決戦・3
今や天使たちの軍勢は、総崩れの状態に陥っていた。
二十万からなる勇猛なる戦士たちが、たった1体の邪神の、ただ1度の攻撃によって、壊滅させられてしまったのだ。先程まで威勢よく宙を飛び回っていた者たちも、今では力尽きたように次々と地に堕ちていくだけである。
「なんということ……」
その惨憺たる様相を空高くから眺めながら、救済の女神アリシアは歯噛みをした。
止めはした。だが、天使たちはまったく聞き入れようとしなかったのだ。
皮きりになったのは、最近になって創造されたばかりの、まだ闘いを知らない若輩たちの無謀な突撃だった。彼らは、虚空から出現したあの不定形の汚物を目の当たりにして、一度は怯え、そして即座に侮った。
あんな醜く下等な存在に、敗れることなどありはしない、と。
そして同時に、こうも思った筈だ。あんな得体の知れない不死人どもに、大人しく従ってやる必要などはない、と。
「無事だったか、アリシア!」
不意に、声がかかった。そちらを見ると、宙を蹴りながら駆け上がってくる女戦士の姿がある。同輩である戦女神だ。
「ルイン! 貴女も!」
「ああ。だが他の連中は、もう闘えんな」
アリシアの眼前に制止しながら、ルインが言う。その身にまとう古のハーフ・オーガの部族の鎧には数本の亀裂が入っており、艶のある黒髪の奥の白い肌には蚯蚓腫れも見えた。
現界するにあたって物質的な肉体を形成したので、先の尋常ならざる雷撃によって損傷を負ったのだ。だが、紅潮した頬に爛々と輝く2つの瞳は、未だに彼女の戦意がまったく折れていないということを示している。
アリシアもまた、羽をいくらか焼かれた程度で済んでいるのだ。2人共に、まだまだ継戦は可能だった。
しかし、その一方で……
「私の軍は、これ以上の戦闘は不可能だ」
「ミカエル!?」
大きな翼をはためかせながらやってきたのは、天上軍の指揮官であるミカエルだった。白い衣はほとんど千切れ跳んで半裸の状態。左右の翼は無残にも真っ黒に焼けこげ、最早満足に飛ぶことすらできそうにない。長い金髪もぼさぼさに散らかっており、いつもの美丈夫は見る影もなかった。
「酷い有様だな」
「……言い訳はせん。笑わば笑え」
眉根を寄せるルインに対し、ミカエルが悔し気に顔を歪めながら答える。
「私は全軍をまとめ、一時撤退する。お前たちは、時間を稼げ」
「時間を? あの不死人どもと連携して邪神を滅ぼせ、ではないのかな」
「自惚れるなよ、紛い物めが。私たちが主上の御力で癒していただくまで、奴を足止めしろと言っているのだ。それ以上は望まん」
「ミカエル、それは……」
アリシアが口を挟もうとするが、天使の長はすぐに身をひるがえした。さらに天高く、生まれ故郷である天上へと昇っていく。
するとその後を追うように、他の天使たちも翼をはためかせ始めた。傷いて使い物にならなくなった肉体を捨て去り、幽体のみの姿となってミカエルを追う。その際、アリシアやルインに対して声をかけるどころか、見向きをする者すらいなかった。
「やれやれ。あやつめ、終ぞ『すまない』とも『頼む』とも言わなんだ」
「……仕方がありません。あの方にも、立場というものがおありですから」
鼻を鳴らすルインに対し、アリシアが哀し気に言った。
アリシアやルイン、そしてジーグは、元は人間という取るに足らない矮小な存在だった。それが何の間違いか、死に際に名も無き創造主によって拾われ、今や新たな神々として地上の信仰を集めている。
太古の昔よりこの世界を守護し、数多の邪悪な者どもを打ち破ってきた天使であるミカエルやその部下たちが、アリシアたちのような歪な存在を快く思わないのは当然だ。
アリシアとて、敬虔な1人の娘であった頃に祈りを捧げていた対象から、今では嫉妬を買っているとなれば、複雑な思いを抱かずにはいられないが。
「それにしても、この体たらくではな。軍を壊滅させるなど、将としては自害ものの失態だぞ」
「あの方も止めようとはなさっていましたが……やはり、若い者たちを抑えるのは難しいのでしょうね」
「それで私たちに当たられては堪らんよ……さて」
ルインが、ぐるりと視線を下方に巡らせた。アリシアもまた、それに続いて顔を下に向ける。
「それで、ヤツは何故追撃して来ない? 絶好の機会ではないか」
「ええ、妙ですね……」
2人の視線の先でぽつねんと立ち尽くしているのは、闇の巨人だ。現れた当初は黒く醜い泥の塊でしかなかったというのに、今では逞しい肉体へとその姿を変えている。背中に生えている翼のような何かを除けば、概ねあの老人から聞いていた通りだ。
だが不思議でならないのは、あのすさまじい電撃を放った後は、ああしてただこちらを見上げるばかりだということだ。敗走する軍など格好の的だというのに、2撃目、3撃目を放とうとする気配がない。こうして2人で語らっていてなんなのだが、いったいどういう積もりなのか。
ぎょろぎょろと不気味に蠢く目玉の集合体を睨み返しながら、ルインが言った。
「まるで私たちを観察しているようだな。気味が悪い」
「スィス老人が言うには、あの邪神には“真似る”という特性があるそうです。先の雷も、天使たちの“雷槍”を真似たのでしょう」
「すると、次の私たちの出方を待っているのかも知れんな。そうだとすれば、下手には動けんぞ」
