乙女の蛹 その2
ピーターの住むアパートは、やや路地裏側に面する八階建ての古い建造物だった。
エレベーターの類は無く、建築年数も不明。一部屋あたりの面積が広いが部屋数が少なめで、物置込みの四LDK。
陽当りの悪さが難点ではあるものの、雨漏りやかび臭さの問題は無く、値段も手頃。
兄妹二人で暮らすには何不自由ない良物件の四階に住まいを構えていた。
そのアパートの階段を、ウェンは少しだけ辛そうに登っていた。
アメリカ全体で見てみれば、背の低い部類に入る中国人種のウェンからすると、このアパートの階段の段差は高すぎるのだ。
もう少しグローバルなサイズにしてくれればいいのにと、誰に向けてか愚痴をこぼしそうにもなるが、苦情を受理してくれる相手なんて当然居るはずもなく、足の甲が痛くなるのを必死に我慢しながら登り切る。到着。
ウェンは少しだけ立ち止まり、息を整え直すと、よいしょと全身をジャンプさせるかの様に身を跳ねさせて荷物を抱え直す。
少し塗装の剥げかけた廊下を進み、突き当りの部屋に辿り着いたらおもむろにベルを鳴らした。
ピーターの部屋、アリシアの部屋だ。
待つこと、ほんの数秒。ガチャリと扉が開き、白い肌の少女が現れる。
そしてただ一言、
「ウェンさん、本日も宜しくお願いします」
それだけを告げて、奥へ引っ込んでいく。
今日もまた、そっけない態度だ。とはいえ一ヶ月以上の付き合いがあれば、流石にそれにも慣れてくる。
ウェンは一旦荷物を玄関に置いて靴を脱ぎ、バッグから自前のスリッパを取り出してそれを履く。
荷物を抱え立ち上がった頃には、もうすっかりアリシアの影も形も見つからない。
相変わらず素早い奴。本当に目が見えてないのかしら。
ウェンはいつも疑問に思うくらい、アリシアの行動は素早く、そして密やかだ。
勝手知ったる我が家の中であろうとも、多少は躊躇したりゆっくりと確認するように歩くものとウェンは想像していたのだが、アリシアの生活を眺めているとそれは間違いだったのかと疑いたくもなるのだった。
少なくとも、ドラマの中の全盲者はもっとよたよたとしてたはず。それともあれは、中年男性だったから?
ウェンの疑念は尽きないが、質問はしない。
アリシアとの真っ当な会話が成立しそうにないから――と、いうわけではない。単純に、両目が見えないのにどうしてそんなに素早く動けるんですか? なんて無神経なことを尋ねるのが非常識すぎるだけだからだ。
「ま、人それぞれよね」
誰に問いかけるでもなく、ウェンは一言だけ洩らして台所に向かう。
テーブルの上にあるのは折りたたまれたパン袋。シンクの中には使われた食器とマグカップ。
いつも通りの光景にため息も出ず、ウェンは無心で冷蔵庫に食料品を詰め込む。
前日に作り置いた炒め物は無い。どうやら食べ残しは無い様で、一安心だとウェンは頷く。
これなら今日も、買い込んでおいた食材を余らせることは無さそうだと、満足げにほほ笑む。
次の訪問介護の日は三日後なので、もしも材料を余らせるような羽目になったらどうしようかと思っていたが、その心配はなくなったので一安心だった。
むろん食材費は雇い主であるピーターの口座から支払われているので、食べ残されようと、廃棄されようとウェンの懐は全く痛くないのだが、やはり完食してもらえた方が気分が良いのも確かなのだ。
本来なら、訪問介護員が介護対象者以外の食事の用意をするのは業務規定外の行動であり、契約違反なのだが――自分の方から自発的にやる分には問題が無いはずだ。ウェンはそう捉えていた。
何せ、契約相手は十七歳。まだウェイの五番目の兄弟と同じ年齢だ。
ハイスクールに通学していてもおかしくない年齢で、しかも当然食べ盛り。
お腹いっぱいに食べさせてやる義務が――無いのだが、それでもちょっとくらいは気を利かせてやってもバチは当たらないだろう。
自覚は無いが、ウェンはアリシアに対して自分が抱え込んでいる虚脱感の代償行為として、ピーターを相手取っているきらいがあった。
ばたん。収納を終え冷蔵庫を閉じる。
通勤中にたてておいた予定を消化する作業に入る。
