
「よおマークス、術後の経過はどうだい? ああいや、そのだな……すまんなヴィンセント」
「前の相棒と比べてどうだい、マ――ヴィンセント」
「マークス。四か月前の報告書だが、少し確認をしておきたいことがあるんだが……何、人違い? 何を馬鹿な事を言っているんだ」
同僚たちは俺の姿を見る度に、俺の事をマークスと呼ぶ。
何度言っても直らない。奴らは皆、低能なのか?
ヴィンセントだっていう事をすぐに忘れ、二言目にはマークスと呼び掛けてくる。
糞共が、お前ら全員死んでしまえ。死んで、中身をすげ替えて、みんな身体を取り替えちまえ。
俺の苦しみを理解るやつは存在しない。他人はみんな、楽天家のくそったれだ。
朝目が覚めて顔を洗う為洗面台に向かうと、俺に挨拶してくるのは死体の顔色をしたマークスの姿。
支度を終えて職場へと向かう時、シューズケースから取り出す革靴は半インチ大きなマークスの靴。
通勤時、電車のつり革をつかむゴツゴツとした腕はマークスの手のひら。
口寂しさからハッカドロップを求めて、ポケットを探るマークスの指先。
マークス、ああ、マアクスッ!! 取り巻く世界のすべてがマークスという器を通して俺の脳を、認識を、尊厳を、衝動を、こころをすべて侵していく。
呪いと呼ぶにはあまりにも無慈悲で。
報いと呼ぶにも陰湿さが行き過ぎて。
一人だけ生き延びてしまった代償は、あまりにも高くつきすぎていた。
あの時マークスと共に死んでしまっていた方がどんなに楽であったか!
日に何十回と嘆いたことか。その回数も覚えてはいない。
だけど、どんなに悲観に暮れたとしても、自殺する気にはなれなかった。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくないんだ。
それに……マークスの事を、俺の命をつないでくれた相棒の事を思うと、どんなに死にたい気持ちになっても、その一歩を踏み出そうって気持ちを帳消しにしてしまう。
託されたものがある。
望んですらいなかったものであっても、託されてしまったものは、しょうがない。
例えばそう、毎夜毎夜俺がアパートに帰宅する度に玄関口で待ち構えているミザリーさんの存在とかが、そうだ。
「おかえりなさいマークス。お仕事どうだったかしら? 疲れていたりしない? まだ退院したばかりなのにすぐに職場復帰して、大丈夫なの?」
まるで母親の様に俺のことを心配して、毎日彼女は顔を見せに来る。
いや、違う。彼女は別に、俺のことを心配している訳じゃあない。
マークスの事を心から心配してやってきているだけだ。
俺の事なんて屁とも思っちゃいてくれない。
彼女の瞳に映る姿は、愛しの夫の姿だけ。その事が、俺を余計に苦しめるんだ……!!
「奥さん、ミザリーさん。違います、俺はマークスではありません。貴方の夫の姿をお借りした、まったく別の――」
「ああ、マークス! 疲れた顔をしているわね。まるでハロウィンでやったゾンビの仮装みたいな顔になっているわよ。やっぱり別居なんて取り止めて、今すぐ私たちのおうちへ帰りましょう?」
「……ヴィンセントです。俺は、ヴィンセントです」
「もう、何を黙りこくっているのよマークス。しょうがない人ね。こうと決めたら一途で頑固なんだもの。いいわ、もう少しだけ待っていてあげる。はい、これ。今日のお夜食と、明日の朝のご飯。ちゃんと食べて、しっかり眠るのよ。おやすみなさい、マークス」
彼女は言いたい事だけを言い切って、聞きたくない事には耳を塞いで、渡したいものを渡し切ってから、振り向きもせずに帰っていく。
自分勝手で、独りよがりで、厚かましい。
だけども俺は、自分でも気付かぬうちに彼女から手渡された弁当を握りしめてしまっている。
彼女の声には逆らえない。
マークスの身体が、肌が、舌が、耳が、鼻が、瞳が、全てが、彼女を拒もうという俺の意識に反してすべての行動を受け入れてしまっている。
彼女に触れられた肌が熱い。そこに愛しさの残り香を感じ取ってしまい、俺は慌てて両手でこする。
がしゃ。弁当箱が落ちる。知った事か!
俺は必死になって全身を摩る。マークスの身体が抱いた感情を削ぎ落すように、ひたすら摩って摩って摩り続ける。
こんなものはまやかしだ!
