片目乞いのピーター その4
お腹を空かせた妹を待たせる悪い兄貴になるわけにはいかない。
実のところピーターもお腹はとうに空かせていたので、慌てて食事の準備に取り掛かることにした。
まずは薬缶に水を注いでお湯を沸かす。
ピーターは飲み物を淹れる時はいつも薬缶ですると決めていた。
続けて冷蔵庫を開けて、例の中国人ヘルパーが作り置いているはずの食事を探す。
あの中国人、飯だけは美味いからたちが悪い。少し油が多すぎる気がしないでもないが、野菜が多めでとても食べ応えがある。
ピーターは電子レンジで温め直しながらため息を一つ。
アリシアのお昼ご飯の支度だけでなく、ピーターの分も含めて多めの夜食まで作ってくれるもんだから、なかなか首を切るのに踏ん切りがつかないのだ。
正直、かなりありがたい。
ありがたいのだが……雇い主の指示はやっぱり守ってほしいものだと、もう一度ため息をつく。
やっぱ首切るの、やめようかな。けどなあ、やっぱなぁ……。
そんな風にヘルパー変更に伴う今後の食事事情を慮っている間、アリシアはといえば、パンの袋の包み口を開いて一つ一つの薫りを嗅ぎ比べていた。
これも、大体いつもの光景である。
火を扱っている間は、絶対に近寄らない事。ピーターとアリシアの交わした約束の一つだった。
だから手持無沙汰なアリシアは、いつもパンの包みを開いては自分の食べたいパンを選ぶことに勤しむのだ。
やがて電子レンジが温め終了の音を鳴らし、ピーターが何度目かわからないため息を吐き出したころに、都合よく薬缶のお湯が沸く。
火を止めマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れお湯を注ぐ。六分目ほどのところで止めた後、たっぷりの牛乳を入れてテーブルに運ぶ。
砂糖は無しが二人の好みだった。
「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。これにあるものを祝福し、私達の心と身体を支える糧としてください。……アーメン」
食事の前の祈りを捧げ、二人はいそいそと食事に取り掛かる。
ヘルパ―の作った今日の献立は、ニンジンニンジンニンジン、とにかく人参多めの炒め物。
チンゲンサイや豆乳などで混ぜこぜされた甘辛風味の味付けで、謎の魚に味が染みているのがとても美味い。
ピーターはこの歳になるまで中華料理というものを食べたことが無かったが、中国人ヘルパーの作る料理だけは、食べなれない味ではあるものの割りと楽しみにしていた。
だからこそ、電気周りの不満だけで解雇するのは惜しいんだよなぁ……ピーターは、舌先では幸福を味わいながらも頭の中はもやもやしたままだった。
それを知ってか知らずかアリシアは、味付き食パンを小さくちぎってはせわしなく口に運んでいた。
まるでリスだな。
可愛らしい感想が悩みを横へ押しやる。
「美味いか?」
「……いつものより、歯ごたえ? があるような感じ。ざらざらばりばりしてて、好き」
「フウム、お気に入りってわけか。どれどれ……」
生憎ピーターはアリシアと違って、食感をさほど重要視しないタチだった。
きめの粗いパン独特の食感に、あまりいい顔は浮かばない。
「俺は、いつもの奴の方が好きだなあ」
「そう? こういうの嫌いだったんだ。残念」
残念という言葉にピーターは思わず咀嚼を止める。
それは、もう二度と買わないという意思表示として取られてしまったのだろうか。
ピーターは、もぐもぐと食パンをついばむアリシアの微かな微笑みに視線を合わせることができず、湯気を立てるマグカップに視線を向ける。
「――いや、まあ、こういうの、あんまり食べたことが無かったからさ、ちょっと気になっただけだよ。アリシアが好きなら、しばらくはこのパン屋で買い物してもいいよ」
どうせ、当面の間は西地区巡りをする予定だ。
ついでに買って帰るのも、大した苦労にもならないはずだ。
「本当? 好き、ありがとう大好き、ピーター」
大喜びだ。よほど気に入った味、もとい食感だったのだろうか。
そんなに好きだって言うのなら、自分も少しは気にいる努力でもしてみようか。
ピーターはアリシアの様子を窺うように、おそるおそる視線を上にあげた。
切れ長のまぶたの中央。
藤色の宝石細工が映る。
向いた矛先はほんの少しだけ宙ぶらりんで、ピーターの事を見ているようでまるで見ていない。
今日も美しい瞳をしている。ピーターは想った。
だが焦点のずれた瞳と視線を合わせるのは、苦労が絶えない行為だとピーターは身に染みていた。
何故だか不安な気持ちになってくる。
理由は判らないが、とにかく不安なのだ。
これが、アリシアの言うところの「感じる」ってやつなのかな。だとしたら、俺は妹のことを怖がっている、悪い兄貴なのだろうか。
顔をうつむかせたままピーターは、何度かみしめてもイマイチ食感の良さというものが理解できないパンをちぎり、口元に運ぶ。
チーズが美味しい、ほうれん草味はなんだかちょっとべたべたしている、などといったアリシアの感想に、そうだね、だとか作ってから時間が経ってるからじゃあないか、と当たり障りのない相槌をうちながら、なるべくアリシアの方を向かない様に気を使いつつ、食事を終えた。
「父よ、この食事の恵みに感謝します。あなたのいつくしみを忘れず、すべての人の幸せを祈りながら。わたしたちの主、イエス・キリストによって――アーメン」
食後の食器洗いは二人で行う。
スポンジで洗うのがピーターの役目、きれいになった食器をタオルでふいて、水切り籠に並べるのがアリシアの役目。
ものの数分で作業を終えると薬缶に残ったぬるま湯をマグカップに注ぎ直して、ソファーでくつろぎながらラジオを楽しむのが二人の時間の使い方だ。
ピーターはコメディアンが司会者のバラエティ番組が好みで、アリシアは解説のないままただ音楽だけを流しつづける番組がお気に入りだった。
今日は水曜日なので、ピーターは放送チャンネルを妹に譲る。木曜と土曜日以外は基本的にアリシアの好きな番組を点けてやる気遣いがピーターには備わっていた。
流れ出す音楽は、ボーカルのいない環境音中心の楽曲。
いわゆるアンビエント系。
眠気を誘発させるその調べにアリシアの髪をブラッシングする櫛を止め、あくびを一つ。
「眠いの? 先に寝てもいいよ、ピーター」
「いや……もう少しだけ起きてるよ。考え事もあるし」
「そう。なら……はい、ここどうぞ」
ぽんぽんと膝を叩くので、ピーターはアリシアを枕に横になる。
ワンピースとタイツ越しの柔らかさと熱を頭に感じながら、再度の欠伸をかみしめつつ、ピーターは自らの幸福に感謝する。
俺は幸せ者だ。幸福の中にある。
暮らしは決して裕福ではないけれど、仕事があって、妹が居て、健康がある。
――だからこそ、妹の視力を取り戻してやらないといけない。
ピーターは強く誓う。強く強く想った。
膝枕の主はといえは、兄の決意を知ってか知らずか鼻歌なんぞ歌いながら、ピーターの頭に指を這わせ、わしゃわしゃと髪の感触を楽しんでいた。