序章
時は昔、人々にまだ草木を愛す心が芽吹いていた時代に一人の侍がいた。その名は飛天丸と言う。彼は時折、町にはびこる役人の賄賂の受け渡し現場や売春宿に出入りする男女を見ていて、つくづく虚しさを感じずにはいられなかった。この世とはこんなに汚されているものかと。村や大きな町へ出向くとたまに下手人の処刑現場に出くわすことがあった。ある時、彼がたまたま村で処刑が始まる現場に出くわした日のこと。ひどく年を取った下手人だと思い、その処刑が執行される間、人々は罵声を言い続け、石や棒切れなどで何百回も下手人に向かって投げたり、ひっぱたいたりした。刑が施行される前から、罪人に対してかなりの仕打ちを町人たちは行っていた。彼が見物している横で、一人の老婆が冷ややかな笑みを浮かべながら下手人が痛めつけられる様をあざけわらっていた。恐る恐る、彼は老婆に尋ねた「もしもし、あなたはなぜそんなに笑っていらっしゃるのですか。」老婆はその問いに問いに対してこう答えた。「あれは私の夫だったのですよ。へっへ」気味の悪い笑みを浮かべながらそう言い放った。「ならなぜ、笑っていられるのですか。」そう疑問を持ちながら問い返すと、「あいつは私がいながら他の若い女に手を出し、あまつさえ、その浮気した女と一緒に住みたいから家から出て行けと罵り交じりに言ったもんですから、村の衆に協力してもらって拷問にかけていたのです。」と話をしながらますますその老婆の顔に狂気が混じったような気がした。「そうですか、それは確かにご主人が悪いですね。ところで、そもそもご主人が浮気した理由を聞きだしたりはしていないのですか。」飛天丸はそう質問した。「いやいや、浮気したんだからどんな理由だろうと許しはしないよ」老婆はそう言った。だが、事の真相を明らかにせずに結果を急ぐことのほうが飛天丸にしてみればいささか奇妙に感じるのであった。「すみませんが、ご主人は建前だけをみれば罪人として見られてもおかしくはないでしょう。ただ、どんな行いをしたにせよ、目に見えるものだけ見ていては、我々は真の意味で盲目になってしまうのではないでしょうか。もしよろしければ、この調停の見届け人を引き受けてもよろしいでしょうか。」飛天丸が説き伏せるように言葉を紡ぐと、「わかった、あんたがそこまで言うなら旦那の話を聞いてやんな。」老婆は恨みがましい表情を浮かべながら下手人のもとへ連れて行ってくれた。町人たちに軽く制止をし、早速、下手人に話を聞こうとするが、町人たちにひどい暴力を受けたせいで目の上が大きく腫れていたり、口や鼻から血が出ていたり、とにかくひどい有様だった。「もしもし、私のことが見えますでしょうか。」そう尋ねると、「う..ぁ...痛い..ぐっ...くそ..」下手人もとい老婆の旦那はやっと声が出せる状況であった。この状態ではろくに話が聞き出せないと思い、飛天丸は一旦、その老夫婦の家であった母屋に元旦那を運んだ。入ってみるとそこには旦那が浮気して連れてきたであろう若い女が見知らぬ男に着物をはだけさせながら絡み合っているではありませんか。「あんたたち、いったい何をやってんのよ」老婆がそうまくし立てると「何って彼と愛し合っているだけじゃない」と平然と女は言い返した。さすがに飛天丸もこの現場を見て状況がすぐには理解できなかった。いや、理解することから逃げようとしている言ったほうが正しいのか。なにしろ、旦那は若い女と浮気して、その女はというと他の若い男と浮気しているではありませんか。これじゃ現実から目をそむけたくなるのも必然じゃないか。ふと、そんなことを頭によぎらせていると旦那のことを思い出し、床に寝かせて額や体の流血を水で濡らした布でふき取ってやり、家の中にある清潔な手拭いで傷を覆った。そんな様子を見ていた若い女は「ねぇ、なんでこの人はこんなに傷を負っているんだい。」と今さっき外で起きていたことなんか興味がなかったかのように言い放った。「嘘だろ、なんであんたは知らないんだい。仮にも、好いていたんじゃなかったのかい。」飛天丸はそう言ったが、女から返ってきたのは、「いや、好いていたわけじゃないのさ。ただ、私に惚れ込んで貢物を送ってくれる都合のいいやつだと思っていただけさ。」これを聞いて旦那は「おまえ..なぜじゃ...心からおぬしのこと愛しぬくと誓っておったのに」と弱弱しく口を開いた。それに対して女は「女を信用するほうが悪いのさ。見た目や色気だけに惑わされて、その女の中に潜む妖を見抜けないお前さんの力量のなさに問題があると思うがね。男とは本当に女のこととなれば己の欲望を満たしてくれるはけ口としか考えない。