「……なるほど、そういうことですか」
「うん?」
そこでアリシアは、納得がいったように一人頷いた。訝るルインに構わず、薄衣の中に手を突っ込む。そして取り出したのは、小さな首飾りだった。
「それは、あの老人が寄こしたものか?」
「ええ、団の魔法の品だそうです」
前回の会合時に、スィスから半ば無理やりに押し付けられていたものだ。邪神との戦闘時に、円滑な意思疎通を行うための。つまりは、あの不死人からの命令を受けるための手段である。
慣れない手つきながら教わった通りに突起に触れると、即座に回線がつながった。
『何かね?』
鎖の先の立方体から響いてきたのは、件のスィスの声だった。この大惨事を前に、相も変わらず感情の色が希薄である。だがきっと胸の内では、高笑いをあげているに違いない。
内心腸が煮えくり返るような思いで、アリシアは言った。
「ご覧になった通り、天上の戦力は壊滅状態です。申し訳ありませんが、継戦が可能なのは私とルイン、それに地上にいるジーグだけのようです」
『ふむ。それはまことに残念なことだな。我の指示通りに動いてくれていれば、このようなことにはならなかっただろうに』
糾弾するというよりも、むしろ挑発するような物言いだった。現状に対する動揺や不服は一切読み取れず、残念がっている様子も無い。
「……本当に、そうでしょうか?」
『何が言いたいのかな』
「私たちは空から。あなたたち団は地上から、それぞれ攻撃を仕掛ける。そのような手筈でしたね」
『その通りだ。その予定も、貴様らの先走りのお蔭で破綻したがな』
「ですが、それも含めて貴方の予定通りだったのではないですか?」
確かに天使たちが足並みを揃えなかったのは事実だが、仮にあの男の指示通りに動いていたとして、果たして違う結果になったのだろうか。
あの男が、天使たちの扱う奇跡の力を全て把握していたとは思えない。だが少なくとも、“貪食”が自身に対する攻撃の手段を模倣するということは、きっちりと予測していた筈だ。
だとすれば、まず初めに天使たちを“貪食”にけしかけたならば……。やはりあの邪神は、先と同じように天使たちの奇跡の力をそっくりそのままやり返してきたことだろう。そうなると結局、空中で逃げ場のないアリシアたちは一網打尽だ。
―あの老人にとっては、どちらに転んでも良かったということなのではないのかしら?
『囮に使うつもりなのか』などと糾弾しておきながら、実際にはアリシアたちを当て馬のように利用したのではないのか。そのような疑いから出た言葉だったが、しかしスィスの返答には一切の淀みがなかった。
『下らん言いがかりだな。己の不手際の原因を他者に求めるとは、それでよく救済の女神を名乗れるものよ』
「……いずれにせよ、これ以上天使たちを当てにすることはできません」
『もちろんだ。代わりに、貴様らには一層の働きを期待せねばならんがな』
やはりこちらを完全に使い潰す気のようだ。しかし、そうはいかない。邪神との闘いの中で滅ぶのは宿命と受け入れられるが、顕在化しつつある脅威を認知しておきながら、それを放置しての自己犠牲などしていられない。
遥か過去、素晴らしい仲間たちのおかげで昇神したこの身は、それほど安くはないのだ。
アリシアは、すかさず言った。
「では、空からの攻め手をもう1枚増やしていただきましょう。私たち2人では、いささか以上に手に余るようですので」
『ほほう、随分と弱気だな。我らを相手にしたときには、天使たちの援護はなかったというのに』
「私たちは、この世界を本気で守りたいと思っています。いつでも他の世界に逃げることができる貴方たちとは……」
『逃げるだと?』
その時、初めて老人の声に小さな波が立ったのが分かった。じゃらしていた子猫にそっぽを向かれて苛立ちを覚えるような、そんなわずかな感情の変化を読み取り、アリシアは驚いてしまう。
その予想外の反応に、黙って横で聞いているだけだったルインも、眼を丸くした。
『……この世界を守りたいと願うのは、我も。いや、我らも同じことよ』
向こうも、不味いと思ったのだろう。数回の咳払いの後に、また元の通りの平坦なものに戻ってしまう。
『増援は出す。もとよりそれは、そう。“予定通り”のことだからな』
やはり最後に挑発的な捨て台詞を吐いてから、首飾りは沈黙した。
しばし呆気に取られていたアリシアとルインだったが、やがてどちらともなく顔を見合わせる。
「喰えない男だな、まったく」
「ええ。私、はっきり言ってあの人が嫌いです。でもまぁ……今だけは、信用せざるを得ませんね」
首飾りを仕舞いながらアリシアが苦笑すると、ルインも笑みを返す。
「私もだ。まぁ、こちらも地上の方にジーグを配置しているのだ。悔しいが、ここまででどうにか痛み分けとしてやろう」
「まったく、腹立たしいですがね」
アリシアは少しだけ疲れたように良いながら、大きく右腕を一振りした。するとその手の中には、いつの間にか巨大な戦斧が握られている。
「では、参りましょう」
「うむ」
隣に立つルインも、腰元の刀剣に手を伸ばしながら頷いた。
あの“不死人の王”のことはまったく気に入らないが、それでも彼なりの、この世界を守ろうとする理由があるらしい。
今は、それを信じるしかない。




