片目乞いのピーター その5
四、五十分ほどそうしていただろうか。
髪に触れるアリシアの手を取り、ピーターはむくりと起き上がって言う。
「そろそろ眠ろうか」
基本的に、二人はヘルパーがやってきた日はお風呂に入らずに眠りにつく。
アリシアは夕方に手伝ってもらいながら湯あみをするし、ピーターは職場でシャワーを浴びてから退社するから、家ではあまり入らない。
もっとも歩きずくめの両足は、ひょっとしたら蒸れて臭いを放っているかもしれないので、桶にお湯を張って軽く洗う。
その間アリシアはラジオの電源を切り、ぬるま湯を飲み干したマグカップを軽くゆすいで流し台に置く。
後はタイツだけ脱いで洗濯籠へ放り込み、ベッドに腰かけて脚をパタパタさせつつ兄を待つ。
三分後、足を洗い終えて寝室にやってきたピーターは、日の光をほとんど浴びていないアリシアの白い生足を見て、何を思ったかむんずと足首を掴んで止めた。
「どうしたの、ピーター? はしたなかった?」
「いや、そうじゃなくて……足の爪が伸びてるなあと思って」
見ればもうずいぶんと長い事切られていない爪がそこにはあった。
そういえば最後に切ったのは何時だったっけ、とピーターは記憶をたどるが思い出せない。
「ちょっと待ってろ、爪切り取ってくる」
「あら、いいわよ別に。ピーターは明日も朝が早いでしょ? ウェンさんに頼んでやってもらうから、今日はこのままでいいの」
ウェンって誰だっけ? 思わず声に出しかけたが、中国人ヘルパーの名前だったことを思い出してピーターは口を閉じた。
代わりに出てきた言葉は、
「別にこのくらいなら――」
「だぁめ。ピーターは無駄に凝り性なんだから、以前みたいにやすりで長い事研ぎだすでしょ? そしたら一時間くらい過ぎちゃって、明日起きるのがつらくなるわよ」
「むぅ……」
言われてみればその通りなので、不承不承同意する。
自分と違って記憶力がいいなあと、自分の人物観察録のことは棚上げしてピーターは褒めつつ、アリシアをそっと抱き上げるようにしてベッドの奥へ促す。
二人は同じベッドで床に就く。
正確には、シングルのベッドをぴったりとくっつけた状態で一緒に眠る。
以前アリシアが寝転げて落っこちたことがあるので、ピーターは妹の反対を押し切ってベッドを引っ付けた経緯がある。
幼い子供じゃないんだから大丈夫とアリシアは笑うが、兄としてはどうしても不安なのでベッドの位置を戻すことは無かった。
もっとも、今ではアリシアのほうも、向かい合って同じベッドで眠ることに抵抗はないようだから、特に問題は見受けられなかった。
「今日もお疲れ様、兄さん」
ベッドの中で手をつなぎ、暗闇の中で藤色の宝石の蓋を閉じるあいだだけ、アリシアはピーターの事を兄と呼ぶ。
その言葉の余韻が耳に残り続ける中、ピーターは、この幸福で不幸な妹のために自分がやるべきことを、毎夜毎夜自覚するのだった。
次の日も、やはりピーターは四時に起床する。
大体この辺と決めた時間帯に自動的に目覚める体質なので、目覚ましは不要な人間だった。
抱きついたまま寝息を立てるアリシアを起こさない様、ベッドから慎重に抜け出して部屋を出る。
コーヒーを沸かしながら顔を洗い、一通りの身だしなみを整える。
昨日の残りのパンを食べた後は着替えを済まし、軽いストレッチで身体をほぐす。
今日もヘルパーがやってくる日なので、洗濯物はそのまま籠の中に放置する。
ピーターは基本的に、自分で洗濯物は洗わないタチだった。
何せ、アパートに備え付けられたランドリーは使用時間は朝七時からと決まりがある。
朝の五時には家を出るピーターには、とても利用できる時間帯では無かった。
それにアリシアの着ている服は肌触りと着心地に拘った素材で選んでいるため、自分がやるより家事の得意な介護のプロにやってもらったほうが正解だろうとピーターは考えていた。
服のしわのアイロンがけとか、素材に適した洗剤の選別だとか、とりあえず着れるものなら何でもいいというスタイルのピーターからすると、洗濯という行為は面倒極まりない作業であった。
