化現 その4
「では次は腕をあげてみましょう。そうそうそうそうっ! 良ーい感じですよーヴィンセントさーん」
ベックマンのお見舞いからひと月が過ぎた。
あれから数度のバロウル治療とリハビリを重ねて、俺の身体はある程度動くようになってきた。
相変わらず目の包帯は取れないし、舌はろれつが回らないので上手く言葉を発することはできないが、それでも十分回復してきたと思う。
ある程度受け答えできるようになっただけでも上出来だ。
もっとも、事故の影響なのか、声帯が傷付いたのかは判らないのだが、以前の自分の声とは全くの別物になったのはちょいとばかり気にかかる。
なんだか薄気味悪く感じてしまう。
なんだろなあ、この気持ち。
まあ何はともあれ、経過は順調だった。しいて問題を上げるとするならば未だに絶食生活が続いていることくらいだろうか。
「かんごひさん。そろそろしょくじ、とれぶようになりますぇんかね?」
「うーん、先生に聞いてみないと判りませんが、確かにお食事が摂れる頃合いかもしれませんねえ」
正直言って食事の許可が下りるのが待ち遠しい。
今ならまずい病院食だっておかわりで食べられるに違いない。
塩気も具も無い牛肉のスープ、一度どろっどろになるまで煮込まれたオートミール、風味も何もあったもんじゃない格安のプロセスチーズ、甘味も塩気もほとんど入っていない淡白なアイスクリーム。
どんな術後食でもきっと感動するくらいに美味しいに違いない。
食事の許可が下りるのが、本当に本当に待ち遠しかった。
そんな、まだ口にできない食事に思いを馳せながらリハビリを終えると、今度は介護付きのシャワータイムだ。
他人に身体を洗われるのは中々気恥ずかしいけれど、それを差し引いてもシャワーを浴びれる快感はひとしおだ。
最初の頃は神経が鈍化していたり、あるいは過敏になっていたりして、温度を全く感じない時もあれば苦痛を伴う拷問のような時期もあったが、今は完全に落ち着いたようで程よい温かさと心地よさを味わえている。
そんなご機嫌のシャワータイムを終えると、まるで待ち構えていたかのように俺を出迎えてくれる人がいる。
マークスの妻、ミザリーさんだ。
「お疲れ様、マークス。リハビリはどうだったかしら?」
「おくさん、おれふぁまあくすじゃなふえ、びんせんとですよ。……はあ、りはびりはじゅうちょうですけお」
一応の会話をできるようになってからも、彼女は俺の事をマークスだと思い込み続けている。
内心いい加減にしてくれとか苛立ちの感じつつあるが、果たして何時になったらマークスの幻影を重ねるのを諦めてくれるのだとうかと嘆息する。
やはりこの、顔を覆う包帯が解かれるまではこのままなのだろうか――諦めの境地に達していると、彼女は腕を絡めつかせながら何処かへ引っ張るように歩き始める。
何だ何だと思っていたら、彼女は行き先について話してくれた。
「先程看護師の方が、お医者様に確認して食事をもう摂っていいかお尋ねになられたらしいのよ。そうしたら、そんなに順調だったらそろそろ包帯を外してもいいだろうって、先生が仰られたらしくて」
「なんふぁって? しょくひ?」
「ええ、そうよ。それで、今丁度主治医だった先生が手隙だから、リハビリ後のシャワーが終わったら部屋に連れてきてくれって連絡があったの」
渡りに船とはこの事か!
苛む痛みの消失から始まって、五感の復帰にリハビリの開始、言語能力の復活に続いて今度はこれだ!
包帯の除去! 食事の許可!
そしておそらくは……包帯を解かれた俺の顔を見れば、俺の事をマークスだと信じ込んでいるミザリーさんの誤解もきっと解けるはず!
ああ、こんなに喜ばしい朗報もない! こんなに嬉しい知らせといったら、刑事試験に受かった時以来だろうか。
ふらふらと、頼りなく身体を支えていた両脚にも不思議と力が込み上げてくる気がして、しっかりと地面を踏みしめまっすぐ立てたような気もしてくる。
全てからの開放――急がなくては!