朝食後の後処理を済ませる。シンクの清掃をする。ついでに食器類を棚から出して拭き掃除を済ませる。
続けて洗濯物を処理にかかろうと籠を掴んだところでふと手を止める。
またか。ウェンはため息をつく。
籠の底の方で適当に折りたたまれた状態で突っ込まれているピーターの服に関しては、何も言うまい。
家族の衣服を洗濯する義務はないのだが、一つ洗うも二つ洗うのも手間はほとんど変わらないので、ウェンはそこは気にしないでいた。
問題なのはアリシアの方――ピーターの服の上で、きれいに折りたたまれた状態で置かれているワンピースや下着の類。
おそらくは目の見えないアリシアの為にとピーターが気を使っていると思われるのだが、アリシアが身に着けている衣服の類はすべからく手触りや着心地が重視されているものが多い。
健常者が備えている五感のうち一つが損なわれている分、他の感覚を楽しませるためではあるのだが、質感に拘るとなるとどうしても高級な素材になりがちだった。
当然ピーターは金持ちではないため、あくまで彼が購入できる上での、そこそこ良質な素材で作られた服なのだが、やはり普段着としては少しお高めの衣服が多かった。
得てして不思議な事柄ではあるのだが、高級なものほど手入れが難しいものである。
摩擦に弱いもの、水に弱いもの、他の素材と一緒に洗うことが難しいもの、盛りだくさんだ。洗濯時には気を付けなければならない点の一つである。
シルクやカシミヤなどといった天然繊維をまさかドラム式洗濯機で洗うわけにもいかないため、この手の素材は手洗いあるいはクリーニングに出すのが一般的だった。
ウェンはアリシアの衣服に目をやる。一目で判る。これはいつもよりたっぷり高級な方の素材であると。
成分表を見るまでもない。触らずともわかる、滑らかな質感。
はぁとため息をつく。やっぱりお金の使い方が間違っていると、ウェイはあきれる。
倹約すればもっと別の生活ができるだろうに、もっと別の使い道があるだろうにと、お金のことばかりが頭に浮かぶ。
倹約、倹約、倹約。
自分がどけちにでもなってしまったようで、ウェンは軽く自己嫌悪に陥る。
やめよう、お金のことを考えるのは取りやめにして、自分がこれからどうすればよいのかをウェンは筋書き立てて計画を練る。
ランドリーで雑誌を読みながら暇をつぶす予定は却下。ピーターの衣服を突っ込んで自動洗濯させている間に、ぬるま湯で手もみ洗いする方向に軌道修正。
テーブルか何かの上にタオルを敷いて、その上にワンピースを広げて吸水乾燥させながら、アリシアと自分の分の昼食を作る。
食べ終えた後はワンピースの下に敷いていたタオルを交換しつつ、洗濯が済んだはずのピーターの衣服と共に乾燥機に投入。
後は適当に、掃除で時間を潰しながら退勤時間まで場を繋ごう。ウェンはものの二十秒で筋書きを改めた。
であれば後は行動するのみ。
どうせ返事も返ってこないだろうと、ウェンはアリシアに声をかけずに地下へと降り、ピーターの衣服を空いている洗濯機に放り込む。
兄の方の素材は適当なものばかりなので、いちいち気にしない。安物の合成繊維ばかりなので、多分ウェンがうっかり破いてしまったとしても気に留めることもないはずだった。
だからウェンも、気兼ねなく洗濯機に叩きこんで、スイッチ。規定量の洗剤を放り込んで、ふたを閉めれば後は終わり、踵を返して四階へ。
往復移動に膝の甲が再び痛くなってくるが、それを無視し風呂場にある大き目のタライにお湯を張る準備に入る。
このタライはウェンがピーターに進言して買わせたものである。
ろくでもない洗い方で素材が痛んでいると文句を付けたら、次の日には用意してきたプラスチック製のタライだ。
どのくらいのサイズなら丁度いいのか分からなかったので、とりあえず大き目のものを買ってみたんだ――とは、ピーターの談。
だがよりにもよって大型犬のシャンプー用としか思えない、直径1メートルほどのタライを買ってこられた日には、ウェンも呆れを通り越して笑いがこみ上げてきたのだった。
何事にも限度というものがあるが、この雇い主は何をするにしても調整が下手なんだなと、その時ウェンは確信したのだった。