俺の心なんかじゃない。
消えてくれ。
消えてくれ。
死んでくれ。
俺はひたすら玄関で、秋風に吹かれ続ける中全身をこすり続けた。
何度も、何度も、何度も――
それでも俺は、なんとか自分の心を失わず、ぎりぎりの生活を送ることができていた。
問題が起こったのは、職場復帰を済ませてから三週間ほどが経った、ある昼下がりの出来事だった。
マークスの代わりに新しく組むことになった相棒、ジェンキンスと共にランチ代わりのハンバーガーを食べていた時の事だ。
俺はこの新しい相棒に対してあまり好ましい印象は抱いていなかったのだが、これから先もそれなりに長く付き合うことになるのだからと、自分の術後の体調や運動能力の低下具合、身の回りの変化といった情報を共有しようと、ジェンキンスに色々と話しかけていた。
特に基礎体力の低下については話しておくべき重要な案件だと思っていた。
仮に凶悪犯が目の前に現れた時、今の俺ではとっさに対応しきれるとは限らないので、できれば俺がバックアップを担当して、ジェンキンスにはフォワードを担当してほしいと願って、相手に色々な内容を話しかけていた。
その内容の中には、ミザリーさんに対する愚痴も含まれていた。
あれは、今から考えれば俺にも悪い所があったのだと自己分析が出来る。
突然前の相棒の奥さんに通い妻のような対応をされて困っているんだ、なんて言われてまともな受け答えが出来る人間は、そうはいないだろう。
仮に俺がジェンキンスの立場で同じ内容を告げられても、はぁ? 馬鹿なんじゃないのか? くらいしか返事を返すことができなかったはずだ。
だが、あいつは、ジェンキンスの野郎は……ッ!
よりにもよって! 俺もマークスもミザリーさんも馬鹿にした、最低な言葉を口走りやがったッ!!
「そんなに悩んでるんなら、一発ヤっちまえばいいじゃんかよ。なあに、相手はお前の事を旦那だって勘違いしているんだろう? あと腐れなくヤれるんじゃないか? それにおまえだってうじうじした考えがスッキリして悩みなんて――」
皆まで言い切る寸前に、俺は奴の顔面を殴打していた。
ひたすら殴り、殴り、殴り続けてアイツがうめき声一つ上げることができなくなるまで顔面を強打し続け、その場に居合わせていた店員や他の客、通報によってやってきた警官たちに羽交い絞めにされるまで、殺してやるつもりで拳を振るい続けてしまった。
その後どうなったかと言えば、どうもならなかった。
どうして暴力沙汰になったのか、部長ら幹部の方々の前で取り調べが行われたが、ジェンキンスの軽薄すぎる冗談の内容と俺の普段からの精神状態を顧みて、この件は不問とされてしまった。
俺はてっきりもっと重い刑罰が――それこそ懲戒処分で済まない、最低でも再教育プログラム行きを覚悟していたのだが、部長たちは有無を言わさず始末書一枚で済ませてしまった。
そしてその後、三週間の休養を言い渡された。
どこか風景の良い場所にでも、旅行でも行ってみたらどうだろうか。
そんな事を言われた。
ふざけている! バロウル治療込みでも間違いなく全治一か月の怪我を負わせたというのに、上司たちはまるで俺の事を腫れ物でも扱うかのようにyワン割り窘める程度に留めている。
こんな甘い処罰で済んだのは、やはり俺の立場が特殊だからに決まっている。
成功率ゼロパーセントのバロウル手術に成功した幸運の男。
死亡確定と思われた大事故から、帰還してみせた奇跡の男。
医術史に残るだろう、バロウル脳移植に成功してみせた男。
様々な肩書を背負わされた俺の事を、悪し様に扱うことができないという事なのだろう。
……くそったれ! くそったれ、くそったれ!
どいつもこいつもくそったれだ! 俺も含め、世の中クソの中のクソだらけだ!
どうして俺を責めない!
どうして俺に罰を与えない!?
いや、罰ならすでに与えられている。だが、なぜもっと別の罰を寄こさないんだ!
嗚呼嫌だ、クソだ、無茶苦茶だ、滅茶苦茶だ、クソで、くそったれで、死にたくて、死にたくなくて、どいつもこいつもふざけていて、殺してやりたくて、殺されたくて、死にたくて、死にたい。
俺は、俺に対して、生きているだけの価値を見出せないでいる。
誰か、誰か、俺の事を――救って。