「せ、せ、せんせえのへや、はやく、はやく」
俺は彼女を急かすように声を出し、誘導してもらいつつ歩を進める。
本当は車椅子の方が早いのだろうが、ここの医院はスパルタ方式なのかリハビリと称して俺に歩きを強要していた。
遅々として進まない亀の歩みで向かいつつ、このゆったりとした時間を通して幸せな妄想を繰り広げた。
最初は何を食べようか、退院出来たらまず何をしようか。
そんな絵空事で心の中はいっぱいだ。
「ここよ、マークス。先生、夫を連れてまいりました」
「ああ、ようやく来てくれたのか! いやあようこそ、旦那さんも長歩きで疲れたでしょう。どうぞこの椅子にお座り下さい」
空想に浸りすぎていたため、うっかり旦那扱いを否定するのが遅れてしまった。
先生違いますよ、俺は赤の他人です……とは、今更言いづらい。
いやそんな事くらい先生もきっと承知のはず。単純に、俺の横にいる彼女のメンタルを考慮して否定の言葉を漏らさなかっただけに違いない。
「きみ、きみ、今から心療内科に連絡して、パスカーレくんを呼んでくれないかね。そう、頼んだよ」
カチャカチャと金属音をたてながら先生は言う。
パスカーレ先生。懐かしい名前だ。
あの人は結局、最初の日以来俺の下へ顔を出すことは無かった。
きっと俺が大暴れしたせいでペナルティを受けたのだろう。彼女には申し訳ない事をした。
だが正直、いきなりマークスの顛末を告げるのは配慮が足りなかったって思うし、何なら奥さんのメンタルケアに精を出して欲しかったもんだと俺は言いたい。
実際、ミザリーさんの精神、ヤバいだろ。普通。
何時までも赤の他人を夫と重ね合わせ続けている。
十分心療内科案件だ。
俺の事は最悪放っておいてくれてもよいが、彼女に関しては手を施して貰いたかったもんだと、今更ながら文句をつけたい気分だ。
「いやあ、色々忙しかったもので、こうして意識のある状態のあなたと会話するのは初めてですね。私はあなたの執刀を担当しましたドクター・ブロイヒといいます。どうぞ親しみを込めて、ブロイヒとお呼びください」
「よほひくいねはいします、ぶろいひさん」
名乗ってもらい、ようやく先生の名前を知る。
そういえば知らないままだった。
先生はよっぽど忙しかったのか、術後の経過も看護師まかせで俺を訪ねる事も無く、全身麻酔後に行われるバロウル神経網復帰手術の時だけ俺の相手をしてくれていた。
多分きっと、名医なのだろう。腕が良いから忙しいに違いない。
俺の勝手なイメージだが、医者というものは大抵とんでもなく暇か、凄まじく忙しいかの二択であるという想像がある。
彼は、ブロイヒさんはきっと、後者なんだろうなあ。
「では説明をしながら包帯をとっていきましょうか。よろしいですかな?」
「ふぁい、おねがいしまう」
もちろん、同意しかない。
俺は力強く頷いて、彼に身を委ねる事にした。
「事故当時、あなたの肉体は発見が遅かったのもありまして、かなり危険な状態にありました。体皮全体の大火傷、下腹部を中心に車のフレームで圧迫された為、内臓の状態は最悪と呼んでも過言ではありませんでした。また折れた肋骨による左肺の裂傷といい、その他大小様々な傷と内出血により、命が危ない状況でした」
――ワォ! 言葉にされると改めて、よく生き延びる事ができたなと俺は自分の幸福を褒め称える。
ひょっとして、一生分の幸運を使い果たしたんじゃあなかろうか。
俺はそんな自画自賛に浸る。
「対照的に、もうお一方は内臓的にはほぼ無傷と呼んで差し支えない状態でした。ぎりぎりでハンドルをきったのか、折れた車体やフレームなんか見事に回避していましたからね。それでも運が無かったのでしょう。残念ながら、両手両足は折れていましたし、頭部には鋭い金属片が突き刺さってしまいました」
嗚呼マークス、不幸な相棒だ。
最後の最後でツキに見放されたんだな、あんたは。
血だらけになったマークスの顔を想像して、俺はひそかに黙とうを捧げる。
決して悪い人間じゃあないはずなのに、死んでしまって残念だ。
「我々は決断を迫られていました。あなたは余命が幾ばくも無い状態で、緊急処置を行わなければ即座に命を落とす段階に迫っていましたし、提供者の方も脳が半分損壊していたため何時生命活動を止めてしまうのか判りませんでした。それでいて、二人ともバロウル級の即効性のある治療を必要としていました」