醜いのはあんたら男さ。そうだろ、ねぇおまえさん。」そう言って男の顎に手を添えて口を近づけて囁くと、男は女狐にたぶらかされているような恍惚とした表情をしていた。この女の言う通り騙されるやつが悪いと言ってしまえばそれまでだろうなと思った。飛天丸の心の中で旦那に対して同情を向けていいのか、それとも蔑む目をむければいいのかわからなかった。そんな葛藤をしまうように、いまは旦那に対して何らかの処遇を与えなければいけないのだが、今しがた、女の言葉が体の中に入ってきて異様な冷たさを腹の中に感じた。とりあえず、女にまとわりつく男を外へ追いやって、当事者の立ち合いのもと、判断を下す。だが、此度の責任の所在は一体どこにあるのだろうか。ふと、その疑問が頭のなかに湧いた。冷静に考えれば、女を見る目がない、そして女房に対して不貞を働いた旦那の責任として旦那を切り捨ててしまうこともできるが、本当にそれでよいのだろうか。そうやって少しの間考えていたら、老婆が「なに考えこんでいるんだい。旦那を早く切り捨ててくれ。あんたのその刀は正義を為すためにあるんじゃないのかい。怖気づいて切りたくないんなら、私が旦那に引導を渡したいよ。」とそろそろ我慢が限界に達したのか、老婆は鬼の形相へと変わっていた。それはまさしく今すぐ罪人をよこせと叫んでいる地獄の獄卒たちのようであった。そんな怒気交じりに老婆が迫るさなか、目を瞑りなにか名案が浮かばないかとまた愚かにも黙ってしまった。それが、引き金になったか老婆は胸倉を掴み、腰に帯刀した鞘ごと奪い、飛天丸を押しのけ、次の瞬間に床に寝ていた旦那の胴を真っ二つに切り捨てた。ほんの少し前に、町人から散々な目に遭い、惚れていた女からは捨てられ、挙句に女房だった女から躊躇なく切り捨てられる羽目に遭うとは、いささか罪人といえど、無念であったろうに。いやそもそも、罪人と言えたのであろうか、飛天丸の心とは関係なく老婆は血を吸った刀を鞘に納め、平然とした様子で「ほら、終わったよ。もうあんたにも用はないから、ついでにこの屍の後始末も頼めないかい。山奥にでも埋めてきておくれよ。」と言いながら、飛天丸に刀を返した。「ほらあんたも、さっさとあたしの前から消え失せてしまえ。」その言葉を女に向けて言い放ったが、女はあまりの出来事に袖で口元を隠して目を見開いていている様子であった。「あ...あぁ...」完全に腰を抜かしている様子で、仕方なく自分の肩に女の腕を掛けて外へと連れていく。無論、旦那の亡骸を老婆からもらった風呂敷に詰めて一緒に。その時外に出てみると、外に追いだしていたはずの男がいないではないか。どうしたものかと疑問に思っていると女が正気に戻ったのか、「もうあいつのことなんかほっとけばいいのさ。」と言った。飛天丸もこれ以上探すの野暮だと思ったのか、女の言う通りに、男を探さずにそのまま山の方へと向かった。だが、飛天丸は遠くの方で男が町娘に口説いていたところを見逃してはいなかった。そのとき、男と一瞬、目があったのかこちらに気づくと軽くほくそ笑んだような気がした。早くしないと腐敗臭と血が滴ってしまうと思い、早足に山へ埋葬しに行こうと思った矢先、女が付いて来るではないか。そして、女は轟天丸の横に来たかと思うとその艶やかな腕で、飛天丸の腕に手を添えながら、蛇のごとく胸元へと絡みつかせるように抱き寄せた。同時に、肩もこちらに寄せてきて、香の匂いが鼻から入り、心臓を撫でられたような心地がした。「ねぇ、あんた。私は見ての通り、男に今しがた捨てられちまったんだけど、いやあいつが多情なだけか。まぁ、とにかく今は一人にしないで欲しくしないんでおくれよ。どうか、一夜の宿だけでも一緒に借りてくれないかい。」と素振りからして手馴れているのが見え透いていたが、この時、男としての本能が理性を鈍らせる。最初にこの女が近づいた時点で、この女の張り巡らせた糸に引っかかったというわけだ。正常な判断を鈍らせる匂いを放ち、磨き抜かれた所作で男を食い殺す。まさにこの女こそ女狐と呼ぶに相応しい。唾を呑み込み、この女の言うことに返事をしようとしたその時、絡まれていない腕の手に持っている風呂敷が目にはいった。その時、この旦那の無念を思うとこの悪女に対して小さくはあるが、怒りの灯がついた。そのおかげで、なんとか誘惑に屈することなく、「そうだなぁ、まずは旦那の弔いが先だ。それから、答えてやろう。」そう答えると、女は少し不服そうだったが、「それで構わないよ」と身を引いたように感じた。少し歩いていると、不思議と飛天丸はこの女に名を聞きたくなった。