若きアマデウスの悩み その1
ブラウン・ミルハウザーは自身の著書で以下の文を記している。
人間誰しも悪癖の一つや二つ、心の内に秘めているものである。
人の人生の差異など、その悪癖をひた隠しにするか大っぴらに公表するかの違いでしかない。
私は明かすことを選んだ。
なぜならその方が、自由な気分でいられるからだ。
「そうとも、私は自由だ――」
「ミルハウザーさん、何かおっしゃいましたか?」
「いや、何も。構わず料理を続けてくれ給え」
特に隠す必要性も無いのだが、アシェ・ミルハウザーは何気なく呟いてしまった独り言の事を誤魔化して、調理の続きを促した。
彼は今、豪奢なブランドスーツを着ているのにも関わらず、その姿にはとても似つかわしくない安アパートの中で寛いでいた。
サスペンションの傷んだ安物のソファーに座り、安酒をあおり、彼の様な立場のある人間なら決して口にはしないような、ひどく脂ぎったチキンステーキを摘みながらも、不思議と満足感を得ていた。
「これはワシントンのブレンドワインかな? ふうん、君はこの様な味が好みなのだね。なるほど、一つ理解した」
「さ、左様で御座いますか。ご満足いただけた様で光栄でございます」
「満足? いいやそれはまだまだこれからだ。次の料理を、次の次の料理を、君の舌が満足するまで、私の魂が満足するまで、とにかく作らせ続けるんだ」
「はっはいぃ! 畏まりました、今しばらくお待ちを!」
アシェ・ミルハウザーは持ち込んだ紙ナプキンで口元を拭いながら、次の料理が並ぶのを待ち続けていた。
食べかけのチキンステーキはテーブルから下げられる。
接待している中年男性は、顔からにじみ出るガマの様な脂汗を何度も何度も拭き取りながら、彼の母が作り続けている料理の皿をアシェ・ミルハウザーのもとに運び続けていた。
勿体ないと思う余裕も無い。
アメリカの誇るトップアーティストを前にして、くたびれたテレビプロデューサー風情が口出しできる事など何一つ無かった。
「今度は卵とコーンと……何だこれは、サーモンかね?」
「へ、へい。それをバターたっぷりにソテーしたもんで、おふくろはよく朝に作ってくれてた料理でございやす」
「ふむ……どれどれ」
アシェ・ミルハウザーは躊躇なく口に運んだ。
健康志向の人間や、料理愛好家などからは決して料理だと認められそうも無い、カロリーと油分に全振りしたようなギトギトのコーンを咀嚼する。
ネトネトとした、あとに引く油を口いっぱいに広がるのを感じながら、続けざまにサーモンとスクランブルエッグも摘む。
べちゃつく味覚、花に抜ける重バターの薫り。
普通の味覚なら顔を顰めてしまいそうなものだが、アシェ・ミルハウザーは平然とした顔で飲み込む。
そして沈黙。
「あ、あの……ミルハウザーさん? だ、大丈夫でしょうか? やっぱりこんなモノ、お口に合わないんじゃ――」
心配になって声をかけるものの、アシェ・ミルハウザーは目を瞑ったまま返事もしない。
ただ天井を仰ぎ、何かに耐えるように、あるいは祈りを捧げるかのように、沈黙を保ち続けている。
肩を揺すって返事を求めるべきか、或いはそのまま邪魔をせずに置いとくべきか――悩んでいるうちに、彼はアシェ・ミルハウザーの閉じられた瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちたのを目撃した。
そして唐突に見開かれた双眸。
歓喜の色、感動の声、抑えつけられない衝動、喜びの躍動感。
アシェ・ミルハウザーは立ち上がり、けもののように咆哮し、視点の定まらない両眼に涙をしたためながら、男の両肩を力強く握りしめた。
「素晴らしいッ! 今まさにインスピレーションが舞い降りた! 良い歌が書けるぞ、次の曲も売れるだろう! 君のおかげだ、感謝する」
「ミ、ミルハウザーさん……ッ!? 肩が、肩が痛いですッ!」
「ええいこうしては居られんな! すぐさま書き上げなければ。この閃きが消え失せてしまわないうちに」
アシェ・ミルハウザーは他者に気を配るでもなくテーブルの上にノートPCを広げ、作曲ソフトを立ち上げて打ち込み始める。
それは怒涛の勢いだった。
