出産の殻 その1
「なんでこんな時間に会いに来たのかって、聞いてくれたりしないの?」
胸の上に猫を乗せた格好でレオンが構ってほしそうな声色で話しかけてくる。
猫――私の飼い猫エルポはすやすやと、レオンに抱かれて眠っている。
ついさっきまで、私とレオンに構って構ってと隣の部屋で大騒ぎしていたのに、部屋に入れてあげたとたんにすぐにころんと寝てしまって、まったく自由気ままな子。
私は気まぐれなエルポと寂しがりやのレオンのために、水と珈琲を用意してから、彼の下にそっと近づく。
ベッドテーブルにそれを置いて、私は彼の隣に腰かける。
「私は貴方のカウンセラーじゃないもの。はいどうぞ、患者さん。何かお悩みはありますか……なんて、聞いてあげたりはしないわ」
「ひどいなあ。少しくらい慰めてくれてもいいじゃないか」
「貴方が私のところに転がり込んでくる時なんて、大抵奥さんと喧嘩した時でしょ? 別に貴方が自分から話しかけてくるのを止めたりはしないから、勝手に話せばいいんじゃないかしら」
彼はぶうたれながらエルポを抱きしめる。
彼のそういう子供っぽい所作は嫌いじゃないけれど、ぐっすりとお休み中の猫にそんな邪魔な事をするのはどうだろうかと私は思う。
案の定、エルポはふがあと抗議の声をあげて、レオンの腕を振りほどいて脱出し、私の膝の上に飛び乗って丸くなる。
「ちぇ……猫の癖に!」
「貴方は少し自分勝手なのよ。だから猫にも奥さんにも逃げられるんだわ。それで?」
「それで……? ああ、嫁の話か。マリーはなあ、あんたも知っての通り今妊娠六か月目なんだがな、ちょっと口論になって実家に帰っちまったんだよ」
「よくある話ね。妊婦で良かったわね、浮気される心配がないわよ」
「ひ、ひっでえ。お前がそれを言うのかよ」
彼は起き上がってぬるめに作っておいた珈琲をぐびぐび飲むと私の隣に腰かけて、奥さんが逃げ出した話の続きを始める。
「まあ、浮気に関しちゃ疑ってない。愛されているからね、俺」
「そのくせ自分は私と不倫してる癖に、悪い旦那さんね」
「俺だってマリーの事を愛してるよ。あんたとの関係は、ただの息抜きだよ息抜き」
「自分勝手なこと。それで、口論の内容って? どうせ貴方が悪いんでしょうけどね」
エルポにそぉーっと手を伸ばして撫でようとする彼の手を叩いて止めながら、私はかれの言い分を聞いてみることにする。
彼は大げさに痛がるふりをとりながら、恨めしそうに私の事を睨みつつ話を続ける。
「昨日病院に行ったらなあ、医者に子供の成長は順調ですって褒められて、俺たち二人は大喜びしてたんだ。何せ初めての子供だったから、無事に生まれそうってことが判って嬉しかったんだ」
「あら、おめでとう。一応お祝いしておくわね」
「それは皮肉か何かか? ……ともかく、診察の結果を受けたところまでは良かったんだ。だが次に、医者の奴がなんて言ったと思う? 当ててみせろよ、あんたも医者だろ?」
「生憎、私は産婦人科の講習なんて受けてないから、判らないわ。なぞかけなんていいから、早く答えなさい」
「のりの悪い奴。ああ、医者の奴がいった言葉だがなあ、診察が終わった後にこう述べやがったんだ。『奥様はバロウル出産を希望なされておりますが、出産の希望日時などはございますか? 分娩が早まらない限り、ご希望の日程でお取り上げする事ができますが』だとよ! あいつ、俺に黙ってバロウル出産で産むつもりでいやがったんだ!」
「あら貴方、今どき自然分娩主義者だったの?」
レオンはありえないものを見たとでも言いたげな顔で、私の事をまじまじと見つめてきた。
あらやだ、これだから男ってやつは。
自分の意見が通らないと、すぐ顔に出てこっちを睨み返してくるんだから。
「ああそうかい、あんたも一応女だもんな。女の敵は自分の敵ってわけか」
「違うわね、私は医者としてあなたの奥さんに同情してるのよ。まあ私の意見は後で聞かせてあげるから、まずは貴方が奥さんに言われた別れ文句を教えて頂戴な」
「別れちゃいねえ! 俺たちはまだ離婚なんてしてねえよ! ったく、あんたやっぱり性格が悪いよ。で、喧嘩の続きぃ? 俺があいつを問いただして、なんとかやめさせようって説得してたら、急にマリーが切れだしてだなあ、こう言いやがったんだ。『あんたなんか自分で子供も産めない癖に偉そうなこと言わないで! そんなに文句を付けたいなら、貴方が産めばいいじゃない!』だとよ。何言ってるんだか、あいつ……」
私は想像してみる。
産婦人科の主治医の前で、夫相手に啖呵を切って出た妊婦。
取るものも取らず夫の静止を振り切って、そのまま直で実家に凱旋する妊婦。
あっははははは。おっかしい!