決してこの女に興味を抱いているわけではないのだが、なぜか聞きたくなったのである。「そういえば、名はなんというか」そう問うと、「名はないのさ。そうだね、遊郭で言われているのは翠蝶ノ太夫っていわれているね。あたしが実力で勝ち取った名さ。下の子たちからは翠の姉さんって呼ばれてるねぇ。」そう言うと「花魁というわけか、ではなぜ、お前がこんなところにいるのか」そう尋ねると、「身請けしてもらったのさ。だけど身請け先の男がとんだ女狂いでとっかえひっかえに女を招いては自分の妻にしてしまうのさ。そんなやつだから、隙をみて抜けだしてきたのさ。」そう言った翠の目は強いまなざしをしていた。「それで、逃げたはいいけど、住む当てもなくて、路地でうずくまっていたところに、たまたま私に声をかけてきたのが旦那だったんだ。」そう言った翠は空に目を向け、思い出すように言葉を発した。「でも、所詮は旦那も私に好意を寄せていたんじゃなくて、結局のところは体目当てに寄ってくる遊郭に来る男と変わらなかった。」そう言い放つと、「あの逃げた男もたまたま私を見かけて言い寄ってきたにすぎないのさ。それで、わたしもどうでもよくなってきたから、家に招き入れてたんだよ。」と、歩きながら翠の話に耳を向けていると、飛天丸は「確かにいまから戻ったとしても、切られてもおかしくはなかろうな。」と言った。それと、この女に対して情けの感情を抱いてしまうことが正しいのか悩んでいた。町を抜け、山を目指すが「なぁ、いっそのこと、そこらへんの草むらにでも捨ててしまえばいいのではないのかい。」と翠は言った。それに対して「例え形はどうであれ、頼まれたのだから、最後までやり遂げねばなるまい。」と言い返した。だが、翠はそんな発言に冷ややかに目を送り、「もう死んでいるのだから、いつまでも持っておく方が返って邪魔じゃないか。それに、私は早く宿にでも泊まりたいのさ。あんたの律義さにはうんざりだよ。」と投げやりに発言したその言葉に、飛天丸は怒りを覚えた。なぜなら、どんなに人間だろうと、その生き様がどれだけ日の目を浴びることがなかったとしても、どれだけ身分が低いとしても、どれだけ虐げられてきたとしても、死ぬ瞬間には人間として尊厳のある終わり方を与えてやるのが、せめてもの自分にできることだと信じていたからだ。時として、そういう者たちを救ってやれなかった経験が蓄積していき、寝ているときに、何度も夢の中で必死の形相で死を免れたいと訴えてくる人間たちが亡者となり、地獄へと落そうとしてくるのだ。そういった経験があるので、翠の無遠慮な発言にこう返した。「ならば、おぬしは遊郭にいたのであれば下の者たちがどれだけ苦労をして、その日一日を生きるために必死か理解しているはずではないのか。お前とて、捨てられた人間の気持ちがわからないわけがなかろう。例え、それが死者だとしても安らかにあの世では暮らせるにしてやるのが我々生者の務めではないか。もし、弔うことが無意味だとしても、今を生きている者みな死んでいった者たちの屍の上に生きていることを忘れてならない。お前の美しさとて、永遠に美しはずがない。移ろいでいくのだ。そして最後は、無へと帰すのだ。」飛天丸のあまりの勢いに翠はしぼんでしまい、「あたしが悪かった。」と一言だけ呟いた。その後、山頂付近にある町人たちの墓地へと着き、そこで遺体がすべて入る程の穴を手で掘り、最後は埋めてそこに、近くにあった卒塔婆に経文を彫り、それを土の上から差した。道中、黙り込んでいた翠に声をかける「さて、お前への返事だが...」と言葉を考えながら紡いでいくと、ふと、翠に対して自分が言い放った言葉を思い返し、自分がこの場でこの女を捨ててしまえば、こいつはきっと今後の人生も負の連鎖から逃げることなどできないのであろうと、考えが巡り、「よし、ならば町へ戻り今晩だけは軒を貸してやろう。ただし、すこしでも家財を盗むことがあれば、切り捨てられても文句をいうなよ。」と強がってそう言うと、「ああ、もちろん感謝するよ。さすがにここまできていまさら迷惑をかけようだなんて思わないさ。さすがにあんたに言われた言葉が身に染みたよ。どうぞ、あたしが、泥棒のまねごとをした日には切り捨てても構わないよ。」と言葉を投げた。その態度から飛天丸は柔らかく笑みを返した。帰りは日も落ち始めてきて、道すがら、翠との出会いが自分にとって今まで遊女といったものが卑しく、女を男の慰み者にし、その男たちもまた人ではなく獣として見ていなかったが、自分の見えている風景だけがすべてではないのだと、改めて気づかされたのである。