荒々しくタイプする指がキーボードを打ち鳴らし、忙しなく動く瞳が全体のコードを常に確認し続ける。
アシェ・ミルハウザーの作曲方法は常に全体を俯瞰で見つめながら、その時胸に宿っている情熱に任せ衝動的に打ち込み続けて組み上げるタイプの人間だった。
男はそんなアシェ・ミルハウザーの鬼気迫る表情に圧巻されながら、彼の作曲の邪魔をしないようにそっと隣の台所に避難した。
そこではまだ母親が次の料理を作っている所だったが、そっと近づいて手に触れ、首を横に振ることで、もう役割を終えたことを暗に伝えていた。
「マリオ、あんた……もういいのかい?」
「いいんだ母さん。ミルハウザーさんは満足なされた様で、今はもう作曲の段階に入られている。料理の必要はないよ、お疲れ様」
彼――マリオは年老いた母を労った。
今年で七十五歳になる母親の所に押しかけて、ひたすら料理を作らせるという重労働をやらせてしまっていた。
作らせた料理は二十皿を上回る。アシェ・ミルハウザーに天啓が訪れる時まで作りっぱなしにさせていた事を、とても心苦しく思っていた。
それでも不思議なもので、自分で何かを成し遂げたという訳でもないのに、充足感に満ちているのをマリオは感じていた。
「急に頼み込んでくるから、あたしゃびっくりしたよ。あんたがあの、あの……なんとかって人を連れてきてだね」
「アシェ・ミルハウザーさんだよ、母さん。今アメリカで、いや全世界で最もホットな音楽プロデューサーさ。母さんも彼の曲を聞いたことがあると思うよ。そうだなあ、例えば去年の名曲ジャスト・ラヴ・ミー・テン――」
「あの男がどこの誰だかとか、何て曲を作ってようがあたしゃどうでもいいよ。気にしてるのは、アンタを顎で使っていることと、アタシが作った料理をほんの一口二口食べただけで、突っ返して来てることさ」
ダイニングでは床やテーブルの上になど辺り構わず一面に食べ残しの皿が散らばっている。
そのどれもがアシェ・ミルハウザーが一度手を付けた料理だった。
母親が怒るのも無理もないかもしれない。
そんな事を思いながらも、マリオは必死になって弁護した。
「最初に部屋に入った時に説明しただろう? ちょっと散らかるかもしれないけど、我慢して料理を作り続けてくれないかって。これはアシェ・ミルハウザーが新しい曲を書き上げる際の儀式みたいなもんなんだよ」
「何が儀式さ。散々食い荒らしておいてよく言うよ。いいや、まともに食ってさえいないね! ほれみろ、これなんかほとんど手つかずじゃないのさ!」
指先で摘まみ上げたのは、ほうれん草と人参の入ったオムレツ。
毒々しいまでに真っ赤なケチャップソースのスープに浮かんだそれは、ほんの端っこの方しか食べられていなかった。
「なんだい、あの男! ごく普通の庶民食を冷かしに来た、ブルジョワの道楽かい? マリオあんた、あんな奴と付き合うくらいならテレビ局の仕事なんてやめて、こっちに戻ってきたらどうなんだい? 仕事の伝手ならあたしがなんとかするからさあ」
「ああ母さん、違うんだ。別に彼は俺たちの事をばかにしているわけじゃないし、理由もしっかりあるんだ」
「理由? 残飯を作ることに理由が? こりゃあおったまげた、マリオあんた、都会に毒されてるんじゃないのかい?」
母親の頑固さには辟易していたが、アシェ・ミルハウザーの邪魔をさせるわけにはいかない為、マリオは苦労して母親を説得し続ける。
「いいかい母さん。彼は所謂おふくろの味ってやつを食べることで、インスピレーションを得て作曲をする風変りなアーティストなんだ。たくさんの料理に手を付けているのは、そのインスピレーションが舞い降りてくるまで色々な味を口にしないといけないから、お腹を膨らませない為なんだ」
「ハン、おふくろの味が恋しいって、アホなんじゃないかね? それにすぐに思いつかないなんて、才能が無い証拠だよ」
「……彼は天才だよ。母さんは認めなくても、世界のみんなが認めている。もちろん俺もさ」
母親は腕を組んでそっぽを向く。
納得はしてくれなくても、アシェ・ミルハウザーの作曲の邪魔に入らないのならまだマシかなと、マリオはもうしばらくの間母親の足止めをするために、説得を続けることにした。