「おいおいおい、なにもそんな爆笑することはないだろ。あんた、人が傷ついてるって言うのに、そりゃないよ」
確かに貴方もそれなりには傷ついているのかもしれないけど、それは貴方に共感性がないからよ。
本当に傷ついているのは奥さんの方。けどそれ以上に哀れなのは、目の前で痴話喧嘩を繰り広げられてしまった医者の方ね、ふふっ。
私は膝の上のエルポを抱き上げながら、くっくと笑いをこらえる。
馬鹿な旦那さんが居ると、みんな苦労するわね、ふふふ。
「私、急にあなたの奥さんに会いたくなったわ。好きになれそう。友達になりたいわね」
「お、おい何突然言いだしてるんだよ……やめろよ、そんなことするなよ?」
「冗談よ。流石に強気の妊婦様相手に私たちの関係を暴露して、刺殺されたりしたくないもの。それで、奥様に逃げられた貴方は、私に慰めて欲しくてここまでやってきたのね。追いかけたりせずに。無様だわ。自分の非を認めたくないのね。謝っちゃえばよかったのに」
「……あんたんところ、来なきゃよかったな。いじめっこめ」
「大の男がいじけるもんじゃないわね。パパさんになるんでしょ? ほら、エルポを抱いてもいいから、機嫌直しなさい」
レオンは黙ってエルポを受け取って、ごろんとベッドに寝転がって添い寝をしている。
いじけちゃってまあ……。少し言い過ぎたことは認めるけれど、貴方だってずいぶんな台詞を奥さんに吐いたのよ、まったく。
「それじゃあ、一つ一つ解決していこうかしら。まずは、奥さんの言った台詞。貴方が産めばいいじゃないってやつ、あれ多分可能よ。実例は無いけれど」
「はああぁっ!? ちょ、おいまて男が子供を産――いてっ! こいつ、ひっかきやがった!」
「大声を出すからよ。エルポー、こっちにおいで。びっくりさせちゃってごめんね」
「俺の心配はしてくれないのか……いてて」
浮気の相手より愛猫よ。ふしゅうふしゅうと威嚇の声をあげているエルポをゆっくり抱き上げて、レオンが寝ている側とは反対側のベッドにそっと乗せる。
エルポはまだ気が立っているようだけど、怒りが収まるまで放っておいて、今は彼の相手をすることにした。
「そうねえ、奥さんの子宮と胎児をそのまま貴方のお腹に移植する方法と、貴方の細胞を採取して培養した模造の子宮で育てる方法。どちらも試すことが出来るわよ。やってみる?」
「い、いやだ……! そんなの、自然に育った子供じゃない! 不自然だ、気持ちが悪いだろう?」
「そうかしら、案外誰も試していないだけで、一度症例ができたらブームになるかもしれないじゃない。それこそバロウルみたいに」
「いや……いやいやいや、それは……無理だろ……だって……いや……」
だんだんと小声になっていく彼。どうやら完全には否定することが出来ないみたいね。
まあ実際の所、法律的に考えると母体から一時的にでも取り出した時点で出産扱いになりそうだから、難しい所ではあるのだけど……それは彼には伝えないでおいた。
だって、男が悩んでいる姿ってとてもセクシーで興奮するんだもの。
「古いコメディ映画にもあるわよ、似たような話。あっちは確か流産防止用の新薬を試す過程で、流産のリスクを減らすなら男に出産させればいいのではないか、みたいな話だったような記憶があるわ。貴方その映画見た事無いのね」
「ねえよ、そんな気味の悪そうな映画は。そもそもどうやって産むんだよ、尻の穴からか?」
「そりゃあ帝王切開よ。お腹をずばあと切り開いて、そこから胎児を取り出すのよ」
「うわぁ……」
自分のお腹が引き裂かれていく姿でも想像したのかしら、彼はお腹を大事そうに数度撫でながら、少し身を引いていた。