「のおのそんかいでうか。たひか、のうひはばろうるできなひんやなかったんでうか?」
「よくご存じのようで。確かに、脳の活動が完全に停止した場合、バロウルを行うことができません」
死体からはバロウルを行うことができないというのは常識である。
ということは、搬送された時点ではまだぎりぎりマークスは生きていたというのだろうか。
ずきり、と一瞬痛みが走る。
「提供者の方の場合自発的な呼吸が可能な段階であったため、法的な定義上まだ脳死判定は下せませんでした。ま、法律上の脳死とバロウルが可能か否かの脳死とではまた別の話ではあるのですが、そこは置いておきましょう。要するに、患者さんと提供者の方は、どちらもバロウル手術が可能ではあったものの、容体的にはかなり厳しい段階にあったのです」
なるほど、と俺はうなずく。
頭の包帯はほとんど解かれていた。
「後出しで申し訳ありませんが、あなたにはかなり実験的な施術を行わせていただきました。まだバロウルが可能なうちにお互いの身体を癒着、主要な血管を接合し、結合双生児に近い状態で固定化してから通常執刀を行いました」
……なんだって? 結合双生児?
それはつまり……胴体かどこかでお互いの身体がつながっている、あれのことか?
ずきり、ずきり。再び走る痛み。
「一度完全結合してしまえば、バロウルの特性上お互いの肉体は同一のものとして誤認させることができる。少なくともそういう仮説があったのを思い出し、私はこれを即座に実行することにしました。ほとんど博打まがいの行為でしたが、幸運にも成功するに至りました。これによってどちらか一方の心肺機能や脳機能が活動している限り、お互いの臓器などを交換させることが可能となりました。いわば疑似双生化手術法とでも呼びましょうか。この新しい試みは、最後まで見事成功することができました」
下腹部の皮膚がびりびりとする。
こめかみが痛む。
俺は何かに怯えている。
「正直に申し上げますと、かなり強引な施術であったことは否めません。特に死後臓器提供の拡大解釈と捉えられる面もありますが、我々はあなたを救い出すために、マークスさんの肉体を利用させてもらったのです」
はらり、と包帯の端っこが耳を掠めて肩へと落下する。
目を覆うものは無い。視界を遮るものは無い。
俺は恐る恐る、瞳をわずかに開く。
差し込む光。神妙な面持ちのブロイヒさん。
右隣には満面の笑みを浮かべるミザリーさんの姿。
満面の笑み?
「……ヴィンセントさん、貴方の臓器も肉体も、限界を超えていました。あなたの命を救うには、これしか手段が無かったことをお詫び申し上げます」
目を見開く。意外にも、さほどの眩しさは感じない。
そのまま視線を下ろして身体を見つめる。
絶食と運動不足のせいで、少し痩せた両脚。
ゴツゴツと骨ばっている、拳骨の目立つ手。
俺は震える腕を持ち上げて己の顔にそっと触れる。
「……どうやら、お気づきの様ですね。パスカーレ先生はまだ来ておりませんが、仕方がありません。こちらの鏡をご覧ください」
嫌だ、見たくない!
恐怖に膀胱が緩み、漏らしてしまいそうな感覚に襲われながら、俺はガタガタガタガタと震え、つま先に視線を移す。
嫌だ、見たくない!
見たくない、認めたくないっ!!
「あら、駄目じゃないマークス。ちゃんと先生に言われたとおりに鏡を見なきゃあ」
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
カチカチカチ、歯が打ち鳴らす音がする。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
視界がぐるぐると右回りに回転する浮遊感。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
違う、本当に回転している。
腰の部分から、つまり椅子が回転して――誰が掴んで回している?
俺は思わず顔を上げてしまう。
「あ――」
――笑い声が聞こえる。
――叫び声が聞こえる。
鏡に映っていたのは、眼をいっぱいに見開いた、青ざめた男の顔。
俺のよく知る俺の知らない顔。
俺ではない、俺の顔。
「あ、あああ、ああああああああああああ」
俺の耳元で彼女が囁く。
――お帰りなさい、マークス。