それならいっそ、ヘルパーに全部丸投げするのが一番だ。
ピーターは畳みもせずにくしゃくしゃに丸めた服の詰まった籠を、玄関となりにまで運んでUターンする。
向かう先は寝室。アリシアが眠る部屋。
まだ夢の国へ訪れたままのアリシアの前髪をかき分け、そのままほほを両の手で包む。
「アリシア、アリシア。仕事に行ってくるよ」
「んっ……はぁい、ピーター。いってらっしゃい」
お出かけの挨拶も、ピーターとアリシアのお決まりだ。
黙ったまま出かけるとアリシアはひどく怒るので、どんなにぐっすり寝入っている時でも、必ず起こすように取り決めている。
眠そうに眼をこするアリシアの掛け毛布の位置を正して、最後にキスを交わし部屋を出る。
さあ、今日も、妹のために、バロウル相手を探さなければ――
まだ日が昇って間もない朝焼けの光景を背に、ピーターはいつもの一日を始めた。
「ようピーター、おはようだな。お前もコーヒー飲むか?」
「JJ、前も言ったと思うけど、ミルク抜きのは好きじゃないんだ。だから俺の分は今後一切淹れなくていいよ。将来、職場にミルクが入荷した時だけお願いするよ」
「おいおいコーヒーってのはお頭をシャッキリ覚醒させるための飲み物だぜ? ミルクなんて入れたら甘々ったるくて眠くなっちまうよ」
いつものようにバロウル相手を見つけられないまま出社したピーターを迎えたのは、同僚のジャクスン――通称JJだった。
歳は十程離れているが、誰にでも陽気に話しかけてくる職場のムードメーカーで、はぶりの良い日にはこうしてピーターにもちょっかいをかけてくる。
ピーターのほうもこの陽気なイタリア系は嫌いでもなかったので、割と気さくな関係を結んでいた。
「で、いくら勝ったんだ?」
「ふっふっふ、なんと――勝ち越し二十倍! いやぁ~~~賭け事の神様アイシテルッ!」
JJはかなりのギャンブル癖があるが、他人を巻き込まないのでピーターも安心している。
たまにはどうだい、なんて誘ってくることもあるが、あくまでそれはフリなので、本当にしつこく構ってくることはない。
調子のいいやつほど他人との距離が上手いんだよ、とは上司の談。
ピーターもその意見には同意する。
「あんまり吹聴してると、みんなから昼飯奢らされてあっという間にスカンピンだぞ?」
「なによう、そうなったってよ、また勝ちゃあいいんだよ勝ちゃあなあ」
そこから約十分にも及ぶ、JJのギャンブル講座を右から左へ半分聞き流しながら、ピーターは支度を整える。
時折誰かがJJの話題に口を挟み、軽口を叩き、怒ったふりをしてみたり泣きべその演技をしたりと、朝も早いのに更衣室はにぎやかだ。
朝の早くから徘徊しているピーターには理解できない事だが、通勤時間ぎりぎりまで惰眠をむさぼっている同僚たちは、こうやってはしゃぎながら会話することによって、眠気覚ましとしているのだろう。
職場の雰囲気は、何時も大体このような感じだった。
とはいえ楽しい時間はあっという間に過ぎ去ってしまうもので、気づけば業務開始の時間に差し掛かっていた。
「おっといけね、こうしちゃいられねえ時間だった。早く回収車ンとこ行かねえと、またぞろ上司サマがお冠になっちまうな」
「JJ、あの人はすでに冠をかぶってるじゃないか――カツラだけど」
「くっはははは、言うねえピーター。いいよ、今日はお前の冗談に免じて、クルマを運転する権利を譲ってやろう」
「いや、別におれは構わな――」
「いいっていいって、お前もたまには運転しないと腕が錆びつくぞぉ」
JJは本当に上機嫌なようで、めったに譲らない運転席に座らせてくれるようだ。
調子ッコキな奴め。ピーターは独り言ちる。
こういう時って大抵碌な目に合わないんだよなあ、特にJJの調子がいいときに限って、運のツキが暴落するんだ。
声には出さずにピーターはため息をつく。
そんなピーターの様子には気づかないようで、
「よぉ~~~しっ、今日もバリバリ働くぞォォ!」
ゴミの山に駆け寄って、掴んでは投げ入れ掴んでは投げ入れ。
ペース配分もあったもんじゃない躍動に、ピーターはもう一人の同乗者と顔を見合わせて肩をすくめた。
当然――1キロメートルもしないうちに、JJはバテた。
「あぁー、悪いピーター。次で変わってくんない?」
「いやぁJJ、俺のほうはまだまだならし運転が終わってないんだよね。もうちょっとだけ頑張ってくれないかい?」
「ちっ畜生! ピーターのひねくれもん、いいさもうちょっとだけ俺の本気で頑張ってやるさうおおおおおおお!」
なんだ、まだまだ元気があるじゃないか。
ぴゅぅと口笛を吹き流しながらピーターはハンドルに軽くもたれかかる。
ま、もうちょっとしたら交代してやるかな。
あんまりJJを疲れさせて、もう一人の――なんて名前だったっけ? まあ、とにかく同僚の負担を増やすわけにもいかないし、次かその次の区画を曲がったら交代してやるか――そんなことを思案するピーターの耳に届いたのは、くぐもったうめき声だった。
「……? どうしたJJ、まさか張り切りすぎてゲロ吐いたんじゃあ――」
呑気なことを考えながら窓から顔をのぞかせれば、JJたちが窓から飛び込むかのように詰め寄ってきて、両手を突っ込んでくる。
「ピッ、ピピピッピッ、ピータァァー! 無線機、無線機!」
「ちょっなんだお前らっ?! 一体なにがどうし――」
「死体だ、ごみの上に死体が転がっていやがるッ!! 本部に連絡と、あとポリスを呼ぶんだよ今すぐにッ!!」
死体。人間のか――!?
ピーターはJJたちを押しのけるようにドアを開き飛び降りる。
後ろで二人が何かしら怒鳴りつけてくるが、一顧だにせずゴミ置き場に駆け寄った。
まず一番に行うべきは状況確認と情報の共有。マニュアルにあるトラブルレクチャーに則って、ピーターが現場に視線を這わすと――そこに、それはあった。
積み上げられたごみ袋を豪奢なソファーと勘違いでもしたのだろうか、両の手足を大きく広げた男が寝転がんでいた。
いや、寝ているのではない。それはもうモノになり果てていた。
おそるおそる、息を止め、足音を忍ばせてピーターは近寄る。
まるでわずかな音でもたてたら眠れる獅子を起こしてしまうかのように、慎重に、じりじりと距離を縮めて顔をのぞき込む。
死体の顔は苦悶に満ちていた。
相当の苦痛を味わったのだろうか。少なくとも、素人目には死因が何なのかは判断が付かないが、これは確かに死体のようだった。
相手が二度と目覚めないであろうことを確認したピーターは、ふぅと呼吸を再開して息を整える。
JJのやつ、ツキに見放されるどころか死神に睨まれやがって……。
そんな悪態も脳裏をよぎるが、それよりも何よりも、先ほどからずっと、ピーターは死体の顔が気になってしょうがなかった。
血まみれの顔、両の瞳から流れ出た血の涙。その源泉を注意深く見れば、おのずと違和感の正体にもたどり着いてしまう事だろう。
「――無い」
「……な、無いって、何がだ……?」
「ケイナン……」
いつの間にやらもう一人の同僚ケイナンが――こんな場面の真っただ中で名前を思い出すなんて自分でもどうかしているとピーターは自覚したが――様子を窺うように近づいてきて、ピーターの独り言に反射的に疑問をぶつけてきた。
ケイナンのおどおどとした態度に目もくれず、震える指先を伸ばし、死体のまぶたに触れる。
「おっおい、それまずいって、絶対まずい――」
「やっぱり……」
ピーターの指先は、何の抵抗もなくまぶたの間に差し込まれた。
「目玉が――潰されている、いや、くりぬかれている……のか?」
「ひぃぃぃぃぃっ!」
吐しゃ物が喉をこみあげてくるのをこらえながら逃げ出すケイナン。無線機に向かって説明不足な事ばかり怒鳴りつけているJJ。
その二人を尻目に、ピーターはそっと指を引き抜きながら、ああ勿体ない、誰かに取られてしまうんだったら、妹のためにバロってくれればよかったのにと、溢した。